裏切り者と世界の承認
和泉茉樹
裏切り者と世界の承認
◆
視界いっぱい、一面の砂漠。
どこまでもどこまでも、砂の海が続いていく。しかし終わりがないわけではない。遥か遠くを行くのはケーブルを収めた巨大なパイプで、これは遠くの豊かな国まで莫大な電力を送る。
リチャード・D・Y・ロレンスは汗まみれになりながら砂丘の一つを超え、眼下に広がる光景に何度目かわからない、素直な驚きを胸の内に生じさせていた。
砂漠にずらりと並ぶ太陽光パネル。それは一種、異様な光景だった。まるで大地を覆い隠そうとしているかのようだった。草も滅多に生えない不毛の砂地を恥じ入るように。
その太陽光パネルの平面の手前、砂丘の一つに小さな小屋が見える。リチャードは砂の斜面を下って行き、小屋へ進んだ。見ている前で小屋が開き、砂漠の民の装束をまとった浅黒い肌の男が出てくる。いかにも大儀そうだった。リチャードの服装はといえば、陸軍から支給された外套を羽織っている以外は、ちょっとした登山用の装備に近い。頭には帽子をかぶって、サングラスもかけていた。
小屋の前で待ち構える男に、さっと手を上げてみせる。
「やあ、ラシード。元気そうだな」
訪問者の流暢な砂漠の言語に、ラシードと呼ばれた男が皮肉げな笑みを見せる。
「また生身で来るとは、酔狂なことだ」
「ドールはどうも、慣れなくてね。水をもらえるかな」
その冗談にラシードは短く笑い、来い、とリチャードに小屋を示した。この砂漠に水を持たずに入るものなどいないし、水がなくなるということは即、死を意味している。旅人は昔ながらのラクダの背に、大量の水を積むものだ。
小屋に入ると、低い駆動音を立てて小型のコンピュータが稼働していた。その機材のために室内は温度が抑えられている。昔も今も、電子機器に高熱は禁物だった。
隅に置かれている水瓶から、ラシードが無造作に器に水を汲んでリチャードへ差し出す。リチャードは一口飲んでから、ふっと息を吐いた。
「作戦は?」
リチャードが世間話をしようとするのを知っていたようにラシードが言葉を発する。リチャードはもう一口、水を飲んでから頷いた。
「承認作業は順調に進んでいる。ついでに告発もすぐになされるはずだ」
「確実か?」
「承認は間違い無く行われる。これでヌナ人がニューウェブにおいて排除されることは、形の上では無くなる。あとの問題は、世界がヌナ人を受け入れるかどうかだな」
ボロボロの椅子に腰掛けながらラシードが目元に険を浮かべる。
「ヌナ人は何もしていない。世界が拒絶しているだけだ。我々を勘違いしている」
「僕は勘違いだと知っている。しかしヌナ人が特殊なのは間違いない。様々な意味で」
「特殊だから、強制労働も当然か? 虐待も人権侵害も?」
攻撃的な砂漠の民に、リチャードは首を振った。
「特殊性なんて、どこにだってある。僕はヌナ人が受けている仕打ちは間違っていると知っているよ。僕をあまりいじめないでくれ、ラシード。仲間じゃないか」
これにラシードはすぐに答えなかった。
「ともかく」
話を続ける若者に、彼が向けた視線に込められていたのは、何だったか。怒りでも憎しみでもなく、それは悲しみだったのではないか。
「ヌナ人解放作戦は既に決定されている。あとは予測不能だ」
「この時代に予測不能か」
「人間の心理を読み解く方程式は、誰も発見していない」
二人の間に沈黙がやってきた。
二人が出会ったのは二年前だった。ラシードは太陽光発電施設のそばで、電気を掠め取り、闇で売りさばく犯罪者に過ぎなかった。だからリチャードが現れた時、ラシードはついに先進国がこの電気泥棒だらけの貧しい一帯をどうにかしようとしているのだと、真剣に思った。
