欠陥品

 クエルは高く昇った月が照らす森の中で、足元に横たわるセシルの姿を呆然と眺めていた。


 それは自分の操り人形だったセシルが、床に横たわっていた時の姿と重なって見える。


 ヘラルドたちがここを去ってから、クエルは幾度となくセシルの唇に己の唇を重ねた。


 だがセシルは全く動こうとはしない。クエルの目から滴った涙が、セシルの頬に落ちた。それはそこに留まることなく、ついた泥を押し退けながら滑り落ちていく。


『マスター、自分を責めるな』


 不意にクエルの心に声が響いた。それは間違いなくセシルの声だったが、何時もの人を馬鹿にしたような、拗ねた声とは全く違って聞こえる。


 それは弱々しく、そして意識を集中していないと消えてしまいそうな声だった。


『これは我の罪だ。我が人形として欠陥品だっただけのことだ』


「欠陥品?」


 セシルの言葉にクエルは当惑した。これは自分の身の程知らずな我儘が引き起こした結果だ。だがそれが聞こえているかの様に、セシルは言葉を続けた。


『そうだ。我は人形にも関わらず、己のマスターの力量を見誤った。その結果だ。それに人形にとってマスターは一人だが、マスターにとって人形は一つではない』


 その言葉にクエルはさらに当惑した。


「セシル?」


『人形は己のマスターに対して合理的であらねばならぬ。それが人形だ。お前は我を置いて今すぐここを立ち去れ。西へ向かって脇目も振らずに駆けろ。それがお前にとってもっとも安全だ』


 クエルの心の奥底で、油灯に火をつけるように何かが点った。それがクエルの中で次第に大きくなっていく。クエルはその感情に戸惑い、それが何かを理解した。


 黄金の鎖を見た時と同じだ。自分は彼女に、セシルに対して心の底から腹を立てている。


「ふざけたことを言うな!」


『ふざけてなど……』


「僕、クエルはマスターとして汝、セシル=セレンに命じる。二度と僕の前で自分を欠陥品などと呼ぶな。二度とだ!」


『我、セレンは我が主人の僕としてその命に従う』


 クエルは心の中でセシルの吐息を、その息の震えを感じた様な気がした。


「セレン、僕を受け入れろ。僕の命だろうが魂だろうが、全部くれてやる。だから目を開けて僕を見ろ。そして小言の一つでも言ってくれ!」


『了解した。もう何も言うまい。我はいつでもお前の潜在意識のあるべき姿に忠実だ。それにもう逃げる時間もない』


 クエルは地面に横たわるセシルの体を抱き上げようとした。しかし両の腕から棒で殴られたみたいな痛みが走る。


 背後で手を縛られたまま、何度も地面へと投げ飛ばされたのだ。骨にヒビの一つくらい入っているのかもしれない。


 だがクエルはその痛みを無視して、セシルの体を抱き抱えた。月明かりに青く浮かぶセシルの唇に、己の唇を重ねる。


 セシルの口元についていた泥が入り込み、口の中に苦みが広がった。しかしそんな事などどうでもいい。クエルは息が続く限り、その唇に自分の思いを刻み込んだ。


 人は自分の為だけに生きている訳ではない。何処かに勝手に消えてしまっていいものでもない。セシルはそれを自分に気づかせてくれた。


 セシルと出会っていなかったら、フリーダの手をとって踊ることはなかっただろう。自分以外の誰かと踊るべきだという理由を見つけて、絶対にそこから逃げ出していたはずだ。


 何かがクエルの心をピンと引っ張る。クエルはセシルの唇に温かみが、生気が戻ってくるのを感じた。その一方で自分の中の色々なものが、まるで砂の城の様に崩れていく。


 でも誰かが自分の体をそっと抱きしめてくれている。それはクエルにとって、とても安心できる、かけがえのないものだった。


 ホ――。


 どこかでフクロウの鳴き声が聞こえてくる。月明かりだけが差し込む森の中で、セシルはクエルの体を両腕で受け止めていた。


「マスターには同期がどれだけ危険なことか、良く知っておいてもらう必要があるな。もっとも今の我にはそれを受け入れる他に手はない」


 セシルの口から言葉が漏れた。その内容は小言の様でもあったが、親愛の情に溢れている。


「それでも化身この姿を維持するのが精一杯というところか。だがよく耐えた。精神の力は脆くもあるが、計り知れない力も秘めている。それを見誤った我は人形として……。いや、それは口にせぬ約束だったな」


