ゴーストウィードは真実に咲く

朽木真文

0・氷の麗人

「なぁグレシアさん。これ、少し不利じゃねぇか?」


 一つまみの物憂いさが混じった男の声が、路地裏に溶ける。

 じりと、男の靴が半歩下がった。それは強大な敵と対峙した時の恐怖が入り混じったもの。と言うよりは、散らかった部屋を前に現実から逃げ出そうとする時のものに近い。

 革製の漆黒の半長靴に、藍色のパンツの裾が掛かっている。パンツと同色の背広の胸元には、黒いネクタイと白いワイシャツ、そして紐を通してぶら下がる金属のホイッスル。襟元には、きらりと徽章が輝いていた。

 腰元の細い鞘とホルスターは既に空。何故ならごつごつとした男らしい両の手に、銀色のリボルバーと、華美な装飾の為された細身の刺突剣レイピアが握られているのだから。


「警察がならず者を前に怖気付かないでくれよ。アネモネが聞いたら呆れるぞ」


 呆れのままに飛び出た言葉は、まだ成熟しきっていない少女の声。

 彼女は武器を構える男より数歩後ろに立ち、左手で自身の髪の先を弄りつつ、右手でそんな左手の肘を持ち支えている。

 深紅のブーツは血だまりで染めたよう。すらりとした脚を秘匿する黒いロングソックスと、それでも少しだけ顔を覗かせた白雪のような太腿。黒いショートパンツと、裾を出したままの白いブラウスの胸元には控えめなふくらみと赤い紐ネクタイ。そしてそれら全てを上から包み込む、キャラメル色のトレンチコートはボタンを留めていない。


「なっお前! でも戦うのは俺じゃねぇか!」


 藍色のパンツと背広はこの街の警察隊の証。その隊服に身を包み、不規則なうねりを持つ焦げ茶色の髪の男が振り返らずに少女に不満をぶつける。

 彼らの眼前には複数の男女。それは恰幅のいい男でもあり、スレンダーなすらっとした女性でもあり、引き締まった肉体の屈強な男でもあり、腰の折れ曲がった老婆でもある。

 全く統一感の無い一団ではあるが、ただ一つ同じ事と言えば。この狭い路地裏の中で、警察の男と少女の進行を妨害するように立ち塞がっている事であった。

 ただ、グレシアと呼ばれたその少女は男の不満に優しく手を差し伸べるでもなく、氷のような冷たい微笑みを男に向けただけだった。

 澄んだ紅茶のような飴色の髪が揺れる。ただその右側頭部だけはまるで蝶の鱗粉を振り掛けたような、透明感のある銀だった。


「当たり前だろう。君は未成年のか弱い女の子に、人と殴り合えと?」

「んんん。お前マジで覚えてろよ……」


 ぷっ、と唾混じりの息を噴き、グレシアの表情がほどける。紫の混じった、マジックアワーのような青の瞳が少しだけ柔い視線を織った。


「冗談だよ、ちゃんと支援はするさ。相手は異能犯罪者。油断は許されないからね」

「頼むぞマジ。アリア呼ぶまでは安心できねぇからな」


 グレシアの瞼が閉じる。次開いた時その青い瞳は、何の手品か極彩色に変わっていた。

 警察の男がレイピアを構え、腰を落とす。二人の間に、糸がぴんと張ったような緊張感が満ちていく。


「来るよ」


 グレシアの声が響いた。

 立ち塞がる者達の一人、老婆から不可視の波動が空気を退け、同時に石畳を視えない大蛇が這いずるように小さな砂埃を立て、ナニかが警察の男に迫る。

 ただ、グレシアの声に合わせて既に動き出していた警察の男にそれは当たらない。透けた大蛇の突進を悠然と躱し、駆け出すと同時に咥えていた金属のホイッスルを、彼は高らかに吹いた。

 路地裏に、確かに響き渡る笛の音。立ち塞がる者達は揃って、きょとんとその音色を聞き入れている。ただグレシアだけが、両手で耳を塞いでいた。


「聞いたな馬鹿! 『転べ』!」


 彼の命令に従うように、襲撃者達はその場で転倒する。そこに何か常ならざる力が働いたことは明らかで、襲撃者は驚愕の表情を浮かべた。

 その隙を見逃す筈もなく、警察の男はレイピアの柄で老婆の顎を打ち意識を刈り取る。


「ディグ、上」


 グレシアの声に合わせ、ディグと呼ばれた男が姿勢を落とす。直後、つい数瞬前まで彼の背中があった空間を撃ち抜いた業火の槍。軌道を辿れば、襲撃者の一人の、横に大きな男が両手を警察の男に向けていた。

