踊り手

 ギュスターブと同じぐらいの年齢の男性が二人、手洗いへと入ってきた。二人とも個室の扉の影に隠れている、クエルに気が付いている様子はない。


 そもそもクエルには彼らから身を隠さなければいけない理由など無かった。


 だが同世代の男女がフリーダを囲んで歓談している中で、自分一人が緊張で掻いた汗などを拭いている姿を、誰かに、それもギュスターヴの関係者には見られたくなかったのだ。


「ギュスターブも中々やるな。長男次男は流石にいないが、御三家から三男坊以下をそれぞれ一人招待するとは。そもそもギュスターブはどの派閥でもないのだろう?」


「そうだ。それにやっと宮廷に足掛かりを得たばかりだからな。それもあのエンリケが色々と序列をかき回した結果だ。だがどこにも属していないというのも利点ではある。やつはそれをうまく使って立ち回って来た」


「だがあのエンリケがいなくなった今では、その八方美人も限界だろう。それがこの誕生日会ということか?」


「そうだろうな。娘を介してどこかの家と結びつくつもりだ」


「それにしても各家の子弟もよく出てきたな。末席も末席だぞ?」


「家柄の問題だけじゃないだろう。ギュスターヴの奥さんは昔から美人で有名だ。何せ王族から言い寄られたという噂があるぐらいだからな。娘も前から母親似の美人という噂だった」


「なるほど。噂は本当だったと言う事か。やはり娘の器量は大事だな。羨ましい限りだよ」


「何を言っている。お前自身が玉の輿だろうが……」


 二人の声が外へと去っていく。クエルは個室の陰で大きくため息をついた。やはり予想した通りだ。フリーダには色々と縁談の話がある。


 その相手は御三家と呼ばれる人形師の名門、「ウルバノ家」「ローレンツ家」「チェスター家」の三つの家のどれからしい。自分の様な者に出番などない。


 クエルはよろめく様に個室から這い出た。手洗いの鏡には虚ろな顔をした17歳の少年が映っている。クエルはそこに映る顔に拳を振り下ろした。


 ドン!


