目隠しの化物
晩夏鹿
第1話 四ツ辻の狂気01
───知らないことが救いだと思っていた。
全てから耳を塞いで、目を閉じて、背を背けていれば、と。
足を踏み入れてしまったのは俺だったのだ───
(嶺元山蕗の回顧録より抜粋)
▽ ▽ ▽
7月1日、金曜日。
1年も既に折り返しとなり、校内を右往左往していた新入生も、梅雨でダレてしまった気持ちを乗り越えたようで、キャンパスは先月よりも人が増えていた。窓の外から構内を見下ろすと、誰も彼もが浮き足立っているように感じた。
明日は何をしようか。
そう思いながら俺は、欠伸を噛み殺し、目の前の黒板からそっと腕時計に視線を移した。時計を見れば、もうすぐ12時を回ろうとしていた。
───授業終了まであと10分か。
斜め前の席に視線を向けると、見知った顔の面子が見えた。真剣に教授の話を聞きながら、レジュメにメモを書き込んでいた。
授業を真面目に受けている者のほかに、机の下でスマートフォンを触っている者、こくりこくりと船を漕ぐ者、下を向きながら一心不乱に何かを書いている者と、皆さまざまにして過ごしていた。
───授業終わったら飯食べよう。冷麺とかがいいな。
空腹を訴えてくる腹を摩りながら、ぼんやりと、俺は手元にあるレジュメに目を向けた。そして授業が終わるまで、教授の話を聞きながら、気になる部分にシャープペンシルで印を付けた。
▽ ▽ ▽
チャイムが鳴った。
「今日はここまで」という教授の言葉を区切りにして、バタバタと講義室を出ていく生徒を横目で眺めながら、片付けを終える。
忘れ物がないか確認した後、スマートフォンを開いて、誰かからメールが来ていないかを確認した。
新着メールは特にない。
公式アカウントからのメッセージが数件入っていただけだった。
食堂に行こうとしてスマホを鞄にしまうと、後ろから肩を叩かれた。
「ブキくん、今からご飯? 僕も一緒に行っても構わへんかな?」
振り向くと、斜め前に座って授業を受けていた男が、いつの間にか俺の側に立っていた。
「空木か」
自動販売機と同じくらいの身長の男、三世園空木(みよぞのうつぎ)が、にっこりとしながらひらりと手を振った。
空木は緩いウェーブがかかったブラウンの髪を、いつも丁寧にスタイリングしている名家のお坊ちゃんである。
「近い方の食堂でいいか?」
「うん、僕はどこでもええよ」
次の授業で講義室を利用する他学年がわらわらと入室して行く様子を見て、先に歩き始めた空木に追いつくくらいの速さで追いかけた。
▽ ▽ ▽
「次の授業、ブキくんも同じの取ってたよね。この間出された課題っていつまでやったっけ?」
「来週の火曜日だろ。あと、同じ日に英語のレポートも締め切り」
「あ〜、そういえば……。英語の課題、結構難しいんよね」
「あの授業、例年3分の1くらい落ちるって言われてるしな」
空木は「空木くんがいる!」「空木くんだ……」「空木くーん!」と手を振る女たちに手を振り返しながら、俺たちは食堂に向かって大学構内を歩いている。
「相変わらずすごい人気だな」
「ハハ。まあ、そういう家だからね」
空木は眉を下げて笑いながらも、そういえば、と話を切り出した。
「最近この辺りで不審者が現れたって知っとる?」
「不審者?」
「うん。深夜1時くらいやったかなあ。鴉間通りの交差点で、背後から足を切り付けられるんやって。怪我人のほとんどが僕らの大学の生徒やから、うちの人たちから、気ぃ付けてくださいって言われてんねん」
「大学が鴉間通りにあるんだから、そりゃあ怪我人もそういう傾向になるんじゃないのか?」
「僕もそう思うんやけど……うちの人たちは過保護やからねえ」
そう言って空木は苦笑いを浮かべた。
「お坊ちゃんも大変だな」
「まあね……。ブキくんって1人暮らしやろ? もし家に帰れんようになったら、うちに泊まりにきたらええよ。僕の友達って言うたら皆喜ぶと思うし」
「おー、気持ちだけ受け取っとく」
目的地の食堂に到着したところで、会話は途切れた。
「……どうする? 適当にパンとか買って他所で食べるか?」
昼休みが始まったばかりの食堂は、当然のようにごった返していた。
「折角来たんやし、ちょっと席探してみよ」
「あー……そうだな。回転率は悪くないはずだから、どこかしら空くだろうしな」
そう言い合いながら、俺たちは空いている席を探し歩き始めた。
食堂は、1つの大きなテーブルに4つの椅子が組み合わせとして置かれている。
テーブルの空席はなく、相席を考えながらも探していると、食堂の入り口からいちばん奥に、ぽっかりと不自然に空いたスペースがあった。
「あっち、空いているな。行くか」
「あそこ? どこ? ……ああ、あのいちばん奥の……」
空席を見つけられない空木に、指を差し示した。
すると、今初めて気が付きましたというような顔をして、空木は目を丸くした。
「……前からあんな位置にあったっけ?」
「新しく設置したんじゃないのか? ほら、さっさと行こう」
「せやなあ。時間も限られてるんやし、はよ席取って食券買いに行こうか」
▽ ▽ ▽
「そういえばさっき、不審者が現れたって言うたやろ?」
「うん」
昼飯を食べながら空木は口を開いた。
「あれね、僕の後輩も襲われてん。竜胆くんっていう一個下の経済学部の男の子やねんけど。その子曰く、突然足を後ろから切り付けられて、振り向いたら、髪の長い血だらけの女の人が、這いずりながらカッターナイフ振り回してたって言うてて」
「……それ、どんな状況だよ」
「僕も又聞きやから、詳しくはよう分からへんねんけど。本人も『マジでヤバかったんすよ!』としか言わなくて」
「……」
「ともかく、用心するに越したことはないと思うんよ。警察の方とかうちの人たちも随分と警戒しているから、ブキくんも気ぃ付けて」
「んー」
俺の話半分の返事に、空木は困った顔をしながらも、再びラーメンと丼に手を付けた。
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