 恰幅のいい男は警察の男に避けられたことを確認すると、遠くで極彩色の視線を投げかけるグレシアにその手の平を向ける。その軌道上に、遮蔽物は無い。


「グレシア!」

「知ってる」


 恰幅のいい男の両手から橙色が膨れ上がり、それは一秒にも満たぬ間に猛々しい業火へと姿を変える。

 そうして放たれる業火の投げ槍。その速度は、成人男性の全力の投石ほどだ。ただグレシアは、分かっていたかのように、「ほっ」という気の抜けた掛け声と共に躱した。


「それよりディグ」


 ディグが視線をグレシアより自身の前方に戻す。そこには、いつの間に巨大な戦鎚を大きく振り上げ、飛び上がった女の姿があった。

 息を吸うのも忘れ、ディグのヘーゼルの瞳孔が収縮する。


「あっぶねっ!」

「ちっ」


 ディグが大きく飛び退く。戦鎚が地面と勢い良く衝突し、破裂した石畳が跳ね上がった。轟音が路地裏の静寂を劈き、衝撃波が旋風となり駆け抜ける。

 女は避けられたことに舌打ちを鳴らすと、鎚を手放し懐より取り出した折り畳みナイフの刃を露出させ、未だ体勢が定まらないディグへと突進する。

 刃がディグの腹部に食い込もうとする最中、突如弾かれたようにナイフの軌道が逸れた。

 視界の端に、ディグは小石を投げた体勢のグレシアを捉える。


「つっ!」

「惜しかったな!」


 レイピアでナイフを弾き飛ばし、銃口を女の眉間に突き立て、引き金を引く。

 撃針が雷管を叩き、火薬が炸裂する。猛烈な爆音が路地裏に響き渡ったと思えば、そこに広がるのは鮮烈な朱色の大輪――――。


「なんてな」


 という訳では無い。発射されたのは、暴徒鎮圧用の特殊なゴム弾。つまるところ、殺傷力は皆無だ。しかし、脳を揺らすには十分な威力を持っている。

 額に丸く赤い痣を付け倒れる女を横目に、ディグは残る二人の下へと駆け寄る。

 倒れる女が死んだと思い込み、困惑する残り二人を伸すことは難しくない。容易く二人の意識を掬い上げ、ディグは額に浮かんだ汗を手首で拭う。


「お見事」

「うるせぇ」


 大袈裟に手を叩き歩み寄るグレシアを、ディグは照れ隠しか乱雑に一蹴する。

 よくある事なのか、軽くあしらわれたグレシアはその事を気にする様子は無く、悠然とした動作で倒れる四人の内一番近かった老婆の下に歩み寄り、その衣服をまさぐり始めた。


「時計、老眼鏡、財布、ハンカチ……今度は腕時計。お、あった」


 人差し指と親指で摘まむようにして老婆の懐から取り出し、屈んだ状態で上体を捻り、見上げるようにしてディグに見せ付ける。

 それは、くすんだ灰色の石だ。乱形に切り取られたそれはグレシアの手の中で時折、光を反射し淡く極彩色に輝いていた。


「レア、お前それ強盗にあたらねぇの?」

「私達を襲った彼女らが『愚石ぐせきを盗まれた!』って警察に駆けこむとでも? まさか」

「……お前、結構狡賢いよな」

「私は探偵さ、警察じゃないんだ」

「俺は、警察だがな」


 ディグはレイピアを鞘に、拳銃をホルスターに収めると、呆れたような溜息を吐きながら路地裏の先へと進んでいく。

 愚石と呼ばれる小さな石をトレンチコートのポケットにしまったグレシアも、足早に歩みを進めるディグへと続く。並んで暫く歩き、何度か角を曲がる。


「恐らくここだね」

「ここか、件の幽霊さんのお宅は」


 そうして見えるのは、積まれたレンガが欠け、屋根には大小様々な風穴が空き、殆どの窓が汚れている。そんな屋敷だった。


「さて、突き止めに行こうか。幽霊騒ぎの正体。いや、異能犯罪者共の企みとやらを、ね」

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