しかし違った。リチャードは、ヌナ人のネットワークを借りたい、とラシードに言ったのだ。この言葉はラシードを困惑させた。ヌナ人のネットワークというものが、電気泥棒のネットワークのことではないと直感したからだ。
ヌナ人、と呼ばれる民族は、砂漠に住む無数の民族のうちの一つに過ぎない。百年前には砂漠を行き来する商人であり、五十年前もそうだった。様々な民族と対等に交流を持ち、平穏に過ごしていた。極端に貧しくはないが、豊かでもない。
転機となったのは三十年前。
情報ネットワークの発展とそれに関係する科学の発展は凄まじく、この砂漠に住む民にもその恩恵が与えられた。思考とネットワークを中継するインターフェイスは、砂漠では先進国より一世代は遅れたものが一般的だったが。
この時、ヌナ人が他の人間より、わずかに演算速度が早いということに気づいた科学者がいた。その科学者は人間の脳科学の専門家だったが、ヌナ人に生来、備わっている感覚が他の人種とやや異なり、情報ネットワークを認識し、制御するのに適していると世界に向けて発表した。
最初は誰もこれを重く受け止めなかった。
問題は二十年前に起こる。ヌナ人の集団が情報ネットワーク上で、後進国に雇われる形でスパイ活動を行っていることが告発された。ヌナ人は情報ネットワークにおける特殊人種であり、危険である、という認識が瞬く間に世界に広がった。
この時、砂漠の国はサンヌ人を主体とするサンヌーサ国に統一されていたが、サンヌーサ国が主体となり、ヌナ人が強制収容所に送られる事態に発展した。逃れた者もいたが、ヌナ人の大半は財産を持たず、また学力も低水準だったため、サンヌーサ国内のヌナ人の大半がこの時から強制収容所で、サンヌーサ国のために強制労働を強いられることになる。
このヌナ人問題は、砂漠の国だけでは完結しなかった。先進国へ渡り、情報産業などに参加していたヌナ人も敵視や蔑視の対象となり、職を追われ、住む土地を追われた。
ヌナ人はこの時から、世界に安住の地を持たない、忌避される民族として世界に認識された。
そのヌナ人の秘密裏のネットワークを管理する一人がラシードである、ということを、リチャードという男は嗅ぎつけてやってきたのだと、この砂漠の民は直感したが、なぜ、明らかに先進国の人間がラシードに接触するかは、不明だった。
困惑したままのラシードに、リチャードは堂々と告げた。
「アルビオン王国は、ヌナ人の名誉回復を支援したい」
アルビオン王国とは、西方にある島国である。百年前に世界中に多くの植民地を持ち、太陽の沈まない王国、とまで言われた強国である。それは植民地を解放した現代も変わらない。揺るぎない先進国の一角だった。
その島国からやってきた若者はラシードに、まずは数だ、と話を始めたが、ラシードはこれを止めた。
アルビオンにどのような得があるのだ。それがわからない。わからないうちは話を聞かないし、しない。
まるで現地人のように砂漠の国の言葉を流暢にしゃべる男は、うっすらと、しかし自信に満ちた笑みを浮かべながら言った。
「得など、僕は知らない。ただ僕は職業上の任務とは別に、個人的にも、あなたたちを助けたいと思っている」
リチャードとラシードが信頼関係を育むのに、一年。
世界に訴える手段を探り、計画を練り、準備するのにさらに一年。
そして今、ついに行動を起こす時がやってきていた。
器の中の水を飲み干したリチャードは、西方の神に祈る身振りをした。
「あとは神のみぞ知る、だ」
ラシードは頷き返した。彼は西方の神など信じていないが、多くの神に祈るに越したことはない。ラシードはラシードで、毎日、神に祈っているのだ。
我々をお救いください。
我々、ヌナ人をお救いください。
◆
