あの人が愛した煙草
ふと、空を見上げれば、気持ち悪い位の青空が一面に広がっていた。すると、自然とあの人の事を思い出し、無意識の内に手は胸ポケットに伸びる。
「――禁煙は、一回休憩しよっかな」
あの人はきっとそういうだろう。自分も過去に倣って、ポケットから大分くたびれ、ボロボロになった煙草の箱を取り出す。残りの本数は、既に二本になっていた。もうすぐ、終わってしまうと思うと、なおさらこの一本を名残惜しく吸わねばならない。私は、喫煙所を探しに、歩き始めた。
私が付き合っていた先輩は、
そういった意味では、私も騙されたのかもしれない。だが、結果として残ったのは、その煙に私の頑固な心は氷解し、今では先輩を偲んで紫煙を吐く日々になったということだ。
そんな過去を述懐しながら街を徘徊していると、屋根が付いていない、所謂開放型と呼ばれる喫煙所を発見した。以前は微かに流れる副流煙目尻を吊り上げながら、足取りを早めていた忌むべき場所だというのに、すっかり自分は変わってしまったと自嘲しながら、中へと入った。
外から見た時、プライバシー保護が理由なのかはわからないが、曇りガラスによって何人かの先客の影が見えていたのだが、中に入ったことでそれが鉢植えから伸びた名前もよく知らない謎の植物であり、実際の先客は女性が一人しかいなかった。人は少ない方がご時世的にも、私のイメージ的にも好都合だ。早速鞄の中からライターを探すために、鞄の口を開いた。
「……あなた、もしかして先輩の――」
「――えっ」
「確か、先輩の同期だったと記憶しています」
「……そうよ、よく覚えていたわね」
「言われるまで気が付きませんでいた。お久しぶりです」
彼女は、先輩が所属していたサークルの同期だった筈だ。確か一度だけ、デートの最中に先輩の同期の人と遭遇して、一緒にボーリングで遊びに行ったような記憶を思い出す。彼女は今着ている服と同じ、レザージャケットを好んで来ていた筈だ。
「貴女、煙草を嫌ってなかったかしら」
「先輩こそ、あの人の煙草については文句を言ってたような気がしますよ」
思わぬ遭遇だった。あの人が逝ってしまって、まだ四十九日も経っていない。なのに、先輩の関係者と顔を合わせる機会など暫く後だと思っていたからだ。
――だが、こうして機会を得た以上、活かさない手はないだろう。
「すいません、火貰って良いですか?」
何か深い意図があるわけでもなく、自然とその言葉が口から出た。
「何もかも、突然だったわね」
互いに一服を済ませ、先輩が口火を切った。
「――本当です。やりたいこと、今なら一杯思いつくんですけどね」
「私もよ、もっと他の奴と一緒に馬鹿やってたかった……」
互いに事情を知っている者同士、そこに遠慮はなく、ただ愚直に言葉を重ね合う。会話の合間に漏れる煙がすぐに立ち消えるように、語る言葉を浪費していくことは、苦痛ではなかった。
「あのね、あの人って、貴女の事一目惚れしたらしいのよ」
「えっ、告白したの私ですよ⁉」
突如として差し込まれた思わぬ言葉に、礼を失して砕けた言葉で返してしまう。失態に気づきはっと口元を抑えたが、先輩は軽く手を振って。
「知ってるわ、だから煙草に関しては、私はずっと文句言ってたのよ。『そんなんじゃ、すぐフラれるよ』って」
「そうだったんですか……」
確かに、実際に別れようと、何回思ったかは両手両足の指では到底足りない。だが結局、私は彼の元から離れることは出来なかった。――それは、炎に群がる蛾か、恋ゆえの盲目かは、今となっては確かめようがないことだ。だが、どんな理由だったにせよ、あの目を覆いたくなるほどの多幸の日々は、もう返ってこないという現実が否応なしに付きつけられてしまう。煙草を吸うペースが心なしか早まっていく。
「あっ……」
気が付けば、口内の煙はエグ味しか吐き出さなくなっていた。次のを吸おう、そうやって煙草ケースに伸ばした手がぴたりと止まる。
「どうしたの?」
「――あと、一本になっちゃいました」
先輩が私に残してくれた、数少ない遺贈品、それをこんな説明書通りの使い方とは言え、浪費していいのか、咄嗟の判断に困った。その時、不意に先輩の言葉が脳裏によぎった。
――煙草は吸ってこそ華、酸いも甘いも飲み込んじまえよ!
今思えば、言葉も誤用しているし意味自体も意味がわからない。だが、その言葉で私の中の迷いは消えた。
自前のライターで火を付け、口元に運ぶ。あの人が愛した煙草を咥えながら、私は、あの日以来初めて泣くことが出来た。
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