時のかさぶた

及川盛男

時のかさぶた

 幼馴染が、隣のクラスの男からデートに誘われた。彼女がことの顛末を恥ずかしそうに話したときに「デート」なんてフレーズは一言も使われなかったが、しかしそれは明らかにデートだったし、彼女自身もそれを十分に認識しているようだった。

 俺はまず単純に彼女がデートに誘われたということに動揺し、そして彼女がそれをデートと理解しているようであることに動揺した。無邪気に遊びに誘われたことを喜ぶのではなく、求愛行動を求愛行動として受け止め、それに照れの混ざった戸惑いを浮かべているのが見て取れた。どこか自分の中にあった油断と慢心に思い切り足元を掬われたわけだ。


 彼女とはもう幼稚園の頃からの付き合いで、まるで家族のような距離感でこれまで過ごしてきた。だが思春期に入り、その気持ちはいつしか恋心へと変わっていくのを自覚した。

 そしてそれを、小学生の頃くらいに一度ぶつけたことがある。しかしそれはあまりにも尚早で、彼女はまだ色恋という概念を理解できていなかった。俺はそれをさかしくも理解して受け止めた。俺は然るべき時が来るまで、弁えた友人として彼女へと接することを決めた。

 それでも時折、過去であればなんの照れもなくこなせていたようなこと、例えば飲み物の回し飲みなどで恥じらってしまい、さらに相手も恥じらいを覚えたように頬を染めているのをみて「もしかしたら」なんて思ったり、みたいな、いじらしい時間を漫然と過ごしていた。


 勝手に、物事が自分のペースで進むものと思い込んでいた。世界は俺と彼女だけで、その二体問題を解決すればすべて終わりなのだと。だが俺が彼女からの親切に胡坐をかいて手をこまねいている間に、隣のクラスの男はシンプルに彼女に手を差し伸べ、そして彼女はそれに応えようとしているのだ。幼稚で、世界をあまりにも単純な形にしか分節できていなかった俺は、そうして敗れ去ろうとしている。明日が来るのが怖くて眠れなかった。


 そんな今更というタイミングで、時間停止の力を俺は授けられた。


 ふざけるな。人に言えばきっとそう罵られるだろうが、そのときは「俺の気持ちを代弁してくれてありがとう」とむしろ礼を言いたい。深夜、スマートフォンに突然何の許可もなくインストールされたアプリは、起動すると次のような説明文を表示した。


「時間を止めて、その中を自由に動きたいと思ったことはありませんか? そんなときはGaagle Stasis(ステイシス)を。

 従来の時間停止は、時間を止めることはできても、人がそれを認識したりその中で移動したりすることはできませんでした。本社が開発した新たな理論と技術は、その限界を超えます。」


 少し前の機械翻訳を通したような日本語で書かれたその説明文が本当かどうかは俺には分からない。世界を代表する超巨大IT企業の名が冠されているので、そのご自慢の検索エンジンで調べてみたが何にも情報が出てこない。

 だが、その力の真偽は簡単に確かめられた。ディスプレイに表示された時計の竜頭風のボタンを脳波操作でタップした瞬間に音は消え、スマホ以外の全ての電子機器は使えなくなり、窓を開けて外を見れば、蛾が羽ばたいた姿勢のまま空中に静止していた。もう一度竜頭をタップすると、一気に情報が視覚を除く感覚器官に流れ込んでくる。


 夢のような力かもしれない。

 だが、遅くないか。

 彼女は既に奪われつつあるのに、いったいどうしろと? 鬱憤を晴らすために周囲の女に情欲の限りを尽くしてやれ、とでもいうのか。このタイミングなら、時を戻す力のほうがよっぽど欲しかった。

 そう煩悶としている傍から、窓越しに隣の家の部屋の電気が消えたのが分かった。普段よりもずいぶん早い消灯で、さっき送ったとりとめもないメッセージも既読が付かない。彼女は明日のために備えているのだ。そのことをまざまざと感じさせられ、俺は枕に顔をうずめた。

