第7話 天の川

 幽霊さんは季節の催し物が好きらしい。普段から私の部屋の壁にかかっているカレンダーを眺めて、今日は何々の日だそうだ、と伝えてくる。いや語呂合わせだけじゃん、と言いたくなる時もあるけれど、毎日が似たような一日になりがちな彼にとって、そういった少しの差異はちょっとした楽しみでもあるのだろう。私の生活に支障をきたすような発言ではないので、いつも適当に聞き流している。

 そして、それはこの日も例外ではなかった。カップラーメンを運んできた私の前に浮かんだ幽霊さんは、少しだけ口角を上げてこう切り出してきた。


「今日は七夕だ。何か願い事は書いたのか」


 そういえば、今日は七月七日、いわゆる七夕だ。大学のラウンジにも、短冊を吊り下げる笹が飾ってあった。

 勿論、私がそのようなイベントに参加することはなく。あ、笹だ、くらいの感慨で通り過ぎた。その時は結構人が集まっていたし、寂しい笹にはならないはずだ。

 ふるふる、と首を横に振ると、幽霊さんはなんと、と目を見開いた。そして、いつもより勢いよくこちらに近付いてくる。


「何故だ。せっかくの七夕なのだから、願い事くらい記しておけば良かろうに」

「特に切羽詰まった願いはないので」

「そんなことあるのか? 若者というのは、大抵ひとつやふたつ悩みを抱えているものだ。知っているぞ、お前は遠からず就職しなければならない。その前に、何か研究の発表もするんだろう。それらに対する不安はないのか」

「やめてくださいよ、妙にリアルなこと言うの……」


 早くて悪いということはないだろうけど、こんな時に就活だの卒論の話をされるとさすがにげんなりする。家でくらい、嫌なことを忘れて過ごしたい。というか、幽霊さんは余計なことを知りすぎだ。最近は大学にもよく出没するから、ほとんどの人に見えないのを良いことに情報収集をしているんだろう。もっと私にダメージの少ない話題から吸収して欲しい。

 幽霊さんの指摘通り、就活と卒論、そして将来に対する不安はなくもない。でも、今は大学生としての平穏を享受していたいのだ。こんな暑い季節に、全身真っ黒のリクルートスーツなんて着たくない。

 ため息を吐き、ラーメンをすする。インスタントの豚骨ラーメン。細くて硬めの麺が美味しい。

 ふと顔を上げれば、幽霊さんがカーテンの向こうに上半身を突っ込んでいた。慣れてはきたけど、初見だとやっぱりぎょっとする。


「今年は幸運だ。天の川が出ている」


 お前も見ると良い、と言われたので、カーテンだけ開けた。そういえば、去年はこの時期、雨が続いていたっけ。変わり映えのない日々が続くのは良いことだけど、すぐに忘れてしまうのがネックだ。

 席に戻って改めて見れば、幽霊さんの言った通り天の川が広がっていた。無数の星でできた奔流。あれを川と表現した人は、きっと風情がわかる人種だ。


「幽霊さんは、何か願い事したんですか」


 口の中のものを飲み込んだタイミングで、そう問いかけてみる。私を責めるくらいだから、していない方がおかしいとは思うけれど。

 幽霊さんはこっちを振り向かなかった。ああ、という肯定の言葉が、普段と変わらぬ抑揚で返ってくる。


「やはり、早く成仏したいからな。頼れるものには見境なく行こうと思う。そうしたら、いつか、どこかで俺の願いがすくい上げられる日が来るかもしれない」

「ふうん……途方もない話ですね」

「そうだな。俺はあまり神頼みをしない方だったが、もっとしておけば良かったと少し後悔しているよ。死ぬ前に、念仏のひとつでも唱えられたら良かったんだが……覚えていたとしても、あの時の俺では思い出すことすらできなかっただろうな。不甲斐ない」


 顔は見えなかったけれど、その背中から幽霊さんがしょんぼりしていることは明らかだった。背中というか、ほとんど臀部だけど。

 今の幽霊さんは、感情の起伏が薄くて落ち着いている。少し……いや、かなり掴み所がなくて不思議な人だけど、基本的には穏やかで温厚だ。たまに物騒なことを言うし、前に大きめのにきびができて恨んだことはあるものの、私にとって有害な存在とは思えない。

 でも、幽霊さんは他者を祟った。それだけの激情を、かつては持っていた。今の彼からは想像できないけど、幽霊さんがそう言うのなら、として受け取るのが一番なのだろう。


「生前の幽霊さんって、今とかなり印象違う感じだったんですか?」


 気になったので聞いてみた。彼はまだ天の川を見上げている。

 まあ、デリケートな話題ではあるよね。いくら親しげとはいえ、私たちは出会って一ヶ月も経っていない。私だったら、プライベートな話題なんて一年経ってもするかしないか決めかねるところだ。

 答えづらかったら別にいいですよ、とスープを飲みつつ言う。私は猫舌なので、少しずつちびちびとしか飲めない。本音を言えば、もっと豪快にがぶがぶといきたいところなのに、面倒な体質だ。こればかりはうちの一族の遺伝もあるので、どうしようもない。


「……引かないか?」


 やっと半分までいったところで汗を拭えば、幽霊さんの上半身が室内に戻っていた。眉をハの字にして、唇をぎざぎざとさせながら、捨てられそうな犬みたいな顔でこっちを見ている。


