夢と人魚
口を開き、紡ごうとする。しかし出てくるのは言葉ではなく、泡だった。その不便さに未だもやがかかった頭は追いつかず、ただ、何かに体を預け揺蕩う感覚が心地よく、いつまでも浸っていたいと思っていた。
ふと周りを見てみる。その時やっと、今自分は海の中に沈んでいることに気が付いた。驚きのあまり大きく口を開けてしまい、先ほどよりも大量の泡が口の中から零れる。
――溺れる
叶わないと思いつつも、必死に腕を動かし泡を口元に戻そうとする。もしこのまま息が出来なければ死――
「――っ!」
気が付けば自分は、布団の上にいた。嫌な汗がじんわりと寝間着を流れていき、またすぐにあの苦しい思いを体験してしまうのではないかと、無意識のうちに首元に手を当てる。
無事に息が出来ていることを確認し、先ほど体験した光景が、夢だという事に気が付いた。
「一体、何度目だ……」
最近、悪夢を見る。最初は二度と帰りたくないと思う程の快適さと清涼感が訪れ、それを堪能しているといつの間にか息が出来なくなり、呼吸が止まる。そんな夢をここ一週間、毎日の様に見ている。そのせいで最近はまともに眠ることが出来なくなり、遂に目の下に隈が出来るほど追い詰められてしまった。どうすれば以前の様に安眠を手に入れる事が……
「ってわけで、何か解決策はないか?」
そんなことが続き、笑われることを覚悟して、愚痴交じりに昼食を共にしていた同僚に相談を持ち掛けた。これで解決するほど簡単ではないと思うが、似たようなことを体験したことがあるなら、抵抗方法くらい聞きたい。そんな淡い期待を抱いていた。
「八百比丘尼様に助けてもらえば? すぐそばに神社あるじゃん」
「……それで解決するか?」
自分でもその程度の知識しかないのに、海で溺れる悪夢を見ないようにしてくれ、と頼んでも罰が当たらないだろうか、そもそも効果があるのか、疑問は尽きることは無かった。
「何もないなら無いでいいじゃん。取りあえず行動しなきゃ始まらないと思うぞ」
「……そうだな。取りあえず終わったら行ってみる」
こうして、一縷の望みをかけて赴くことにした。
午後七時を周り、日も落ちてきたころ、自分は八百比丘尼神社へと到着した。会社の裏手にあるといっても、山道の奥にあったため、息も荒く既に来たことを後悔している。
――これで効力が無かったら、逆に呪ってやる。
八つ当たりの様に恨み言を吐き、境内へと足を踏み入れる。だが、鳥居を一歩くぐったとき、何か雰囲気が一変したように感じた。先ほどまでは野鳥の囀りや、木々が枝や葉と擦れる音がしていたが、今は自分の息以外の声が全く聞こえない。まるで――
「海の中、大方そんな感想を抱いたかな?」
すると突然、背後から少女の声が響いた。自分は慌てて振りむいた。
「ようこそ、八百比丘尼神社へ、私はこの神社に祀られた人魚だ。よろしくね!」
――そこには、人魚が浮かんでいた。
「久しぶりの参拝客に、いきなり恨み言を吐かれちゃったらね、尊厳や沽券に関わる問題になるのさ」
あまりの超常現象に、思わず目を擦る。自分の見間違いじゃないのか、なによりこんな非現実な事が起きるわけがない。しかし、再び目の前が明るくなっても目の前には人魚が佇んでいる。
「因みに君の悪夢はこれを食べれば一発で解決するさ」
そういって何もない空中に手を伸ばす。そのまま何かを握るような動作をすると、突然人魚の手にはお盆が握られていた。
「はい、どーぞ」
当たり前のように尾をしなせ、泳ぐように自分の目の前にやってくる。そのまま手にしたお盆をグイっと自分の目の前に差し出す。そして、その上には何か真っ黒い塊が載せられていた。
「これ食べちゃって、出来立てほやほやの唐揚げ!」
目を細めて良く見れば、確かに湯気が立ち、油が跳ねている。言った通りの出来立てなのだろう。しかし、今起きている状況に全く持って理解が出来ていなかった。説明を求めようと口を開く。
「――っ!」
しかし、いくら声を出そうとしても、夢と同じように音が何も出ない。
「だから、ここは海の中なんだって。食べないと君、ここでも、夢の中でも、溺れ死ぬかもよ?」
つまり自分には選択肢など残されていなかったのだ。何もせずに死ぬなんて嫌だった。意を決して口の中に唐揚げを放り込む。
「はい、よくできました! 君は夢の中で人魚になったから、溺れずに済みます! それじゃあバイバイ!」
「おい! 説明を――」
文句を言う暇すらなく、あっと言う間に人魚は消えた。先ほどとは打って変わって、境内は騒音に包まれている。これで効果はあるのだろうか。狐につままれた気分で、神社を後にした。
××は海の中にいた。舌舐めずりをしながら、夢という網にかかる得物をいまかいまかと待っている、獰猛な狩人の目だった。
「あぁ! これでやっと人魚の肉が食べられる! 延命治療って大変なんだよね!」
嬉しそうに、どこか待ち望んでいたように、誰かが呟いた。
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