第29話 揃える

 プリント類は重いし嵩張るし場所を取るしで整理が大変だ。去年はそうでもなかったけど、今年の講義を担当している先生方はとかくプリントをよく配る。おかげで持っているファイルを総動員する羽目になり、後期の授業に向けて夏休みのうちにプリントを仕分けなければならなかった。


「えらく散らかしているな。こんなに紙を広げてどうしたんだ? 文の類いではなさそうだが」


 今日は玄関口からすーっとすり抜けてきた幽霊さん。床に座り込んで仕分けに励む私を、余裕たっぷりに見下ろしてきた。多分本人に見下す意図はないんだろうけど、物理的な位置も相まって上から目線が半端ない。幽霊さんは上背もあるから尚更だ。


「書類の仕分けですよ。秋から始まる授業で使うものとそうでないものを分けて、揃えているんです。パッと見じゃわかりませんし、なくしたら困りますから」

「なるほど、大晦日でもないのによくやるものだ。身辺整理など、年に一度で良かろうに」

「終活みたいに言うのはやめてください」


 身辺整理と言われる程真剣にやっているものではない。個人的に、どれが何のプリントかわかりやすくしておきたいだけだ。

 この言い方だと、幽霊さんは整理整頓を日常的にするタイプではないのだろう。たしかに、私の部屋に対して何か言われたことはない気がする。試験前とかは結構散らかしていた自覚があるけど、文句ひとつ言われなかった。幽霊さんの場合、床を歩く訳ではないから関係ないのかもしれないけれど。

 ある程度仕分けが終わったら、何枚かプリントをまとめて穿孔機穴あけパンチで穴を開ける。家に置いておくものは、大きめのリングファイルにしまっておくのが良いだろう。


「むん」


 作業の手を止めてふと顔を上げてみると、幽霊さんが積み上げられたプリントの上に浮かんで何やら眉根を寄せていた。いつになく真剣な表情だが、一体何をしているのだろう。眉間のシワがどんどん深まっていくことくらいしか、目視ではわからない。


「幽霊さん、何してるんですか?」


 ぐっと伸びをしつつ、休憩がてら問いかけた。何も聞かずに事の成り行きを眺める選択もあったけれど、あのまま何も起きなかったら見物人として虚しい気持ちになる。せめて目的くらいは聞いておきたい。

 ポーカーフェイスがデフォルトな彼にしては珍しくしかめっ面をしていた幽霊さんは、私と視線が合うや否や表情を弛緩させた。何とも言えないゆるっとした空気がその場に流れる。


「ほら、心霊現象にあるだろう。ものがひとりでに動き出すやつだ」

「ポルターガイストですか? 広義ではラップ音や謎の発光とかも含まれるみたいですけど」

「恐らくそれだ。毎度思うことではあるが、何故人は横文字を使うのだろう。日本人なら和訳すれば良いんじゃないか?」


 横文字への苦手意識は未だに健在のようだ。ぽると、ぽるてると何度も反芻するように呟いているが、ポルターガイストには程遠い。

 というかそもそも、ポルターガイストとはドイツ語で騒がしい幽霊、とかいう意味じゃなかったっけ。そのまま訳したら、微妙に意味が違ってきそうな気がする。

 それはさておき、先程の発言からするに、幽霊さんはポルターガイスト現象に挑戦しようとしていたのだろう。妙に力んでいた風なのも、精神を集中させていたにちがいない。幽霊とポルターガイスト現象はよく結び付くものだけど、幽霊さんにとってはどうなのだろう。少し気になる。


「それで、成果はありそうですか? 途中で水を差してしまったのなら謝ります」

「いや、気にすることはないよ。無理そうだし」


 いつものことではあるけれど、いくら何でも諦めが早すぎる。

 まだ挑戦して一分も経っていなさそうなのに、何がどうして無理と断じるに至ったのだろうか。たとえ難しくとも、もう少し試してみようとは思わなかったのか。

 言いたいことは山ほどあったが、あまり矢継ぎ早に責めるとまた拗ねられる可能性がある。幽霊さんの性分は、これまでの付き合いで熟知している……つもりだ。慎重に言葉を選ばないと、実害はあまりないけど彼が面倒臭いことになる。


「そんなに難しいものなんですか? 割と心霊現象の中じゃオーソドックス……普遍的な印象がありますけど」

「恐らく向き不向きの問題だ。俺は根気強い方ではないからな。手も触れずに物体を動かそうと考えるだけで、なんだか頭が痛くなってくる」

「逆にどうして挑戦しようと思ったんですか……」

「幽霊だからな。たまにはそれらしいことをしてみようと思った。とんだ無駄足だったが」


 地に足をついていないご身分でよく言う。この人には計画性というか、先を見通す力がないのだろうか。


「そう、じっとりとした目を向けるな。俺だって、幽霊なら誰でもできる、などと思って着手した訳じゃないぞ」

「……違うんですか?」

「大いに違うとも。良いか、俺は先日の胡散臭いじじいの話を聞いて、幽霊のうちにしかできない、謂わば幽霊らしいことを試してみることに決めたんだ。は、あくまでもその一環に過ぎない」

「ポルターガイストね」

「大体同じようなものだろう」


 たしかに、発音としては近くなった。いちいち指摘するのも意地が悪いかもしれない。


「それで、幽霊らしいことって例えばなんですか? 私からしたら、幽霊さんってだけで大抵はそれっぽく見えますけど……」

「ふふふ。よくぞ聞いてくれたな。まあ休憩だと思ってゆっくり聞いていけ」

「作業しながらでも聞けますよ」

「…………」

「わかったわかった、ちゃんと聞きますから」


 良い大人がわかりやすく頬を膨らませるんじゃない。いつになっても、こういう子供っぽいところは変わらないんだから。……いや、もう成長しない幽霊だからこそ、変わりようがないのかもしれないけれど。