ステイツという大陸の一つを統治する巨大国家、その中枢に近い場所に席を持つイーサン・ルンは、怒りを扉にぶつけて執務室に戻った。乱暴に椅子に腰掛け、テーブルについさっきまでの会議の場での話題であった極秘資料を叩きつける。
無意識に顎に手をやりながら、窓の外を見る。そこには摩天楼が見渡せた。
何が起こっている、とイーサンは思わず呟いた。
会議の議題は、遥か彼方の砂漠の国で、ヌナ人の人権が決定的に侵害されている、というものだった。
その情報の発信源は民間のメディアではあるが、その情報源は不明。
しかし無視できない情報だった。
複数の映像、音声で、サンヌーサ国内にあるヌナ人収容施設の内部の様子が流出していた。
暴言など生温いほどの、過剰な暴力がそこにあった。両手を縛り上げられ、殴る蹴る。全裸の男たちが列になって歩かされる映像もある。殺害する場面がないのが不思議なほど、ひどい有様だった。
ステイツは様々な理由で、今はサンヌーサ国を支援している。半世紀前までは政情が安定せず、宗教の対立もあり、テロ行為の温床だった。ステイルの軍が駐屯し、治安維持に当たったこともある。
サンヌーサ国という国家は、その混乱と混沌の中から、現地の民が対立と融和の繰り返した末に生み出した、ある種の楽園だった。そのはずだった。ヌナ人の存在が大きくなるまでは。
ヌナ人はサンヌーサ国に住む複数の民族の一つに過ぎないはずが、情報処理に優れているという一点で迫害され、弾圧された。現在ではヌナ人一人ひとりに異常な能力があるわけではないとわかっているし、その能力もしれたものだ。
先進国ではヌナ人の名誉回復を訴える市民活動が目立つようになったが、長い間に醸成された差別感情が完全に拭い去られたわけではない。
そこへきて、いきなりのスクープだった。
ステイツとしては国際社会における立場から、このヌナ人への人権侵害を放っておくことはできない。場合によってはサンヌーサ国への支援を切り上げ、さらに状態が悪化すれば、何らかの形でサンヌーサ国に強い姿勢を見せる必要がある。
それは別の官僚が決める。イーサンは情報軍の中の一部局、セクション・エイトの首席管理官として、この報道の出所を洗うのが仕事だった。
しかし、とイーサンは資料を横目に見る。
サンヌーサ国へのステイツの支援は多岐にわたり、その中には情報管理のノウハウと装置一式も含まれる。まだサンヌーサ国内では電子機器の製造にまつわる産業どころか、ノウハウすら浸透していない。ほとんどの機器は先進国が提供しているか、輸入している。
旧式のものが多いとはいえ、どうやって強制収容所の情報を掠め取ったのか、イーサンにはすぐに見当がつかなかった。
情報ネットワークは革命を経て、今ではニューウェブと呼ばれている。
ニューウェブの特徴は、相互承認、である。
旧世代の情報ネットワークが、一部の企業や、国家によって管理され、ユーザーの承認もそれらが請け負っていたのに対し、ニューウェブにおいてはユーザーの相互承認によってユーザーの評価が決定する。
例えば、通販などで粗悪な品を販売するユーザーは、利用したユーザーから「低い」評価が下される。他のユーザーはその評価をもとに利用するが、悪い評価が重なっていくと、その販売元のユーザーは自然と排除される。
これはある意味では残酷だった。ユーザー同士で結託して村八分にするのに近い。
このニューウェブの有り様を、管理社会、場合によっては、監視社会、と表現するものもいる。
しかしニューウェブは旧世代の情報ネットワークよりはるかに安全だった。犯罪行為はもちろん、それに近い行為は相互監視の中で否定され、相互に承認する仕組みのために、治安はユーザー間で維持される。
