監禁虫
お好み焼きごはん
監禁虫
安西友美は大きなカマキリを拾った。
体長は百七十センチメートル。てらてらした緑の鮮やかな硬質の体表と、三角のこじんまりした頭を持っている。一見大きいだけのカマキリには、足が無かった。長細い胴体から伸びる針金のような足は根元からぽっきりと折れ、大きな鎌が特徴的な腕は元からなかったかのようにちぎれていた。
友美はまず、拾ったからには世話をしてやらねばなるまいとカマキリの体を手当てした。
どくどく溢れる血潮を止血し、四肢の断面から腐らぬように処置してやった。
友美は献身的だった。死んだように眠っているカマキリが本当に死んでしまわぬよう朝も夜も傍に居続け、一時間単位で包帯を新しいものに変え続けた。眠れぬ夜だった。
拾ってから二日が経った三日目の朝に、カマキリは目を覚ました。
その大きく小さい目で辺りを見渡す姿に、友美は何事にも代えがたいほど感動した。
友美という人間の姿を見つけ暴れだしても、友美は冷静に対応して見せた。
カマキリが落ち着いたあと、友美は地下室を出て、キッチンで食べ物を作ってやった。大きな黄色いオムレツと、何本かのウインナー、鮮やかな野菜をのせた、カマキリが食べなれているプレートを持って部屋に入ると、手足の無いカマキリは部屋の隅で地面を見ていた。
かぐわしい料理の匂いに一瞬目を向けたものの、すぐさま地面に目を戻す。友美はカマキリの前に料理を置いて、その日は地下室を後にした。
友美は毎日料理を持って地下室を訪れた。
だが、どんな美味しそうな料理を持ち込んだとしても、カマキリが食べることは一切なかった。
困った友美はカマキリの生態について調べた。メスはたくさんの卵を産むことや、オスは交尾の後食われることなどを知り、最後にカマキリは虫を食べることを知った。
考えてみれば当然とも言えた。カマキリは虫だから人間の食べ物を食べたりしないのだ。
友美はその日のうちに虫を捕り、家に帰ってカマキリに食事として与えた。
最初は他の料理同様食べなかったが、口の中にねじ込めば空腹を思い出したようにゆっくり食べ始めた。その日のうちに全部吐いてしまったが、友美は概ね満足だった。
カマキリが食事を少しづつながら摂るようになって、カマキリは健康になっていった。
手足こそないが臓物は動いている。定期的に排泄の補助を行っていれば、排泄行為にも問題は無かった。
唯一の問題といえば、カマキリは手足が無いので運動ができにくいという点だった。
人間も虫も極端に動かないというのは身体に毒であるので、友美はカマキリを運動させることにした。
友美はペットショップで首輪を買って、カマキリの日課に散歩を加えてやることにした。家の中でだけだが、カマキリの外に出られないストレスも解消できるであろうという考えのもと、友美は排泄の世話の後に首輪を着けた。
人間の作った物だから怖かったのか、カマキリはよく暴れた。
つい先ほどまで泣きじゃくっていたのにも関わらず、オスのカマキリらしい力で友美をはねのけた後、這いずって出口へ逃げようとした。それを友美はスタンガンを使って気絶させて落ち着かせた。
今まで従順であったのに強く反抗したということは、カマキリにとって人間の人工物である首輪は嫌であったのだろう。だが首輪無しで運動させるのは極めて心配であった。逃げ出してしまうかもしれない。
ならば納得してもらうしかなるまい。
友美はカマキリの首に首輪を着けた後、カマキリの目が覚めた時に首輪の着ける意図を説明することにした。
目覚めたカマキリは未だ錯乱しているようだったが、友美が丁寧に説明してやるとどうやら落ち着いたようだった。
だがまだ安心はできないと、友美はカマキリが逃げ出さないと友美が納得できないと散歩はお預けにするとも伝えた。
次の日、友美が専門の店で買ったコオロギを地下室に持ち込んだ時、初めてカマキリが挨拶をした。