 

 翌日、俺はスマホを手に彼らの集合場所である海浜公園へ至った。こんなクソ暑い日に日陰も少ないこんな場所で出歩いて熱中症にでもなったらどうするんだ、そんな嫌味悪態を心中で吐く無様な俺への意趣返しのように、白いワンピースに麦わら帽子という爽やかな風貌で現れた彼女の姿に、恥ずかしげもなく俺は目を奪われた。思わず時を止め、近寄ってしまう。はにかんだ笑みを浮かべる彼女に間近で見とれ、そしてその視線が短パンにポロシャツというラフな格好で現れた男に向けられていることに気づき、吐きそうになった。

 彼らは海辺を散歩し、近くに掛かる大きな橋を渡り、バスに乗って商業施設へと移動してショッピングを楽しんでいた。俺はそれを、淡々と後ろから眺めていた。

 ショッピングモール近くのテラスにたどり着いたころ、夕暮れ時の薄闇の中で白いイルミネーションの光が彼らを包み、そして対岸の大都市の夜景が彼らを照らすように光っていた。まるで世界のすべてが彼らを暖かく見守って、応援しているかのようだった。差し詰め俺は東京ドームで縦縞のユニフォームを着ている観客のような気持ちだ。

 男は、自らの気持ちを伝える言葉をストレートに伝えた。暗闇の中、彼女の瞳がくらりと揺れるのが見えた。

 ああ、ここで時を止めれば事は永遠に進まないわけで。俺はもう限界だった。アプリの起動ボタンに手をかけていた。

 そして彼女の口が開いて、


 視界が閃光に包まれた。


 まるで夢から覚めたかのように、感覚が全て消え去り、そして戻ってきたのを感じた。聴覚だけは暫く戻ってこないようだ、鼓膜が割れてしまったのかもしれないとひやひやしたが、やがて時間が止まっているから何も聞こえないのだということに気付いた。驚いた拍子に止めてしまっていたようだ。

 そして、衝撃の正体を目の当たりにした。自分と彼女を結んだ直線の先、そこには巨大な火球が浮かんでいた。柵の向こう、岸辺にある建物か何かが爆発して、その炎と衝撃波がまさに広がろうとしている、その瞬間がまるで写真のように空間に固定されていた。

 しばし茫然と、その壮観に見とれる。

「いったい何が……」

 テラスの手すりから身を乗り出すようにしてそのエネルギーの塊を見やるが、爆炎でその向こうは見えない。しかし確かその先にはGaagle社の関連施設があったと記憶している。咄嗟にテロの可能性が頭をよぎる。Gaagle社を忌み嫌う手合いは多く、その中でも過激な連中は公然とテロ組織を構成しGaagle社への攻撃を繰り返してやまないというニュースは飽きるほど耳にしてきた。ついにその魔の手が近所にまで迫ってきたのかもしれない。


 しかし、これは幸運だったかもしれない。彼女が告白に返事をしようとしたまさにその瞬間の出来事だったもので、それはうやむやになってしまったに違いない。男には申し訳ないが、再び俺が状況を立て直す切っ掛けを天が与えてくれたのかもしれない。


 そう思いながら振り向いて彼女たちの様子を確認して、俺は――頭が真っ白になった。

「は?」

 時が止まると、全てのものはその場にとどまり続ける。立ってる人は立ち尽くし、飛んでいる鳥は浮かび続ける。流れる水はさながら無重力空間にあるかのように漂う。

 そして、それと全く同じ原理で。


 彼女の首が、宙に浮かんでいた。

 

 どこからどうみてもその美しい白い首から三cmくらい上を、何が起きたのか全く分からないというような表情で浮かんでいる幼馴染の頭。あまりにも現実味のない光景。

 まるで博物館の展示物にのめり込む人のように、俺は屈んでその断面を見た。まるで解剖図のように鮮明で、MRIのように緻密だった。本物の人間の断面を見て、俺は吐いた。いや、胃や食道の筋肉は確実に嘔吐の動作をしたが、時間が止まっているせいか内容物は迫り上がらずそこに留まり続けた。ただひたすら、眼前の現実が受け入れられなかった。