発展初期こそ告発が続出したが、今ではそれも減っている。
そんなニューウェブを経由して、サンヌーサ国の強制収容所の情報が露見することが、果たしてあるだろうか。イーサンの最大の疑問はそこだった。ニューウェブにアカウントを持つ以上、悪と認識されれば、あっという間にそのアカウントは力を失う。
今、問題の一件を報道した民間メディアの評価は、悪いものではない。むしろ評価する向きが強い。ニューウェブは国家を超えているため、この支持する評価が強いのは、ステイツ国内だけの世論ではない。いわば国際世論の表出だった。
ニューウェブの恐ろしいところは、仮にステイツが公式な形で報道に否定的な立場をとると、ニューウェブ上でのステイツの評価が低下する可能性があることだった。
もちろん、ステイツは世界最大と言っても過言ではない巨大国家で、ニューウェブ上の意見に支配されているわけではない。しかし情報ネットワーク上での力を失うのは良作とは言えない。
どこかに妥協点を探す必要があるが、まずはこの報道の信憑性と裏付けを行う必要がある。
イーサンはデスクの上の端末で部下を呼び出した。
人工知能がいくら発展しようと、人間が動かなければいけない事態は多い。
部下が来るのを待つ間に、イーサンは改めて資料を手に取った。
極秘資料はいつでも紙に印刷される。
情報ネットワーク上になど、置けるわけもない。
強制収容所の中が覗かれるくらいなのだから。
◆
騒動は一気に世界中に飛び火し、ヌナ人解放を訴える運動がそこここで過激になっていった。
リチャードはサンヌーサ国内を移動しながら、この国が国際社会から攻撃にさらされているのを目の当たりにした。
サンヌーサ国の国民の大半は、現状を傍観しているだけだっただろう。ヌナ人を襲ったものもほとんどいない。あるいは若い世代はヌナ人を直接に見たことがないものもいたかもしれない。
この砂漠の国は発展途上にある。それは間違いない。しかしヌナ人を弾圧したことで、それは一時的に停止するだろう。後退する可能性すらあった。
この砂漠の国の紛争の原因は、今でも取り除かれていない。宗教における派閥抗争は解決していない。ステイツを筆頭とする先進国の支援は、細部まで行き渡らず、国内における貧富の差は拡大している。それなのに産業は発展せず、失業率も高い。また性差の問題もあり、そこに民族の問題もつけ加わっている。
いわば、ヌナ人への弾圧とは、そういった全ての揉め事から目をそらす、格好の目標なのだ。
ヌナ人の悲劇が、サンヌーサ国をまとめていた。
リチャードはアルビオン王国の決定に誇らしいものを感じていたが、こうして現地に足を運び、長い時間を過ごすうちに、何かが違うと感じ始める自分を無視できなくなっていた。それはラシードを否定したいわけではなく、この国家の歪さに感じる違和感だった。
自分たちの国内にある問題に、もっと真摯に向き合うべきではないのか。宗派の違いを乗り越える理由を模索することさえも、遅々として進まない。産業の発展も、同じ国民の中での対立で遅れていく。
ヌナ人の問題は、あるいはそんな不安定なサンヌーサ国に決定的な一撃を加えることではないだろうか。
そう思えば、リチャード自身は軍の命令ということもあるが、正義によってラシードに手を貸しているつもりでいても、アルビオン王国には別の思惑がありそうだ、と思えてくる。
それはもしかしたらラシードを裏切ることかもしれない。
今のリチャードにとって、それは悪夢だった。
ラシードはリチャードを信用している。アルビオン王国を信用している。
ヌナ人を解放するための後ろ盾として、頼ってさえいる。
そのアルビオン王国がハシゴを外せば、ラシードはどうなる? ヌナ人は? そしてリチャードは?
