第20話 恐怖

 これでしばらくは大人しくなるだろう。

母親が倒れたことでそう思う私は親不孝だろうか。

実際、数日経っても実家からは音沙汰もなく静かなものだった。


 だが、最近夫の心境は沈んでいた。

会社での人間関係が変化し、悩んでいたのだ。言うまでもなく、原因は私の両親である。


 夫が私の母親に引っ掻かれた傷は、うっすら白く残り、ビールを飲んだりすると火照った肌にハッキリと浮かび上がった。

それを目にすることはとても辛く、申し訳なく、なんとも言えぬ心苦しさがあった。


 季節はもう梅雨に入っていた。

この日も雨が夜遅くまで降り続いた。

雨音は外の雑音をかき消し、まるで外部を遮断しているかのようだった。


 寝室の灯りを落とし子供を寝かしつけていた時、私の携帯が鳴った。


実家からだ。


着信音は切っているが、バイブレーターが作動している。

寝入った子供を起こすまいと咄嗟に携帯を枕の下に押し込んだ。


鳴り止まない携帯が私を責めているようで、心臓が音を立てて鼓動を響かせる。

(先日の母親の様子からみて、それほど危険を感じることはないだろう)

私は寝ている息子から背を向けて離れ、ドキドキしながら電話に出た。


 黙って相手の出方を伺っていると、何も聞こえない。無言である。

それでも黙って様子をみていると、次第に聞こえてきたのは女性のすすり泣く声。

母親だ。


 私は身構えた。

母親は電話口ですすり泣きながら私の名を呼んだ。

何度も何度も。

か細い声で呼ぶ声が、次第に大きく力強くなっていく。


私は恐ろしくなって電話を切った。

狂ってる....


急いで息子の傍に駆け寄り、寝ている息子を抱き寄せ一緒に床に伏せた。

母親の狂気を感じた感触を、一刻も早く打ち消したかった。


 どのくらい時間が経ったろう。

息子の温もりに心を癒して、うつらうつらとしていたのが、ふと目が覚めた。


雨音に交じって何か聞こえる。

外から何か聞こえる。

相変わらず雨が降り続いている暗闇の中から、声が...!


 私は二階の寝室でじっと耳を澄ました。


「...◯美ぃ!...◯美ぃ!...」


突然、身体中に電流が走ったかのように背筋が凍った。

雨音に交じって微かに聞こえたのは私の名前だ!

母親が外から私の名を叫んでる!

家の外に、すぐ近くに、母親が来ている!


 夫が慌てて寝室へ駆けつける。

「今、外で!」

「うん、聞こえた」

「どうする?」

近所の手前、対応したことが裏目に出て騒ぎになることを恐れた。

ちょうど今、私達は寝室にいる。

姑も奥の自室で過ごしていて気付いていないようだ。


 私達はそのまま寝ていることを装うことにした。

 最も私は今、母親と対峙できる精神状態にない。私は母親と対面するのを心底恐れていた。


どうか、このまま諦めて帰って...!


私はただただ祈った。









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