 なんで、どうして。何だよこれ。何だよこれ何なんだどうしてそんなああどうして。

「――うわあっ――」

 膝から崩れ落ちて、その痛みを最後に俺の意識は途絶えた。


 人の死に心の整理を付けるのに、普通はどれくらいの時間を要するものなのだろう。結局は人それぞれということになるに違いないが、時が凍りついたこの世界の中で俺が顔をようやく上げたのは、つまり俺にとって必要なだけの時間を過ごしたということを意味していた。

 動揺、疑問、混乱、悲哀、憤怒といった感情を全て味わった後に、ようやく俺はこれからどうしようという考えに至った。

 改めて彼女の状態を確かめた。彼女から数メートル離れた場所に、極めて薄く鋭利な金属の断片が浮かんでいた。そこにこびりついた鮮血が、明確に自らが凶器であることを主張していた。

 そして彼女の顔を見て、ああ俺は再び感情が掻き乱された。だって彼女の瞳は驚きにこそ染まっていれども、死とは全く程遠い生命の光を宿していたのだから。こんなにも彼女は生きているのに、もし俺が時を動かせば、直ちにその光は消え失せ、彼女の命は永遠に失われるのだ。

 こうなった人間を手術で救うことなどできるのだろうか。首を縫合する施術が成功したなんて話は聞いたことがない。指を切断した時はラップか何かに包んでキンキンに冷やして病院に持っていくとよいなんて聞いたことはあるが、こんなに太い動脈と静脈が二対あるのだから、どうしたところで一瞬のちには頭も体も死んでしまうだろう。と言うと、まるで頭と体、二つの生命に増えたような気がするから不思議だが、そんなことはない、文字通り分かたれたのだから、総量が増えたわけではない。


 大体。何度目になるか分からない恨みだが、つくづく遅すぎる。この力、貰うのも遅ければ、つかうのも遅い。普通、その「鋭利なもの」が迫ってくる前に時間を止めて、その弾道を変えるとかそういう風に使うんじゃないのか。なんで俺は出会い頭に切断される瞬間をこの目でみて、そのタイミングで時間を止めているんだ。だが、この仕様のないタイミングの遅さは、自分自身の怠慢にすべて帰着することを俺が一番よく知っているのだ。

 では諦めるか。この首が重力に沿ってアスファルトにしたたかに叩きつけられるのを見たいわけではない。であれば、そっとこの首を手に取って、持って帰ってしまおうか。〇〇年代のエロゲーのような結末だ。だが、死んでしまえば彼女は奴のものではなくなるが、俺のものでもなくなる。首は俺のものになるかもしれないが、胴体は奴のものになる。どちらにせよ独占はもはや不可能なのだ。


 それにしても。だんだんと慣れてきて、草木の根のうねりと同じような感覚でその断面を見れるようになってきていた俺は、思い切ってバスケのパスをキャッチするように、手で耳を覆うようなかたちで彼女を持った。気色の悪い感覚だった。熱はないが、柔らかい。

 そして腕に力を少し込めた。すると案の定、動いた。隙間は二cmほどに縮まっている。一cmまで縮めたら少しずつその力を弱め、微調整する。五mm、三まるで宇宙船のドッキングシーンのような緊張感で、慎重に切断面同士を近づけた。

「……おお」

 そしてついにくっついた。それこそ、一部の隙間もなく。たとえ言われたとしても、そこに切れ目があることなど誰も気づかないだろう、という滑らかな肌。

 しかし、切れ目が消えたわけではない。現に再びこの手で頭を取ることが可能だし、このまま時間を動かせば、するりと首がずれてころんと転げ落ちてしまうだろう。針で縫合などしてしまえば固定できるだろうが、それでは時間を動かしたとき「いったい誰の仕業か」という話になってしまう。