 そう告げると、セシルは抱き止めていたクエルの体をそっと地面へ下ろした。そして背後の森の方を振り返り、少し険しい表情をして見せる。


「まだ力が足りぬ。まさかマスターがこちらも含めて、全てを吹き飛ばすとは予想もしなかった。我もまだまだ青い。所詮はまだ芽だな……」


 セシルは軽く頭を振って見せると、クエルの横に跪いた。その動きは怪我でもしているみたいにぎこちない。


けがれになる故、出来れば使いたくなかったが、我がマスターを守る為には仕方がない」


 そう言うと、手を開いて地面に両手をつく。髪がその目の色と同じ深紫色にそまり、風もないのに何かの力によって持ち上がった。だがその動きがすぐに止まる。


「やはり時間がなかったか……」


 セシルのつぶやきに応えるように、暗闇の中から不意に人影が浮かび上がった。その背後から、盾と馬上槍を掲げた灰色の騎士も現れる。


「誰だ? いや、人形なのか?」


 人影から驚きの声が上がった。


「体調不良につき、このような姿勢で失礼させていただきます。クエル様の侍従をしております、セシルと申します」


 セシルは地面に両手両膝をついた姿勢のまま、驚いた顔をしているエーリクに向かって、にっこりと微笑んで見せた。


「お声をかけて頂きまして、大変光栄に存じます。ですが、ご挨拶はまたの機会にさせていただけませんでしょうか?」


「なるほど、王都には人間そっくりに振る舞う人形がいる、という噂を聞いていたが、お前がその人形なのだな」


「人形? 私はこちらのクエル様の侍従でございます」


「お前に用はない。そこを退け。マーヤ様への無礼は決して許さん。そいつを地獄に送ってやる」


「そうおっしゃられましても、侍従としては主人を放ってはおけません」


 セシルはそう言うと、顔を顰めているエーリクに対して、悲しそうに首を横に振って見せた。


「本当に人の様な振りをするのだな。そこの無礼者が勘違いをするわけだ」


「勘違い? 何の事でしょうか?」


「単なる反応に過ぎないのに、人形が自分に好意を持っているという勘違いだ」


「そうでしょうか?」


 セシルはエーリクにそう問いかけると、さも愛おしそうに、クエルの頬へ自分の頬を寄せた。


「これは反応などという表面的なものでしょうか?」


 その姿を見たエーリクがうんざりした顔をする。


「寝台の上の仕事も兼ねているのか? 如何にも王都のゲスどもらしい趣向だな。こちらとしては人形を意味もなく壊す趣味はない。だが退かないのであれば、破壊させてもらう」


 エーリクの台詞に、セシルはニヤリと笑って見せた。その表情には先ほどまでのあどけなさは何処にもない。


「向こうの方が早かったか。どうやらこれ以上時間を稼ぐ必要はないな。本来ならお前の様なおろか者は、我がこの手で排除してやるのだが、今日は日が悪い。その幸運に地面へ頭を擦り付けて感謝しろ」


「アイゼン、せめてもの情けだ。人形ごと貫いてやれ」


「今回は特別にお前に譲ってやる」


 セシルはそう告げると、その身をクエルの上へと横たえた。セシルの動きを見たエーリクが、はっとした表情で辺りを伺う。


 風がないはずなのに、周りの木々から落ち葉が盛んに舞っている。エーリクはクエルの方に向けて槍を掲げていた人形に盾を構えさせると、背後へと飛び退いた。


「クエルから離れろ!」


 森の奥から上がった叫び声と共に、巨大な何かが、落ち葉を舞い上げつつエーリクの前へと飛び出してきた。

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