すでに作戦は動き出し、国際世論はヌナ人解放へ動き出している。サンヌーサ国は国際社会からの批難の的となり、先進国からの支援は滞り始めていた。
さらに悪いことに、サンヌーサ国内の過激派が、先進国との対決を訴え始めてもいた。
ここに至ってはリチャードとしても胸を張ることなどできない。ヌナ人解放とサンヌーサ国の混乱は表裏一体、区別できないものになりつつある。
一ヶ月をかけて各地の協力者をめぐり、リチャードはラシードが生活する小屋へ戻った。
ヌナ人は各地に散らばり、貧しい生活の傍ら、自分たちの権利を訴えていた。ラシードはそのネットワークの基礎の一つだと、リチャードはアルビオン情報軍から聞いていた。ラシードにもそのことを伝えたが、ラシードは他のネットワークの基点となるヌナ人を、リチャードには教えていない。
信頼し、信用していても、明かせない部分がある。ラシードにそれがあるように、自分にもそれがあるとリチャードは胸中で思った。
小屋に入ると、ラシードは小さな旧型のモニターの前に陣取って難しい顔をしていた。
「どうした、そんな顔をして」
リチャードがそう声をかけると、気づいていなかったらしいラシードの肩が大きく揺れ、対照的にゆっくりと視線がリチャードに向いた。
「ステイツが重大な発表するそうだ。今から始まる」
砂漠の国は昼前だった。ステイツは何時だろう、とリチャードはすぐに計算した。夜なのは間違いない。
モニターに映っているのは何かのコマーシャルだったが、報道番組が始まる。
すぐに中継映像になり、見慣れた報道官が映った。
流暢な発音の言語は、ラシードには聞き取れないからだろう、画面に同時翻訳の字幕が流れ始める。
リチャードは音声を聞き取れたが、発表が始まり、すぐに緊張した。
報道官が話している内容は、サンヌーサ国に存在する強制収容所の実態にまつわる報道は事実である、というところから始まった。ステイツは確信を持って事実だと認める、というのだ。
ここまでなら良かった。問題は次だ。
情報は内部告発ではなく、ヌナ人の組織的な情報工作であり、非合法なものである。
ラシードが姿勢を変え、横目でリチャードを見た。リチャードはそれに気づけなかった。
リチャードとラシードが計画したことが、どこかに勘付かれたのか。まさか。ステイツはどうやって嗅ぎつけたのか。民間のメディアを起点にしたが、そこに至るまでにもいくつものアカウントを挟んでいる。ついでにアルビオン王国の情報軍がバックアップしている。
見抜かれるはずがないものが、見抜かれている。
報道官は、ステイツはこの情報犯罪を追及することになる、と発言して締めくくり、質問に答え始めた。
「リチャード、どうなっている」
ラシードの声は冷え冷えとしていた。
「わからない」
答えながら、リチャードは自分のこめかみを汗が伝うのを感じた。
「どこにも漏れないはずだった。いや、漏れるとしても、内部告発を偽装するはずだ。これは、おかしい」
「しかし実際に、全世界に中継されているぞ」
ラシードが立ち上がり、腰から何かを抜いた。何かじゃない、拳銃だ。
年季の入った拳銃の銃口を前に、リチャードはもう一度、首を振った。
「わからない……」
「俺は」
ラシードの眼差しにあるものを、リチャードは正確には読み取れなかった。
「弟を取り戻したいだけだった」
引き金が軋む音を、リチャードは遠くで聞いた。
銃声もまた、遠くで聞こえた。
◆
イーサンは自分のデスクに乗せられている資料を横目に、顎に手をやっていた。
アルビオン王国という国は、油断がならない国だ。
一部の勢力がヌナ人に与してその権利を取り戻させようとし、一方ではステイツと共同歩調を取ってくる。
そのアルビオン王国の行動で何が起こったかといえば、単にサンヌーサ国が混乱するだけだった。そこからアルビオン王国は何らかの利益を得るのだろうが、ヌナ人は救われない。
強制収容所への国際的な関心は爆発的に高まった。それは一国を揺るがすほどの巨大な波であり、おそらく強制収容所は力づくでも解放されるだろう。その時、サンヌーサ国の主権はどうなるのか、そんなことを民衆は考えることがない。
サンヌーサ国は悪の国家とされる。
本当の悪意は別にあるように、イーサンには思えた。あるいはそれは悪意に見えるだけで、もっと計算高い、いわば知恵なのかもしれないが。
国益を守るためには他国を犠牲にしても構わない、などということがあるとはイーサンには思えなかったが、それは彼の信条、心情であって、国家という巨大な装置には無意味かもしれなかった。
十億という国民を守るためには、辺境の国家の数千万の国民を犠牲にできる。
