第24話 絶叫

 洗面所に入ったらオニヤンマがいた。

…………何故?

 お風呂場の窓は開けていない。玄関の扉だって、今日は閉めきったままだ。リビングは洗面所とはそこそこの距離があるし、開けたとしても洗濯物を干す時の一瞬である。

 侵入経路がわからない。となると、こいつは私の部屋で一晩以上過ごした可能性も出てきた。

 本当にやめてくれ。私は虫全般と相容れない人間なんだ。殺したいとは思わないし絶滅して欲しい訳でもない。ただ、私の目の前に現れて欲しくないだけだ。共存できない以上、生きる場所が交わらなければ良い。

 そんなささやかな願いでさえ、こいつは踏みにじるのか。踏みにじる足ないけど。

 いや、駄目だ。落ち着け。ここでいきなり扉を閉めてみろ。奴は突然飛んできて挟まれるか、そのまま洗面所に取り残される。

 前者は本当に最悪だ。潰れた死骸を片付けるのは、紛れもなく私。生きていても死んでいても、虫である以上触りたくなんかない。しかもゴミの日はまだ先だから、たとえティッシュやトイレットペーパーで包んだとしても数日は死骸と同じ空間に居続けなければならない算段になる。控えめに言ってこの世の終わりだ。どん底だ。末法どころの騒ぎじゃない。私にとってのハルマゲドンとはこのことだ。これ以上の悲劇カタストロフィーはないだろう。

 後者は前者に比べると一見ましに思えるが、それは間違い、遅効性の毒じみた大惨事だ。後から再び開けて確認しなければならないし、中にいてもいなくても私は酷い目に遭う。仮にいなくなっていたとして、どこから逃げたのかという命題に直面するだろう。そうなければ、オニヤンマ以外の虫どもが入り込んでくることも考慮しなければならない。

……駄目だ、虫のことを考えるだけで鳥肌が止まらない。インフルエンザにでもかかったみたいだ。全身が悪寒で加工されている気分、つまりどう考えても最悪の結末にしかたどり着くしかない。バッドエンドしかご用意されていないノベルゲームか。

 いや待て。一旦落ち着こう。最悪の事態ばかり考えていてもオニヤンマは消えてくれない。策を練るんだ。

 殺さずにこの部屋から追い出すには、窓辺まで誘導することが先決だ。そのために窓か扉を開けておく必要があるが、そのタイムラグで私物や家具にとまられたらどうする?

 冗談じゃない。最悪だ。胃酸の全てを吐き散らかす自信がある。毒性がなくたって気色悪いことには変わりないんだよ。煮沸消毒しなきゃ気が済まない。今奴が乗っかっているタオルは念入りに洗濯することが決定した。勿論、他の洗濯物とは別で。

 しかし、誘導させるには多かれ少なかれオニヤンマを動かす必要がある。当然ながら触れないので自力で飛んでもらうしかないのだが、その場合私の方へ向かってくることだけは絶対に避けなければならない。

 ハエ叩きのような細長い棒状のものがあれば良いのだけれど、ハエを叩くなんてできないので別のもので代用するのが妥当だろう。追い込み漁のような要領でオニヤンマを指定の位置まで移動させる。そして外へ出ていってもらおう。まずは取っ掛かりとなる棒状のものを可及的速やかに見つける必要が、


「あ」


 ぶん。

 オニヤンマがこっちに向かって飛飛飛飛飛飛飛飛、


「おあぁぁぁあああアアアアアあああ!? うああああアアぁあっあああああああああ!!」


 なんでなんでなんでこっちに来るのあり得ないんだけど!

 咄嗟にしゃがんで回避したは良いものの、奴はまだ室内にいる。脱出経路はどこにもない。つまり野放し、どこに行かれるかわからない最悪のケースだ。

 すっかり腰が抜けてしまったけれど、このまま全てを諦めてはならない。私は這いずりながら洗面所を出る。

 まだ飛び回ってる! 電気の周りを、ぐるぐると!


「おい、どうした。断末魔が聞こえたが」


 そして何も知らないであろう幽霊さんが、壁からにょっきりと上半身を覗かせる。私の絶叫を聞き付けて来たのだろうか。言っておくが断末魔ではない。私はまだ生きている。

 いやそれよりも今は憎き侵入者をどうにかしなくては。ほとんど両手だけで移動しながら、私はどうにか近くにあったキッチンペーパーの芯を掴む。ハエ叩き程の長さはないけど、背に腹は代えられない。オニヤンマを追い出せるなら何だって良い。


「ゆゆゆゆゆ幽霊さん、そこ、そこに虫ががが」

「大丈夫か。電話が来た時の並みに震えているが」

「虫、虫、早く早く追い出さないと」

「ああ、そういえば蜻蛉とんぼがいるな。どこから入ってきたんだ。珍しい」


 珍しがってる場合か! こっちはバイブレーション並みに恐怖し嫌悪し震えが止まらないのに、どうしてそれほど平然としていられるんだ。というか私の異常をもっと重大に受け止め──


「──あ、そっちに行ったぞ」


 幽霊さんが指差したのと、私が肩にとまるオニヤンマを視認したのはほぼ同時だった。

 どうやって移動したのかはわからない。しかし私は声にならない叫びを上げて、立ち上がらずにベランダまで移動して飛び出していた。そして炎天下の中、右腕をぶんぶん回す。

 さすがに空気を読んだのか、人騒がせなオニヤンマは何事もなかったかのように夏空の向こうへと飛び立っていった。


「…………発狂したのか?」


 一目散に窓を閉めてへたり込んでいる人間にかける言葉がこれである。本当に、幽霊さんにはデリカシーがない。


「む、虫、苦手なんです。見てわかりません?」

「ただ苦手なだけ、という風には見えなかった。大丈夫か? 刺されてはいないだろうな」

「どっちかっていうと噛むタイプでしょオニヤンマはぁ……」

「今にも祟りそうな顔で俺を睨むのはやめてくれ。理解が足りなかったことに関しては謝罪する」


 実際に祟りを成功させた幽霊さんに言われたくない。どんな顔なのか、という疑問は後回し、今は虫を追い払ったことに安堵し、終始空気を読まなかった幽霊さんを恨むだけだ。

 余談だが、私の絶叫は他の住人に咎められることはなかったものの、隣人である盈さんにはばっちり聞こえていたらしい。あの後すぐにチャイムが鳴って、純粋に心配された。恥ずかしかった。

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