「…………内容によります」

「目が泳ぎすぎだ。そこは引かないと断定するところだろう」

「もし引くような話だったら、不誠実じゃないですか」

「それはたしかに一理ある」


 あるんかい。ギャグマンガだったら、ここでずっこけていたかもしれない。

 何にせよ、幽霊さんは過去を隠すつもりはないらしい。気にならないといったら嘘になるし、心して聞くことにしよう。


「若気の至りとか、よく言いますけど……幽霊さんも、活力に比例してはっちゃけていたんですか? いまいち想像できないなあ」

「はっちゃけるというよりは、調子に乗っていたな。他人ひとをからかうのが面白くて堪らなかった。よく背後に回って、膝をこう……かくんとやるのが好きだったよ。単純に相手の驚く顔が見たかっただけなんだが」

「あー……そういう……」

「……今は控えているぞ。時と場合を考えるようになった」


 考えても見えなければ意味がないし、割と私のことも驚かせていると思うのだが、本人の努力を否定するのは申し訳ない。私からはノーコメントとさせてもらおう。

 でも、たちが悪いのはともかく、引く程の所業ではないと思う。現代にも、いきなり膝カックンしてくる人なんてごまんといるし、よっぽど空気を読まない相手でもなければそこまで大問題になることもなさそうだ。

 割と普通じゃん、という私の思惑に気付いたのだろう。幽霊さんはじろ、と目を細めてこちらを見た。


「ここからが本番だ」

「まだあるんですか」

「あるぞ。先程のは試し斬りのようなものだ」


 まさかの二段構成だった。まだ続きがあるのか。期待したいような、聞きたくないような、複雑な気持ちになる。


「今となっては、本当に恥ずかしいというか、自己反省するしかないが……生きていた頃は、一応剣術をかじっていたのでな。自分のことを、それなりに強いと思っていた」

「でも、それなりに、なんですね」

「周りに化物がうじゃうじゃいたからな。自らの力を過信することはなかったよ」

「化物って……そんなにヤバいんですか」

「強すぎるという比喩表現だ。会津はそれほど怖いところではないぞ」


 幽霊が化物と称する相手、気にならないはずがない。だが、幽霊さんは特に深掘りすることなく話を続けた。


「これであまり強くなかったのなら、ある種の諦めもついたろうが……俺は不幸なことに、剣に苦い思い出がなかった。故に、生前はこう思っていたのだ。強い相手と戦い、華々しく散って死ぬのだ──と。それこそが、剣士としての本望なのだと、酒を飲みながら友に何度も語った」

「…………」

「しかし、俺は討死しなかった。最後の最後で、腹を切った。そのことを悪いとは思っていないんだが……その、あれだけ豪語しておいていざとなったら実現できず、幽霊になってさ迷っているというのは……こう、胸に来る」


…………わかるような、わからないような。でも、何とも言えない気まずさがあるのはわかる。

 多分、あれだ。小さい頃、声高らかに私は歌手になるのだと言って、専門的なボイストレーニングや指導を受けたのに、最終的には歌手にならず歌に触れることもなく関係ない職業に就いてしまった時みたいな、そういうやるせなさと過去の自分への羞恥かもしれない。

 あくまでもイメージだけれども、昔に大それた夢を見すぎて後からじわじわ恥ずかしくなる気持ちは私にもわかる。私だって、幼稚園の頃はクリオネになるのだと言ってはばからなかった。あの時の話を親戚との集まりとかで蒸し返されると、壁を突き破って何もかもから逃げ出したくなる。

 誰にも相手にされないのなら、自然と過去を振り返る機会も増えるはず。幽霊さんは、何度過去の自分を恥じたことだろう。


「……ひとつ、見付けました。願い事」


 開け放たれたカーテンの向こう。回想するにはうってつけの夜空を眺めながら、私は呟く。

 幽霊さんがそれを聞き逃すことはなく、当然のように隣に並んできた。長い髪の毛を耳にかけ、聞き届ける準備は万端である。


「ほう。それはどんな願い事だ?」

「──友達の願い事が叶いますように」


 沈黙。

 幽霊さんは浮かびながら、きょとんと目を丸くする。友達、と譫言うわごとのように繰り返された。機械的でちょっと怖い。


「成仏したいんでしょう。さっき言ってたじゃないですか」


 いちいち説明するのは面倒だったけど、生憎私はそれとなく伝えることが苦手だ。幽霊さんに人差し指を向けながら、このにぶちん、と白眼視する。


「友達……とは、俺のことか」

「他に誰がいるんですか」

「……友達、なのか。俺と、お前は」

「ここ最近で、一番話してる相手ですし。この関係性を表現するには、友達と形容するのが最適かなって」


 いつからそう思い始めた、という起点はない。なんとなく、この幽霊とは友達なのだ、と言葉にした瞬間に納得した。これほどすんなり受け入れられたのは、単純に波長が合うからか、それとも霊的な何かが働いているのか。私にはわからない。

 幽霊さんは口を『あ』の形に開けたまま、その場に浮かび続ける。そして、絞り出すような声で言った。


「お前……幽霊が初めての友で、本当に良いのか」

「……………………」


 あのね、幽霊さん。

 たしかに、私は大学でそれほど親しい人はいないし、基本的に一人で行動している。私自身、それを心地よいと思っているし、これからもそのスタンスを変えることはないと思う。

 でも、ひとつ言わせて欲しい。私はコミュニケーションが下手ではあるけれど、人と関わるのが嫌いという訳じゃあないんだな。


「いますよ、友達。地元に」


 スマホを開き、LINEグループを見せる。高校時代の、特に仲の良かった数人と、今日もとりとめのない雑談をしていた。

 幽霊さんが硬直する。表情が、動きが、全て一時停止し──。


「あっ、ちょっと」


 無言で、壁をすり抜けてどこかに行ってしまった。

 少し申し訳ない気分になったけど、それは一時の話。翌日には、拗ねた顔でまた私の部屋にやって来たので、そこまで大きなダメージではなかったのだろう。面倒な友達ができたものだ。

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