その残酷さが、国家中枢に存在する一つの意志だった。それに抵抗するものもいる、否定的に感じるものもいる。しかしそんな立場のものでも、自国民を見捨ててまで他国のものを救う、などとは言えない。
国家の舵取りをするものは、国民に選ばれている。選んだ国民は、自分たちの利益を想像する。自分たちにより大きな利益を与える力を持つものを、国民は選ぶものだ。
国家を導くものが他国を犠牲にするのは、国民が他国の犠牲に一顧だにしないという意味でもあった。
イーサンは砂漠とは無縁の都市を眺めながら、考えた。
いつか、他国のことを本当に考える人々が出現し、国家という枠組みは変化するかもしれない。その時には貧しい者は救われ、富は分配され、平等な世界が現れるかもしれない。
しかしそれは今ではなかったし、イーサンにできることでもなかった。
イーサンにできることは、国家を守り、国民を守ることだった。
サンヌーサ国を守ることでも、砂漠の民を救うことでもなかった。
ヌナ人への弾圧は許されない。その線だけは間違いない。しかしそこから始まる混沌は、許容される。陸軍からは再びサンヌーサ国に、軍が派遣される事態が想定されることに危惧が示されている。大統領はこれに否定的だが、イーサンから見てもサンヌーサ国の不安定さには不安がある。
全てはアルビオン王国の謀だ。イーサンは思わず舌打ちを漏らした。
あの島国がまるで矛盾する行動をとり、サンヌーサ国を罠にはめた。ヌナ人さえもその罠にはめられている。
不愉快さのやり場もないまま、イーサンはデスクの上の端末に手を伸ばした。
サンヌーサ国に関して、調べ尽くしておいても損はない。これからの不規則な事態を、ステイツは乗りこなさなくてはならない。強制収容所に関する追及も、その内部と、その告発との、両面で行う必要があった。
アルビオン王国はヌナ人を差し出すつもりのようだが、それで許す気がイーサンにはなかった。
アルビオン王国にも、泥をかぶってもらう。
好き勝手にさせるものか。
◆
ラシードには年の離れた弟がいた。
その弟は突如、当局に拘束され、強制収容所に送られた。弟はサンヌーサ国で塾講師をしていた。ニューウェブと関わりを持たない生き方をしていた。
両親は悲嘆にくれ、間も無く病で他界した。
ラシードは弟の行方を捜した。ラシードには若い頃からの仲間がおり、情報の行き来は活発だった。またラシードはヌナ人内部の情報ネットワークにまつわる教育を受け、秘密のネットワークの維持を行っていた。
弟の所在にたどり着いたが、しかし、ラシードには介入する方法がなかった。わかったのは名簿に名前があるということだけで、強制収容所の内部は全くの不明だった。
そこへアルビオン王国の密命を帯びたリチャードがやってきた。
アルビオン王国情報軍の少佐殿。
ラシードには渡りに船だったのだ。あまりに出来すぎているとしても、この船に乗らずにはいられなかった。
リチャードの協力で、それまでの苦労が嘘のように強制収容所の告発計画は完成し、実行された。同時に、ヌナ人はニューウェブの中で承認され、立場を取り戻すことになる。
うまくいったはずだった。
しかし今、ラシードたちは裏切られつつある。
かつて、全ての砂漠の民がラシードたち、ヌナ人を裏切ったように。
ラシードの前には、リチャードが倒れていた。
頭が吹き飛び、しかしそこにあるのは血でも脳漿でもなく、電子部品だった。
「すり替わっていたか」
倒れているのは人間ではなく、ドールと呼ばれる遠隔操作可能な人型端末だった。
ラシードは自分がリチャードを信じたことを恥じた。
だが、もう手遅れだった。事態は動き始めている。
ここからは大国の庇護を受けずに、活動するしかなかった。
弟を取り戻す。ヌナ人を解放する。
サンヌーサ国に落とし前をつけさせる。
あとはどうなっても構わない。世界など、知ったことか。
ベルトに拳銃を突っ込むと、ラシードはまず、リチャードが用意した様々な端末の処分に取り掛かった。高性能で廃棄するのは惜しいが、リチャードが裏切った以上、使い続けるのは危険だった。次には居場所を変えなくてはいけない。リチャードに教えていない隠れ家は三つあった。
何より重要なのは、ラシードのニューウェブ上の身元を切り替えることだ。
ヌナ人ではないとして承認されているアカウント。
善とされるアカウント。
高性能な端末を叩き壊しながら、ラシードは歯を食いしばった。
ヌナ人は決して、悪ではない。
社会こそが、悪なのだ。
この不寛容な、残酷な世界こそが。
(了)
裏切り者と世界の承認 和泉茉樹 @idumimaki
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