 さらに言えばくっついたわけでもない。もともとこの二つを接合していたのは突き詰めれば電磁気力だが、それは完膚なきまでに切断されてしまっている。基本相互作用のうち、働いてくれそうなのはあと重力くらいなものだが、少なくとも時間を止めている間はそれとて作用しないだろうし、ガスやチリなどの星間物質が凝集するのと同じようなタイムスケールで血肉が集まり固まることを待つことは出来ない。

 もし、彼女を生かしたいと思うなら。俺は、彼女の瞳を見つめなおした。先ほど何が起きたのかわからないような、と評したが、しかしその眼のなかには恐怖の色が映っているようにも見えた。


「――あっ」

 幼馴染はくちをぱくぱく、目をパチパチとさせた。何が起きたのか全く分からない、といった様子だ。空気がびりびりと震え、遠くに黒煙が火山の噴火のように立ち上っているのが見えた。平和な休日のひとときは一瞬で大事故の被害現場の一つとなってしまった。だがそれよりも直感的に彼女の胸中をざわつかせるものがあった。鋭利なもので、首を断たれてしまったような感覚。

「でも、生きてる、よね」

 首を撫で付け、その感覚に何の違和感もないことに胸を撫で下ろす。そうだ、一緒に来ていた青年はどうだろう。彼女は眼前の男の安否を確かめようと口を開き、


「ハアっ、ハァッ、ゼェッ……」

 「ねえ、大丈夫」の「ね」の形で固まっている唇を睨みながら、俺は肩で息を吐いていた。こんな形で呼吸したところで、この時間が止まった世界でどれだけ酸素を肺に取り入れる意味があるのかもわからないのだが。

 早くも俺は後悔しそうになっていた。少なくとも思い付きでするようなことではなかった。明らかにこんなこと、人間の許容範囲を超えている。


 単細胞な俺はこう考えていた。首がずれてしまう前に(あるいはずれるその瞬間に)時間を止めてやり俺が手でドッキングしなおせば、血は通うし神経情報も伝達するし、つまり彼女は生き続けることが出来るのではないか、と。つまりストップモーションアニメの要領だ。

 じゃあ、と一回目を始めて、嫌な予感がしてすぐに時間を止めてみたところ、もう既に一mm程度首と頭がズレていた。嘘だろ。まだ四秒も経っていないのに。ドッキングしなおして、さらに細かい感覚で時間を止めた。だがそれでもずれは生じている。

 結果、どうなったか。上の「あっ」から「ね」までの四秒間の間に、俺は二千八百回時間停止している。つまり、時間を止めて、頭を動かして、そして俺が元居た場所に寸分たがわず戻って、という反復横跳びを二千八百往復しているということ。秒間七百コマの粘土アニメを作っているようなものと言えば通りはいいだろうか。

 後悔しそうという感覚は、やがて本当の後悔になってゆく。本当になんでこんなことをしてしまったのだろう。大体三百回くらい繰り返した時点でノイローゼになりかけ、五百回目を超えたあたりでランナーズハイのような高揚感に包まれ始め、そしてそれも一千回を超えるころには力を失っていた。一体全体どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 そこまで考えて、ようやく俺は最も基本的な、非論理的な出発点に立ち返った。つまり俺は、この幼馴染のことをずっと好きで、今も好きで、だから死んでほしくない。だから、こんな気が狂いそうな苦行に自ら身を投じているのだ。

 

 動機と目的を再整理した俺は、彼女の生存のためあらゆる手を尽くした。その調子で十五分かけて彼女が首と胴体をつなげたまま笑顔であの優男に手を振り、自宅に入ろうとして、ようやく胸をなでおろそうとしたが、ここからが本番だ。因みにこの時点で俺は六十三万回、時間を止めている。