 低く鈍い音が辺りに響く。金属の板に貼り付けられたガラスの向こうでは、感情を表に出してしまったことに驚き、後悔している少年の顔があった。


 ともかく会場へ戻ろうと手洗いを出たときだ。クエルはすぐに何かの違和感を感じた。自分が手洗いに入る前にあった人のざわめきがない。


 代わりに張り詰めたような緊張感を感じる。その理由はすぐに分かった。


 会場の中心でフリーダを前に、3人の男性が跪いて手を差し出している。それを少し離れた場所から見つめている、若い男性や女性の輪があった。


「どうか私と踊っていただけませんでしょうか?」


 3人の中の一人が、フリーダに声を掛けるのが聞こえた。黒髪で長身の男性。最後にフリーダに挨拶をしたマクシミリアンだ。


「誰を選ぶのかしら?」


「私だったらあの金髪さんかしら? 可愛い顔をしていません?」


「私ならあの黒い髪の坊やね。気品がありますもの」


 近くの卓の妙齢の女性達のささやき声が、クエルの耳に聞こえてくる。


「お前達、これはそういう問題ではないよ。もっと繊細で微妙な問題だ」


「あら、女性にとっては大事な問題よね」


 その他人事らしい会話を耳にしながら、クエルは自分の周りで色々なものが崩れ去っていくのを感じた。甘く懐かしい子供時代は過ぎ去ってしまったのだ。


 不意に喉の乾きを感じたクエルは、飲み物の盆を持つ給仕を見つけると、その前へよろよろと進んだ。そして手にしたグラスの中身を一気に流し込む。


 だが乾きが癒える気は全くしない。それを感じているのはクエルの喉ではなかった。心なのだ。それでもクエルは再び盆に手を伸ばす。


 すぐに手を伸ばしたクエルを見て、給仕役の女性が少し怪訝そうな顔をするが、クエルは気にせずグラスを手にした。


「クエル!」


 不意に誰かが自分を呼ぶ声がする。その声に驚いたクエルは、手にしたグラスを床へ落としてしまう。その中身はクエルの礼服の裾にもかかった。


「お客さま、大丈夫ですか!?」


 給仕は慌てて盆を近くの卓に置くと、前掛けのポケットから布を出した。


「もう、何をやっているのよ!」


 クエルの前に、赤いドレスを着た少女が駆け寄って来るのが見える。そして給仕の手から布を取ると、クエルの礼服の裾を拭いた。


「こちらは私がやりますので、床にこぼれたのをお願いしてもいいでしょうか?」


 フリーダの言葉に給仕が頷いた。


「待たせすぎ! もう女の子じゃないんだから、さっさと出てきなさいよ」


「えっ、何を?」


 フリーダはクエルの問いかけを無視すると、背後を振り返った。そこには床に跪いたままの3人の男性が、少し驚いた顔をしてこちらを見ている。


「皆さんのお申し出は大変嬉しいのですが、本日の最初の踊りは、こちらのクエルさんとさせて頂きます。どうかご容赦の程をよろしくお願いします」


 フリーダはそう宣言すると、3人に向かって丁寧に頭を下げた。3人の中の金髪と茶色い髪をした男性が、あっけに取られた顔をして互いを見ている。


 一番手前にいた黒髪の男性、マクシミリアンはすくっと立ち上がると、二人の方へ足を進めた。


「本日の主役はフリーダお嬢様ですから、我々はあなたの意向に従います。ですが、最初の踊り手の栄誉に敗れた者として、その栄誉を得られた方に、ご挨拶をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」


 マクシミリアンはそう告げると、フリーダに向かってにこやかに微笑んでみせた。その振る舞いはどこまでも爽やかだ。その姿をフリーダの友人の若い女性達が、うっとりとした目で見つめている。


「もちろんです。ぜひご紹介させてください」


 フリーダはマクシミリアンにそう告げると、クエルの方を振り返った。だがマクシミリアンはフリーダの言葉を待たずに、クエルの方へと進んだ。


「先ほど付添人を務めていた方ですね。初めまして、私はマクシミリアン・ローレンツと言う者です。どうかお見知り置きを」


 そう言うと、クエルの方へ右手を差し出す。クエルは慌てて差し出された手を握った。大きく、そして力強い手だ。


「クエルです。クエル・ワーズワイスです」


「ワーズワイス?」


 マクシミリアンのクエルを握る手に僅かに力が入った。


「もしかして君は、エンリケ・ワーズワイス殿の縁者でしょうか?」


「はい。その息子です」


「君があのエンリケ殿の息子さんなのですね。失礼だが、君はお父上と違って、人形師ではないのかな?」


 マクシミリアンが少し怪訝そうな目でクエルを見る。その視線の鋭さに、クエルは得体の知れない恐怖を感じた。


「えっ、あ、あの……」


「クエルは人形師になります。これからなるんです」


 口ごもったクエルの代わりに、フリーダがマクシミリアンに答えた。その声は何故か自信に満ち溢れている。


「これから? 彼も既に17は過ぎているのでしょう?」


「人形師になるのに歳は関係ないはずです。クエルは人形師になって、私と一緒に国家人形師になります」


 フリーダの言葉に、マクシミリアンは顎に指を当てると、少し考える様な素振りをした。


「それはもう来月の話だと思うのですが、これから人形師になって、来月の国家選抜に挑むという理解であっていますでしょうか?」


「はい、その通りです」


「これは驚きました。流石は導師の中の導師と言われたエンリケ殿のご子息です。我々凡人には計り知れない才能をお持ちのようですね」


 そう言うと、マクシミリアンは背後を振り返った。他の二人も口元に笑みを浮かべながら、マクシミリアンに向かって肩をすくめて見せる。


「エンリケおじさんは関係ありません。クエルはクエルとして、私は私として人形師の道を目指します」


「では我々はお互いに競い合う、良き競争相手という事になりますね」


「はい、マクシミリアンさん」


 フリーダはそう答えると、マクシミリアンに向かって朗らかな笑みを浮べて見せた。


「分かりました。国家選抜でお二人とお会いするのを楽しみにしております。これは長らくお二人の邪魔をしてしまいましたね。申し訳ありませんでした」


 そう言うと、マクシミリアンはクエルとフリーダに向けて、優雅に腕を差し出した。


「楽師、お二人に音楽の用意を!」


 マクシミリアンの声に、広間の一段高くなったところに控えていた楽師達が楽器を掲げた。フリーダがクエルに向かって手を差し出す。


 クエルはその手を取ると、恐る恐る広間の中央へと進んだ。だがクエルの足はブルブルと震えていた。足だけではない。手も震えている。


「フリーダ、上手く踊れる自信なんて全くないよ」


 クエルはフリーダの腰に手を回しながら小声でささやいた。


「上手かどうかなんて関係ないわ。私はクエルと踊りたいの。ただそれだけよ」


 クエルの耳に楽師達が奏でる序奏が聞こえてくる。クエルはフリーダと一緒に最初のステップを刻んだ。


 そして世界が二人の周りでぐるぐると回り始める。クエルの耳には人々のざわめきも、楽師が奏でる音楽も聞こえてこない。


 この世界にあるのは、一緒に踊るフリーダの満足そうな笑顔だけだった。

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