おはようと言われ、友美は嬉しかった。
思わず抱き着いて頭を撫でまわしてしまっても、カマキリは受け入れた。受け入れて頭をすり寄せた。
今までだったら暴れて逃げ出されてしまっていたのに、受け入れられたのだ。友美はぎゅうと強く抱きしめた。
首輪に長く赤い散歩紐を括り付けて、カマキリは散歩をした。地下室の中を這いずるだけであったが、友美は良しとした。
これを毎日続けていると、ある日、友美はカマキリの身体が汚れている事に気が付いた。いつの間にこんなにも汚くなってしまったのかと友美は唸った。出会った当初はあんなにも鮮やかで、鮮烈で輝いていたというのに、今や汚らしいただの虫である。
友美はカマキリをあの頃のように蘇らせようと、風呂に入れて磨いてやることにした。
初めて地下室の外に出す。友美は念入りに準備をした。
友美ではカマキリを抱えて移動ができないので折り畳みのできるカートを買い、頑固な汚れはシャンプーでは落としきれないので洗浄力の高い洗剤も買った。
準備を整え、友美はカマキリを風呂に入れた。
穏やかに事が進んでいき、途中で友美は、カマキリに飲み物を飲ませてやろうと浴室を出た。
キッチンで二十年制の冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した時、浴室から大きな音が響いた。友美は慌てて浴室に駆け込んだ。
駆け込んだ友美は浴槽から出ているカマキリを見つけ、安全かどうかを確認しようと近寄って、足に剃刀を突き刺さされた。脛に食い込んだ剃刀は男性用の安全性の低い物ではあったが先はそんなに尖っていないから少し肉が切れただけで済んだ。とはいえ刃は肉に埋まっている。
友美が痛みに悶えているとカマキリは友美を転倒させた。固い床に頭を打ち付け友美の意識は一瞬無くなった。一瞬というのは友美の体感時間で、実際には三十分眠っていた。
友美は起きると慎重に剃刀を抜いた。元外科医の知識では抜かずに固定し、救急車を呼ばねばなるまいとは分かっていたが、先にカマキリを見つけ保護せねばならない。救急隊員にカマキリが見つかってしまえばおしまいだ。
痛みと流血に耐えながら、友美はカマキリを探した。少し探せばカマキリは直ぐに見つかった。リビングで固定電話を探していた。固定電話は先々月に解約し捨てたのだからリビングには無い。カマキリはその事を知らなかったのだ。
友美は足跡を痛みで消せなかった所為でカマキリに見つかった。カマキリが逃げようとする。今手元にはスタンガンは無い。
手には剃刀が握られている。
カマキリに近づく友美はまるで幽霊のようだった。
怪談話のお岩さんのように血を流し青褪めた顔で睨む。
逃げ出そうとする藻掻く姿を友美は無感動に滑稽さを見出した後、カマキリに跨った。
跨ったカマキリの肌は柔く、暖かかった。
肌から中にクリームが詰まっているように連想して、友美はカマキリの胸の辺りに耳を寄せた。
友美はカマキリの目に剃刀を突き付けた。
大人しく戻ってくれるなら何もしないと言うと、カマキリは暴れだした。急に激しく体を動かされたものだから手元が狂って目が切れた。痛みにカマキリが暴れだす。大きな声で痛そうな悲鳴をあげる。
大声で近隣に大きなカマキリが居るとバレてはいけないので、友美はカマキリの口を塞いで、急いでカートに乗せ、地下室に放り込んだ。
放り込んで、地下室に置いていたスタンガンで気絶させた。
カマキリが静かになって、ようやく友美は一息ついた。
一旦リビングに戻ってスプラッタ映画を大音量で再生した後、また地下室に戻ってカマキリの治療を始めた。
ある程度の治療を終え、友美は剃刀でもう片方の目を切った。そしてまた治療を始めた。
よくよく考えてみれば、友美がいる今、カマキリに目など必要なかったのだと友美は気がついた。