 自宅に入って終わりなんてとんでもない。彼女がドアを閉めて、鍵をかけた瞬間俺が彼女に接近する手段は失われ、彼女の首は〇・二秒後にずるりと落ちてしまう。じゃあ彼女の家の中に入ってしまえばよい? いやいや、俺は時間を動かした後、元居た場所にいなくちゃいけない。そうじゃなきゃ俺はワープしたことになってしまう。じゃあどうする……幸い、無為にこの十五分ないし六十三万万回の時間停止を過ごしていたわけではない。この事態は、これから予想される様々な困難の中で最も簡単な部類だ。物理的な鍵なのだから、それを複製してしまえばいいのだ。大体四十万回目くらいのときにそう気づいた俺は、彼女のカバンから家の鍵を拝借し、近所の図書館で鋳造の方法を学んだ。時間が停止している世界では無限に世界のことを学べるが、電子の海に格納されている情報は別だった。それらは取り出すのに計算が必要で、計算には時間の進展が不可欠だった。本をこれほどまでに必要としている人類が、この時代に俺の他にいるとは思えない。

 そしてその知識の元に実験し、時間停止世界では溶融は進まないことを知った。化学変化などを用いるのも結局電子機器と同じで、実際に変化に要する分の時間が必要ということらしい。

 肝を冷やしながら代替案として想定していた通りヤスリで削り出しての鍵作成に手を出し、そして先回りした彼女の家の戸でそれが正常に動作することを確認した。

 しかし、物理的な鍵だからまだマシだが、これが電子的なロックであればこの方法は使えない。きっと数年もすれば世間にはスマートロックが普及しきるに違いない。そのときまでこれを続けるのだとしたら、一体どうやってそれを解錠しよう。彼女が乗り物にでも乗ったら最悪だ。ロックの問題もあるし、時間が経つごとに往復移動の距離が伸びていくことになる。飛行機にでも乗られた日には、さすがにどうすればいいかまだ方法が思いつかない。あらためて、これを永遠に続けるわけにはいかない、どうにかしてこれにケリをつける方法を見つけなくてはいけないのだ。

 幸いなことがあるとすれば、切断箇所がせいぜい首だけだったことだろう。これがもし腕や足、あまつさえスプラッター映画のように全身サイコロステーキにでもされていた日には、さすがにもっと早い段階で限界が来ていたに違いなかった。


 一心不乱にこのコマ送りを続けてなんとか翌日を迎え、学校を過ごし、俺はあたかもこの世に偏在する物理法則のひとつであるかのように振る舞い続けてきたが、俺は単なる恋煩いを抱えた男子高校生であるということを突然思い出したのは、時刻にして十五時三十五分二十二秒九五のときだった。ここは彼女の部屋で、淡い緑のシーツが敷かれたベッドの上で彼女は座り、頬を赤らめていた。俺はすっかり慣れた手際で彼女の頭を直そうとして、気付いた。彼女の顔の先には、あの男の頭があった。彼女の首を繋ぐことに必死で彼女以外の事物が目に入らなくなって久しくなっていたが、いつのまにかこの二人はここまでの関係になっていたらしい。二人は横に並び、彼女は少し瞳を閉じ、男はその表情を隠すように口先を彼女に近づけていた。キスをしようとしているその瞬間であることは明らかだった。

 

 頭に血が上るのが分かった。時間が止まっているのにだ。時間が止まっておらず、さらに首が切断されていたら、その断面からケルヒャーの高圧洗浄機のごとき圧力で血が噴き出していただろう。それほどに怒りに震えた。このままバレーボールのようにこの頭を空へトスしてしまおうか、あるいはもののけ姫のジコ坊のように頭を攫ってしまおうか。そう考えながら彼女の頭を地球儀のようにくるくると回していると、彼女の閉じかけた瞳の、その黒目が描く角度が気になった。妙だな。正面を見ていない。俺は首をもとの場所に寸分たがわず戻して、視線の先を見た。そして瞳の奥の瞳孔の軸が向く先を見た。

「……そうか」

 いつだろうな、これを撮ったのは。俺は視線の先にあった写真立てを手にとる。そこには俺と彼女が二人で並んでいる姿が並んでいる。まだ幼さの残る彼女は花のような笑顔で、見た目以上に幼かっただろう俺は照れを隠すために不機嫌そうに眉をひそめた顔で映っていた。