 ひとまず手元のプリントをファイルにしまいこんでから、私は居住まいを正す。適当に聞いていたら、当たりもしないパンチやらキックが降ってきそうだ。すり抜けるから、結局のところ痛くも痒くもないんだけど……幽霊さんにとっては面白くないだろうから、そこは彼に合わせてあげることにしよう。

 私が聞き役の姿勢に入ったことを確認して、幽霊さんはこほん、とひとつ咳払いをする。そんなに改まる程の話なのだろうか。自然とこちらの背筋も伸びる。


「まずはあれだろう、騒音」

「ラップ音ですね。騒音だとご近所トラブル感が……」

「さっきも聞いたが、恐らくそれだ。目に見えない存在が、どこかで身動きしている……それこそが幽霊の醍醐味だろう。俺もできないかと思ってな」


 そう言って、幽霊さんはぱちぱちと拍手をした。聞こえているか、と期待に満ちた眼差しで聞いてくる。

……うん、これは言いにくいけど、伝えるしかないのだろう。


「既に幽霊さんを知覚している私で試しても、意味がないのでは」

「…………がーん」


 口で言っちゃったよ。

 その言葉に相応しく、幽霊さんはがっくりと項垂れた。そもそも声が聞こえている時点で私は除外するべきだろうに、私との会話が日常と化していたためかすっかり失念していたらしい。


「……まあ、仕方がない。お前は例外だものな。この案は保留としよう。今度お前の隣人にでも試してみる」

「他人に迷惑かけないでください」

「昼間にやるから大丈夫。それはさておき、次だ。心霊現象と言えば、得体の知れない血だろう」


 先程よりもしょぼくれた様子で、幽霊さんは続ける。

 彼の言わんとするところは、私にもすぐにわかった。たしかに、鏡を見ていたらいきなり血の手形がばんっと出てきたり、血文字がどこからともなく記されたりすることがある。

 でも、これにも私は疑問を呈さなくてはならない。


「ものに触れないのは置いておいて……血はどこから調達してくるんですか?」

「どこって、ここだ」


 言うや否や、幽霊さんはがばっと躊躇いなく諸肌脱ぎになった。思わず私はひっ、と悲鳴を上げてしまう。

 いきなり脱がれたのもびっくりだけど、問題はそこじゃない。幽霊さんの腹部には、刃物で突き刺したものと思われる十字の傷があり、今も尚どくどくと出血していた。

 間違いない。これは幽霊さんが切腹した時の傷だ。

 どうして白装束に染み込んでいないのかはわからないけど、見ていて気持ちの良いものではない。幸い中身はまろび出ていなかったが、血に慣れていない私にとっては具合が悪くなりそうな光景だ。


「偶然にも、俺は切腹経験があるからな。この辺りは死に際が反映されたようだ。これを活かして、いい感じに血液を撒き散らせば実現もやぶさかでは──」

「戻して、説明は後で聞きますから早く戻して!」

「ああ、たしかに現代では腹を切る機会も少なかろうな。見苦しいものを見せてしまった、すまない」

「謝罪も後で良いから!」


 本当は無理矢理にでも戻したいけど、触れられない状況ではどうしようもない。そっぽを向きながら全力で促すしかできなかった。

 幸いにして、幽霊さんは聞き分けが良かった。わかった、という返事が聞こえた数秒後には、いつもの格好で私の前に回り込んできた。


「お前がそこまで驚くとはな。意外だった」

「あんな生々しい傷を見せられたら、一般人なら誰でもこうなりますって……」

「そうだろうか。医者とかなら慣れているんじゃないか?」

「食い下がらなくて良いですから。……でも、不思議ですね。着物には血痕ひとつ付いていないって、どういう仕組みなんだろう」

「それは俺も疑問に思っていた。押し付けてみても、内側から染み込むことはない。血も幻なのかな」

「痛くはないんですか?」

「全く。心配無用だ」


 それなら良かった。……というか、切腹の痛みを抱えたまま百五十年ちょっとをさ迷い続けるって、生前にどんな悪行をしでかせば良いんだろう。地獄の責め苦並みにきつくないか。

 うーん、と幽霊さんは腕組みをしながら浮遊する。


「他にも色々考えているんだが、こうなってくるとお前で試すのは悪い気がしてきたな。梵に嫌われたら、俺はまた孤独な幽霊に逆戻りだ」

「他にも……って?」

「金縛りに遭わせるとか、寝ている間に足首を掴むとか、取り憑くとか、写真に映るとか……」

「写真以外はやめてください」

「うん、普通に迷惑だな。死者ならなんでもして良いと思っているんだろうが、割と犯罪じみている気がしてきた。知り合いにはやめておく」


 幽霊としては三下かもしれないが、と幽霊さんは肩を落とす。納得はしているようだが、どことなく残念そうだ。


「……別に良いんじゃないですか、無理に幽霊らしいことをしなくても。祟りはできるんですから、ちゃんと幽霊してると思いますよ」


 そんな幽霊さんはなんとなく見ていられなくて、私は柄にもなくフォローを入れてしまった。幽霊さんがきょとんと瞬きしている間に、誤魔化しも兼ねて手元のプリントをとんとんと揃える。


「んふふ。梵が優しい」


 そして私を構わずにはいられない幽霊さんは、案の定にやにやしながら周囲を回り始めた。お腹怪我してるのに、元気そのものといった様子で小憎らしい。

……まあでも、ずっと落ち込まれるよりは良いか。

 仕返しにため息を吐いてやりつつ、私は整理整頓を再開したのだった。

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