それからしばらくの間、カマキリの両目は包帯に巻かれていた。連日泣くものだから包帯は日に何度も取り替えなくてはならなかった。
友美がそのことよりも残念だったのは、カマキリが洗ったというのに汚かったことである。
汚れは取れた。血がついているがそれも許容範囲といえた。
だが友美にとって残念なことに、友美から見て、カマキリは未だ汚かった。うるうるした瑞々しい萌黄色だった鎧はどうしても茶ばんで光沢が無いし、小さな頭は馬鹿のように見えてしまう。
だが考えてみれば、それが本来の姿なのだろう。
盲目的だった視界が開けて元々の姿を見るというのは、その者の本当を見ることで、それもきっと愛なのである。
友美はそう考えると、カマキリが愛おしく見えてきてしまって、カマキリの頭を撫でた。
その点においてカマキリを鎖などで拘束するようになったのは良かった。
いつでも撫でることができるようになったからだ。
友美はカマキリを献身的に世話し続けた。
親が子を世話するような、かわいい犬を世話するような感覚でおしめを変えたり食事を与えている内に、カマキリは自分で自分の世話をすることができなくなっていった。
排泄行為の補助は元々行っていたが、それに加え、食事を噛むことができなくなった。顎を動かすのが下手になって、友美は食事をペースト状にした。虫をミキサーで混ぜ合わせ、小さいスプーンで口へ運ぶ。
それを続けていると友美はひとしお自分が世話をしているという感覚が強くなった。カマキリは益々体が不自由になった。
そうやって過ごしていると、最初こそ友美を信じていなかったカマキリは、友美を信じるようになった。
最初こそ食事を拒んでいたのに今では積極的に食べ、友美の抱擁も受け入れるようになった。
そしてなにより、カマキリは友美が離れようとすると泣き出すようになった。子どものようにわんわん泣き出す姿は友美にとって哀れだったが、それと同時に嬉しくもあった。カマキリは友美に懐いたのだ。
約一年ほどの歳月を経て、失ったものもあったが得た物はなんとも大きい。
友美は満足だった。
だが友美は現状が不安である。
友美はそろそろ仕事を始めなくてはならない。前までは病院で腕の良い外科医をしていたが、カマキリを拾うにあたって止めてしまった。戻るという選択を考えたが、ブランクが大きいのと、睡眠や食事がちゃんと取れるストレスのない生活に慣れてしまって、到底医者に戻ろうなどとは考えられなかった。
友美は一般的な社会人になろうと思っている。
朝出勤し夜帰る一般的なそれは疑いようのない普通である、というのも魅力だった。
カマキリのことを思うのであれば在宅勤務が理想的だが、一般的な社会人であるメリットは大きかった。
だがしかし、カマキリは友美と離れていることに強いストレスを感じている。
このまま何の対処もせずに仕事を始めてしまえば、カマキリを風呂に入れた時のような事件が起こってしまうだろうと友美は考えた。それではあまりにも可哀想だ。
友美は図書館へ行き、カマキリの状態について調べた。様々当てはまる症状の病気があったが、友美は精神科医ではないので断定はできない。
書物で調べるよりも確実な方法を友美は知っていた。知り合いの精神科医に話を聞くことだ。
だがそれはカマキリの存在が露呈する可能性を秘めている。
散々悩んだ挙句、友美は精神科医の友人に電話をかけた。
大量の十円玉を用意し、メモできるようにノートも持ってきた。十円玉を三枚入れ何回か電話をかけた末、ようやく繋がった。声は記憶の中とそう相違していなかった。友美はカマキリのことを相談した。カマキリのことは伏せた。
昨年あたりから音信不通になっていた事による心配の言葉をたくさん寄こされた後、得られた回答は病院に来てもらうしか診断はできないという言葉だったが、ある程度の対処法は教えてもらえた。
友美はさっそくカマキリに試すことにした。