 二の句を継げなくなるということはあるだろうが、思考の次の手が全く思い浮かばなくなることはなんというだろう。頭が真っ白になる、とは若干ニュアンスの違うこの状況を言葉に表したいのだが、見通しはない。とにかく俺は、その写真を手にしたままそのような状態になっていた。

 だが。俺は、ここには居ないのだ。つまり俺はこの実数時間の瞬間には自分の部屋に居るのであって、彼女の部屋には居ない。二人のこのキスの瞬間に割って入ることは許されないのである。

 俺にはもはや、あきらめることしか出来ないのだ。だからその後に彼女たちが契りを結びはじめ、そのために激しく揺れる彼女の首に手を添え続けた。


 そんな彼女に対してなにかが出来るとしたら、この首の切断状態を直す方法を探すことくらいだろう。俺はペットショップで鶏を購入し、その首を切断した。

 すこしサブカルの知識に詳しい人間であれば、首が切断された生き物と言われてすぐに、雄鶏のマイクを思い浮かべるだろう。屠殺のために首が切断されたあとも胴体だけで歩き続けたことから可愛がられ、食道に直接スポイトで水やえさを与えられることで生きながらえていたという鶏の話が、俺をこの鶏の首をこれから切り落とすことの動機となる。ただ、俺はそのエピソードの先に行かなければならない。つまり切り落としてから、くっつけなければならないのだ。

 明らかに切断されているというのに、普通の怪我と同じようにかさぶたが出来たりする様子がない。それはきっと俺の干渉のせいで、彼女の体自体が切断されたという事実に気付いていないということを意味しているのだろう。

 すると、今よりもさらにコマ送りのスピードを落としたり、あるいは生命に支障がない程度にこれをずらしておけば、体がけがとして認識して、自己治癒能力を発露させてくれるのではないか。そのように考え始めた。

 その仮説を試すために雄鶏を買ったのだった。鋭利なナイフで首を切断し、その首を少しずらした状態で抑え続けた。血液は十分二にめぐるように、しかし完全な接着はしないように。縫合などよりは絶対に身体には優しい状態のはずだ。当然、その間も彼女の首を胴体にとどめ続ける作業はつづけた。

 するとどうだろう、わずかににじみ出た血液や組織液が接合部を埋め、そして二日ほどで新たな組織とみられる繊維が頭部と首の切断面に細い橋を作った。仮説は成り立った、と思ったのもつかの間、そのわずかなカサブタによって断面はいびつとなり、それが首を取り巻く疵痕として残ってしまうことが分かった。ズレは本当に〇・一ミリにも満たないはずなのに、生命はそれを敏感に感知し、新たな秩序に合わせた身体に自らを作り変えてしまうようだ。

 もしこれを彼女に施すとしたら、きっと彼女にも同じような痕が生じてしまう。完璧な美を誇る彼女にそのような痕が出来るようなことは、可能な限り避けなければならない。


 もはやこれまでの人生で呼吸をした回数よりも多く、このストップモーションアニメ制作のような作業を繰り返している。息をするよりも無意識のうちにこなせるようになったこの段階にもなると彼らの会話についてもいちいち耳を貸さなくなっていたわけだが、ふと気がつくと二人は、彼女の部屋で口論をしているようだった。性行為の最中に、彼はある所作を彼女に望んだが、彼はそれを拒んだ。そんな些細なことに彼は激昂し、彼女の机の上のものを投げ、そして彼女の背中を叩いた。

 俺は彼女の首を固定しながらその様子を眺め、いよいよ自分が何をするために生きているのか分からなくなっていた。俺は自らの精神を犠牲にして、彼女がDVされるのを見守ることを目的にしているのか? いきなり目の前に現れてこの男をボコボコにすれば良いのか。それとも。

