死ぬならば

 兎は一匹になると、寂しくて死んでしまうという言説は有名だ。

なら、逆説的に、自分も一人になれば死ねるのではないかと、卯佐美は気が付いてしまった。


「お前さ! なんでこんなに使えねぇの!?」

「すいません……」

 会社では、上司に罵倒され平身低頭、立場なんて吹けば飛ぶような危うい砂上でしかない。


 もう、自分には価値なんてないんじゃないかと思った日は、今日だけではない。


「おい! さっさと酒持ってこい!」

「わかったから…… あぁ、もう飲みすぎだよ――」

「ふぐぁ! ふぉがぁ!」

「はいはい、お母さんのご飯はちょっと待ってね」

 

 家に帰っても、浴びるように酒に浸る父の愚痴を聞きながら、痴呆になった母の世話をする。それが卯佐美の日常だった。しかし、どれだけ文句を述べても、相手にしてくれる人は誰もいないし、両親の介護は欠かすことはできない。二人は俺がいなければ死んでしまうのだから。やんわりと父に注意しながら、空にした酒瓶をゴミ袋に詰めている時、自分が買った瓶が紛れ込んでいることに気が付いた。

「ちょっと父さん、この酒飲んじゃったの!?」

「あぁ! なんか悪ぃか!」

 悪いなんてもんじゃなかった。これは卯佐美の唯一の楽しみである晩酌のメインの酒だったからだ。しかもこれは絶対に飲むなと厳命していたのに、あろうことか、新品のボトルを一本丸々飲み干している。

「悪いなんてもんじゃないよ! こんなに飲んでるのになんで俺の分すら取るんだよ!」

「餓鬼が親にそんな口聞いていいと思ってんのか!?」

 流石にその暴言に開いた口が塞がらなかった。母が痴呆と診断されてから、酒に浸ることも増えていたのもの、長年連れ添った家族がそうなってしまった姿にショックを受けていたからだと甘やかしていた面も確かにあった。しかし、今の卯佐美家の大黒柱は彼であり、酒を飲むことすら息子に頼っている父の言葉は許すことはできなかった。


「一体誰のおかげでこの酒が飲めているのわかってんの!?」

「俺が稼いだ金に決まってんだろ!? お前ぇこそ昼間どこにほっつき歩いてんだよ!」

 完全にアルコールの入った父の思考は宇宙に飛んで行ったみたいだ。あまりにも要領を得ない返事に我慢の限界を迎え、襟をつかんで拳を振り上げた――


「ん!! がぁ!!!」

 突如として母がベットの上から呻きだした。慌てて父を放りだし、母の元へと向かった。


「どうしたの母さん――」

「ん!!」

 母に手を伸ばそうとすると、頭を振って卯佐美の手を払いのけた。

「え……」

 今までにない行動に茫然としていると、腰に手を当てながら近寄ってきた。すると父の方を見ながらフガフガと何かを言っていた。

「ふんふん…… 母さんが、俺を虐めるなって文句言ってるぞ」

 その発言に、思わず言葉を失った。そんな簡単に意思疎通が出来たら今までの苦労はなんだったのかと笑いたくなる。

「は!? 適当なこというなよ!?」

「父さんが嘘を言うわけないだろ!? なぁ、母さん」

「ん、ふん」

 父に同調するように、母は首を頷くように縦に振った。

 その瞬間、全てがどうでもよくなった。


 そう、母は父の存在のことは覚えていて、息子のことは忘れてしまっているのだ。それがどれだけ卯佐美の心に傷をつけたのは言うまでもない。なのに、今は父の発言を同調するように頷いたのだ。


 ――もう限界だった。


 全部終わったら死のうと、その晩布団の中で決意ができた。


「出勤遅ぇよ! 今何時だと思ってんだよ!」

 開口一番にいつものように罵声が飛んでくる。しかし、全てはどうでもいいとここまで勇気がでるものだと驚いた。

「今日で会社辞めます」

「お前何を――」

「うるせぇな! こんなゴミみたいな会社なんて願い下げだ!」

 そういって、毎日の様に謝っていた上司の顔に退職届を入れた封筒を叩き付けた。周囲の人間も、上司も、そんな行動をしている卯佐美を驚きの表情で見つめている。まぁそうだろう。普段はあんなにペコペコしていた男が突如としてこんな暴言を吐いたら誰でも驚く。けどそんな奴らを尻目に、今までにないほど高揚した気分で会社を後にした。


「よし、最低限入金されてる」

 しっかり退職金が記帳されたことを確認し、予算が十分にあることを確認する。そのまま、そのお金を別の口座へと送金する。


「すいませんお世話になっております! 老人ホーム、二人分の入所金は払いました。それでいつごろから入所って可能――」


やることは全て終わった。

 ゴミみたいな会社は退職して、父と母は老人ホームへ入れた。あとはこの家を取り潰せば残っていることはあと一つだけ。その願いを叶えるため、今は駅のホームへやってきていた。


 これからやることは迷惑を周りにかけるってことは誰よりも解ってる。

でも、死ぬときくらいは、寂しがりの兎だろうと、周りの目が欲しかった。けれどあまり迷惑はかけたくないから、出来るだけ人が少ない時間帯を狙った。今は女子高生が独りだけいる。


 これ以上待てなかった。


 電車の汽笛が鳴り、腹を括る。しかし、膝が震える。

 

「じゃあ! さよなら!」

 大きな声を出し、到着する電車の線路に向かって卯佐美は飛び出す。


 ぐちゃり、肉が潰れた音が、一面に響き渡る。

 

 「えぇ……死ぬなら、独りで死んでくださいよ。邪魔くさいな」

 そのホームに居合わせた、女子高生が、そう呟いた。

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