離れる時間を少しづつ長くして慣らしていき、寂しさを感じさせないように様々な工夫をした。
友美は大変だったが、この苦労でカマキリが安心できると思えば何とも感じなかった。
二か月ほどで、カマキリは長い間離れていても泣くことは無くなった。
地下室にはぬいぐるみが増え、DVDのみが見ることのできるテレビが置かれた。カマキリの好きな映画やドラマを流してやった。目が見えなくとも覚えているから脳内で再生しやすかろうと思ったからだ。
本を用意してやっても良かったが、カマキリは手足がない所為でページを捲れないのでやめた。
この中でもテレビの設置はカマキリにとっても友美にとっても良いことだらけだった。
カマキリは寂しくなくなるし、友美はカマキリが外を思い出させる物があっても不安定にならないことが分かったからだ。
カマキリはいつも不安そうにしていたのが、友美の前で笑うことが増えた。
不安がなくなったのであろう。子どものような笑い声は友美を安心させた。
もう昔のようにはならないだろうと思わせた。実に平和だった。
友美はそうした工夫を経て、仕事を始めた。
事務の仕事は楽だとは思わなかったが、やりがいはあり、なにより友美はパソコンには詳しかったのでそこまでの苦労はしなかった。人付き合いは面倒だったが、友美は他人に興味はないが知識はあったので問題も起きなかった。
家ではカマキリの世話をし、外では当たり障り無く過ごす。
そんな日常が経過して、友美は満足だった。カマキリを抱きしめながら頭を撫でていると幸せすら感じた。
冬になった。
日中は静電気がぱちぱち鳴る音が聞こえ、夜には火の用心と大きな声を出しながらからからに乾いた鰹節を打ち付ける音が聞こえる。
友美が手を擦りながら家路を歩いていると、サイレンの音が鳴っている事に友美は気が付いた。人の騒ぐ声が聞こえる。近寄ると、夜の景色はどんどん明るくなっていた。
友美の家で火事が起きている。
親から譲られた一軒家の二階の窓は赤い。肌が燃えるような感覚がするほど火が近かった。
救急隊員がホースを持って消化活動をするのを、友美は黙って見つめていた。
火事の原因に心当たりがあった。
恐らくカマキリの為に拵えた電気毛布だ。犬なんかは電気毛布に嚙みついてちぎって漏電し火事になることがあるという。彼は最近犬のようであったから納得ができる。
そうであるなら、出火元は地下室だ。ここまで燃え広がっているならもうとっくに燃え尽きているだろう。
テレビもぬいぐるみも、カマキリも。
友美は思った。彼は最期になんと思ったのだろう。
身体が燃え、肺が一酸化炭素で満たされる最中、なにを。
正気に戻ったのだろうか。
友美はそこから逃げ出した。
彼が生きていようといまいと、結局はバレてしまう。手足の無い目の潰れた大きな百七十四センチのオスのカマキリが、安西友美という女が住んでいる一軒家の地下室に飼われていたということは、どうあがいても、なにもかもが。
その日の夜、友美はネットカフェの個室に泊まった。
ネットニュースでは燃えた友美の家のことが知らされている。案の定地下室から出火し広がったらしい。手足の無い死骸の話はSNSで瞬く間に広がった。
それでも友美はカマキリは燃える最中何を思ったのかしか頭になかった。
皮膚を溶かしながら己に助けを求めたのだろうか。自分の不幸を呪ったのだろうか。
正気に戻ったのだろうか。正気に戻って憎んだのだろうか。
一通り考えて、友美は伸びをした。
カマキリは交尾をし終わると、メスはオスを食べるらしい。
友美は概ね満足といえた。
カマキリを地下室で飼育し世話をしたのは自身のエゴだ。エゴでカマキリを消費した。なら、カマキリを食べたといえる。
カマキリを友美は食べた。
そう考えると、友美は非常に満足した気持ちになれたのだ。
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