 翌日、俺は何となしを装って彼女に尋ねた。昨日、部屋から悲鳴と物音がしたが、大丈夫だったか、と。

 彼女は少し目を伏せたのちに、しかし微笑んで、

「何でもない、大丈夫だよ」

 と言った。拒絶の意思表示としか思えなかった。

 「そんな奴じゃなくて俺にしろよ」なんて平成のポップスどころか昭和の歌謡曲みたいなセリフを言えるほど俺は老成してなかったが、仮にそうだったとしても、その場では空虚に響いたに違いない。

 もう俺は限界だった。一刻も早くこの状況を脱却しなければならない。


 あくなき生体実験を繰り返し、自室が鶏小屋の様相を呈してきたが、研究は若干の進展を見せつつあった。首の動かし方などに工夫をこなすことで、治癒の速度をどんどん早めることに成功していて、今や作業の実施からほぼ瞬時に傷口が塞がるようなところにまで来ていた。だがそれでも、傷跡はどうしても残ってしまう。その解決策が一向に見出せない袋小路に陥っていた。

 そんなある日、いつものように帰路に就いていた彼女の家の前に、背広姿の男が立っているのが見えた。

 彼女を鋭い視線で見るその男のポケットをまさぐると、警察手帳が出てきた。警視庁捜査一課の刑事が、一体何の用があるというのだろう。

 いぶかしがる彼女に向かって、男は「お時間は取りませんので」と前置きした上で、スマートフォンで一枚の画像を表示し、彼女に見せた。

 写っていたのはお台場の公園、あの日彼女がデートをしていたその場所だった。

「三週間前の、公園で爆発事故があった日に居ましたよね。その際は事情聴取へのご協力、ありがとうございました」

 はあ、と会釈する彼女。続いて男が表示した写真を見て俺は息を呑んだ。

 ビニール袋に入っているようだが、それは彼女の首を切断した金属片、そのものだった。 

 刑事はお台場の海からそれが引き上げられたことを告げたうえで、今度はその金属片に見覚えはないか、と尋ねた。当然、彼女は「知りません」と返す。

 刑事は目を細め、「でしょうね、しかし」、腕を組み直した。

「実はこの金属片には、女性の血液と思われる体液がわずかにですが、付着していたんです。おそらく件の爆発事故で、この破片が誰かに当たり、出血を招いたのだと思われます。しかし不思議なことに、あの日爆発によるけが人はなし、とされています」

「かすり傷とかで、誰も通報しなかった、とか」

「そうとは考えづらいのです。なぜかというとこの血液、金属片のかなり内側の領域から検出されたんです。かなり深く体を切り裂いたものと推測されます……あの日、そのような怪我をされた方は見かけませんでしたか?」

 俺は、彼女が横に振った首に手を添えながら空を仰いだ。まさか、こんな形で事が疑われてしまうだなんて。

 もうダメだ。諦めよう。それはほろ苦さと同時に、しかしこれでやっと地獄の苦しみから解放されるという、ひどく独善的な気持ちが多分に混じっていた。


「……実は」

 伏し目がちに、彼女は口を開く。

「黙っていてすみませんでした。実は、怪我してたんです、わたし」

 そういいながら、おずおずとカバンからウェットティッシュを取り出した。一枚を手に取り、それを首筋にあてて、拭った。彼女はそのまま横の髪を後ろにかき上げ、

「ほら、見てください」

 その艶やかな様に一瞬気後れしたように強張った刑事だったが、すぐに気を取り直し、硬い表情で彼女の首筋を見やる。だがすぐに目を見開いたかと思えば、

「……これは。どうして病院には?」

「家族を心配させたくなかったんです。それに、大して痛みも無かったし、血もすぐに止まったんで」

 白い頸筋には、三、四センチメートルほどの長さの痛々しい傷跡が横一文字に走っていた。治りはあまりよくなく、少し黒ずんだ隆起が、雪原の中に突然現れた急峻のように伸びている。ウェットティッシュで拭き取られたのは、それを覆い隠していたファンデーションだった。

