一章 氷が獣に触れた日
1・透明な幽鬼
「ふむ、幽霊ね」
そう呟くように口にした少女は、その艶めかしい白雪のような絶対領域を晒し、脚を組みながら悠然とした動作でコーヒーカップに口を付ける。
数秒、昇る湯気の香りを愉しむように彼女は目を瞑り、そして微かにカップを傾けて中身の液体を啜った。
飴色と、牛乳を零したような一部分だけの白銀が揺れる。
「お前今、馬鹿馬鹿しいって思ったろ」
眼前、向かい合うようにして彼女と同じソファーに座る男は、くるりと端が丸まった焦げ茶色の髪の隙間から、呆れたような声色で彼女の瞳を覗き込む。
高い背を湾曲させ、訝しむように。
「そんなことは無いよ。この国には数百万の人間がいるんだ。私とは考え方が違う人間が一人くらいいたって、何も不思議には思わないさ」
「嘘だな。こういう時お前は『あー何て非合理的な考えだ!』って言う奴だ」
「私の声真似、相変わらず酷い完成度だ」
コーヒーカップをソーサーに置く。コトリと言う音と共に、漆黒の液体が波打った。
カップを置いた少女は腕を組み、訝しみの視線を向けた男に抗するように眉を顰める。
「そもそも、人が一人消えただけで幽霊の仕業だと騒ぎ出すことが理解できない。一時的に外に身を置いてる可能性、引っ越しや夜逃げ、この街だったら誘拐もあり得ない話じゃない。未知の現象に仮説を立て解明に動くでもなく、
「お前はいつもオカルトに辛辣だよな……。まぁお前の考えなんてこの際どうでもいいんだよ。依頼があって、達成すれば金が貰える。それでいいじゃねぇか」
「賢者とは、いつまでも知識に貪欲なものだよ、ディグ」
「うるせぇ」
少女とディグの間にあるガラスのローテーブル。その上に広げられていた幾枚かの紙をまとめ、ディグと呼ばれた男が席を立つ。
そうして、部屋奥にある黒檀のデスクの引き出しを漁り金属のクリップを取り出すと、その紙束に刺し込み少女に手渡した。
「で、冗談はさておきどうなんだ? グレシアセンセ?」
手渡された資料をペラペラと捲り目を通す少女に、ディグは少女の背後から手を伸ばし、飲みかけのコーヒーカップに口を付けながら訊ねる。
一口だけ啜り、小さく「苦っ」と零すとカップをソーサーに戻した。対してグレシアと呼ばれた少女は、そんなディグに一瞥もくれる事無く口を開く。
「クインテッドのウェンブリー通りでは、人が、消えている……――――」
ブレタリア王国、首都クインテッド。その北西に位置するウェンブリー通りでは、人が消えるという噂がまことしやかに囁かれていた。
一人目は半年ほど前。彼は、良くも悪くも何の特徴も無い一人の市民であった。クインテッド内の工場に勤め、日々真面目に働いていた。そんな青年がある日、勤務時間を終え帰宅した後、その姿が見られなくなった。
二人目は主婦、およそ四か月前。名門大学を卒業しパン工房を経営する夫を持ち、子供は姉と弟の二人。近所の住人との仲も良好で、読書を趣味とする知識人。そんな彼女がある日、夕食の食材を買いに家を出、帰って来ることは無かった。
その次は二か月前、更にその次は先週。およそ二か月に一度の周期で、ウェンブリーでは人が行方不明になっている。そして同時期に多くの目撃情報が上がり始めた、髪の長い怪しい女。
全く関連性の無い被害者、人消えの規則的周期、幽鬼の如き女。真珠に紐を通していくように、それらの事実は人々の間で結び付いた。
生者を憎む女の怨霊が、人を攫っては呪殺しているのだ。と。
「確かに被害者に共通点が無いのは気になるね。工場務めの青年、読書家の主婦、古手の弁護士、そして年端も行かぬ少女。どう考えても接点が無い」
「引っ越しは無いんじゃねぇか? 二人目の主婦は、家族仲も極めて良好だったらしいし」
「さっきのは例え話だ。でもねディグ。一見共通点が無いと思えるこの四人にも、見落としてはならない大きな共通事項があるんだ。何か分かるかい?」
ソファーに座ったまま、背後に立つディグに振り返りながら資料を渡す。開かれているページは、被害者四人のプロフィールだ。
資料を受け取り、視線を落としつつ低く唸るディグ。しかしその深い思案も、数秒の間しか続かなかった。
「いや。分からん」
「肉体だよ」
「は?」
「全員共通して人間だ。人間の肉体と言うのはね、得てして価値があるものなんだよ?」
「そんな意地悪問題みてぇな……。つまり、人体が目的の人攫いってことか?」
「今の情報だと共通点が無さ過ぎる。となると、これくらいしかね。年齢層も性別も異なる、というのが逆に、様々な年齢や性別の肉体サンプルが欲しかったと考えれば腑に落ちる」
「なるほど……」
ディグは資料に再び目を落とし、低く唸る。グレシアは目を瞑り、再びコーヒーを啜っていた。
「人攫いの目的は?」
「さぁ? そこまでは。人体が目的と仮定するなら、違法な臓器ブローカー、薬品の違法な実験を目的とする科学者、ある程度死体の処理に心得がある猟奇的殺人犯、年齢や性別による味の変化に好奇心を抱いたカニバリスト、とかじゃないかな。まぁなんにせよ、十中八九被害者は死んでいるだろうね」
「なるほど……。いや、幽霊より普通に怖いなそれ」
「そうだね、私は人間の方が怖い。皮肉なことだね。生者を憎む怨霊に呪殺されたと思われている彼らこそ、実際は生者を憎んでしまうような所業を受けているとは」
ディグはソファーに掛かっていた上着を手に取り、袖を通す。
襟元に光る徽章は、剣を掲げる二人の乙女がその剣を交差させているというもの。この街の、警察組織の象徴でもある。
「まだ決まった訳じゃねぇだろ。取り敢えず出るぞレア」
「やだよー。もう寒いじゃないか、すっかり冬だ。私はここで君が淹れた苦いコーヒーを愉しんでいるからさ、ディグが一人で行って来てく、いたたたたっ!」
脚を組み、優雅な所作でコーヒーを啜るグレシアの耳を、ディグは強く引っ張る。
「分かった分かった。全く、ユーモアが分からない警察官だね」
「お前がいないと始まらねぇだろ」
嫌々と言った様子で席を立ち、ソファーの後ろの本棚に寄り添うような形で立つコートハンガーからキャラメル色のトレンチコートを取り、そして翻した。
「じゃあ行こうか。ヴェリタス探偵事務所初の、幽霊調査へとね」
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