「……そうだったんですね。申し訳ありません、このような、見せづらいようなものを」

「いえ……でも、たぶんその金属片が私の首に当たったんだとして、どうして内側から検出されたのか、までは分からないです」

「そこまでの答えを求めに来たわけではないですから、ご安心いただいて大丈夫ですよ。おそらく、海中で血液がいったん溶けて、また付着したんでしょう」

 その後も刑事は二、三謝辞の言葉を述べて、「これでもう、あなたに確認することはないので大丈夫です」、と言って踵を返した。


 俺は、彼女の唇と舌から手を離して、その背中が去っていくのをほっとしながら見送る。俺は完全に諦めた。彼女の首をわずかにずらした。彼女の体の組織は速やかにそのズレを、日常の新陳代謝活動の範囲内で回復し切った。俺は完全に、彼女の首の苦行から解放された。

 だが、彼は数歩もしない内に足を止めた。俺の家の前だった。

「あの、まだ何か?」

 彼女が尋ねると、刑事はあっけからんと言い放った。

「実はですね、あの金属片にはもう一人分、男性の血液と見られるものも付着していたんです。若い男性のね。事件に関与している人間のものかもしれないので、あの日に現場近くにいた男性へも聞き取り調査をしているのですよ」

 男は俺の家を見上げ、

「この家に住む子……君の幼馴染と聞くが、その子もあの日現場に居た。監視カメラの映像で残っていたんですよ」

 幼馴染は色を失っていた。

 親も下の階に居る手前で居留守をするわけにもいかず、俺はインターホンが鳴らされる前に外へ出ることにした。警官は手間が省けたと言わんばかりに俺に名前を尋ね、あの日公園に居たかどうかを尋ねてきた。

「ええ」

 そして俺は、テロリストの嫌疑をかけられるよりは事実を自白した方が良いと考え、ありのままのことを話した。つまり、俺は実は時間を止めることができる能力を持っており、それを使って数々の非合法な行為に手を染めてきたのだ、ということを。


「実は、俺も彼女と同じなんですよ」


 え?


 自分が今何を喋ったのかが一瞬理解できなかった。勝手に動く口がそう喋り、そして勝手に動く手がウェットティッシュで勝手に首元を拭き取った。そしてそこを撫でる指先が、皮膚が線状に隆起しているのを感じた。


 刑事はあからさまに落胆していた。子供に疑いの目をかけることへの後ろめたさよりも、世間を動揺させているテロ組織の尻尾を掴むことを優先するのは職務の責であるから、それをとやかくいうつもりは無い。彼は詫びの言葉もそこそこに、踵を返して今度こそ去っていった。

 だが、俺の頭は疑問と混乱に満ちていた。首元に手を当てると、その隆起は俺の首をぐるりと囲んでいることがわかった。即座に既視感が過ぎる。ついさっきに俺が目の当たりにしたものと、全く同じ現象だった。


 視線を向けると、彼女は困ったように笑っていた。そして彼女は自分の首に現れた傷跡を、優しく撫でた。

「そっか……鶏のやつって、このためだったんだね」

 息を呑んだ。なぜ、彼女が鶏のことを知っている?

「ずっと不思議だったんだ。あの日、どうしてあなたの首は切断されたのに、同じ線上に居た私は無事だったのかって」

 同じ線上――そうだ。刑事の言う通り、俺たちは二人ともあの破片の弾道上に居たのだ。逆に俺からしてみれば、なぜ彼女の首は飛んで、俺の首は飛ばなかったのか、ということになる。なぜ俺は、そんなことに気付かなかったのだろう。

「辛くて、後悔するようなことがあったときでも、あなたが傍にいるような気がしてた。それはやっぱり間違いじゃなかったんだ」

 あり得なかった。信じられない。だってこんなことは、並大抵の思いではできない。それは俺自身が一番よく知っていた。それこそ、相手の人生のために自分の人生を捧げるような、そんな狂気じみた覚悟が必要なのだ。

 だが、そうだとすれば。

 ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。いつから、いや、初めからそうだったのだ。

「同じことをしてたんだね、私たち」

 彼女は涙を流していた。同じものが、俺の頬を伝っていた。

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時のかさぶた 及川盛男 @oimori

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