「今日はどうした、ナオキ」
ちろ
「アジのたたきが食べたい」
「ユキト、アジだ。今日はアジの気分なんだ。アジのたたきを食わせてくれ」
「……いきなり人の部屋にやってきて、何を言ってるんだお前は」
今日も、懲りずにトラブルメーカーがやってきた。
幼馴染みであり、同僚。さらに、アパートのお隣さんでもある男――ナオキ。
今日は何やら、空腹の様子だ。
「そうか……たしかに、いきなりは良くなかったな。『お邪魔するぜ』が先だった」
「礼儀がどうこうって話じゃないよ」
「おい、ユキト。『いらっしゃい』はどうした?」
「歓迎しているように見えるか? 少しは話を聞い――」
「さぁ、アジのたたき一人前を」
「ウチは食堂じゃねーって言ってんだよ!」
何をちゃっかり、自分だけ食べようとしているんだ。
せめて、俺にも食わせろ。
「ええと……順を追って説明してくれ。いつも唐突すぎるんだよ、お前は」
「いいだろう、分かった。アジのたたきに至るまでの経緯を、起承転結で丁寧に説明してやろう」
「あぁ、いいな。それだよ、それ。説明――最高だよ。今この瞬間、もっとも必要なモノだ」
「まず、テレビを見たんだ。芸能人がアジのたたきを食べていたよ――それはそれは美味そうなアジだった」
「うん」
「だから、お前の部屋に来た」
「……は?」
「以上だ」
「おい、承と転をどこに捨てた?」
ダメだ。
コイツ、知能指数がアジ並だ。
いつも以上に、日本語が通じていない。
「少し落ち着くんだ、ナオキ。冷静になれ。今、俺の部屋にアジは無い。すぐにアジのたたきを用意するなんて、不可能なんだ」
「甘く見るなよ。俺が何の準備も無く、お前の部屋を訪れるとでも思っているのか? この手提げ袋の中身を見れば、お前も納得するはずだ」
あぁ……そんな。
ちょっと嫌な予感はしていたが、やっぱりか。 不穏な空気を感じていたんだよ……その袋から。
「袋の中身は――」
「待て、待ってくれ。心の準備をさせてくれ」
「中身は――」
「ねぇ聞いてる? ちょっと時間をくれてもいいんじゃない?」
「中身は、アジだ。獲れたてピチピチの、新鮮なアジだ」
「……そうだな。立派なアジだ。俺の心を折るくらい、立派だよ」
「だろう?」
「うん。ただ、会話のキャッチボールくらいはしてくれ」
どうしてコイツは、話を聞かないのだろう。
そして、なぜアジをまるまる一匹持ってくるのだろう。
すでにたたかれているアジを買う、という発想は無かったのか?
「本当に新鮮だなぁ……今にも泳ぎだしそうだ。まるで、三十分前まで海の中にいたかのような――」
「あぁ、だろうな。コイツ、三十分前まで、海の中にいたからな」
「…………」
頼む、幻覚であってくれ。
その右手に持った釣り竿――幻覚であってくれ。
「今から三十分前、コイツは海を離れたんだ。俺という釣り人に案内されて――な」
「表現はともかく、このアジはお前が釣ってきた、と……そういうことでいいんだな? その釣り竿は、幻覚ではないんだな?」
「うむ。釣り竿もアジも本物さ。そして、『アジのたたきが食べたい』という俺の気持ちも、本物だ」
「そうか……。分かった」
「納得してくれたか」
「あぁ。お前の行動力がトチ狂っている、ということが分かったよ」
アジのたたきに対する情熱と執着が強すぎる。
……とはいえ、せっかく釣ってきたのに「帰れ」と追い返すのも忍びない。
コイツがアジを捌くなんて、一生かかっても不可能だろうし。
「それじゃ、お前も手伝ってくれるなら、アジのたたきを作ってやってもいいぞ」
「オーケー。なら、まずは包丁とまな板だな。どんなのがいい?」
「……んんん?」
「知り合いの職人に頼んでやろう。アジを捌くには、どういう包丁が必要なんだ? 教えてくれれば、俺が――」
「分かった、座ってろ。ほら、ココ。新しい座椅子を買ったんだ。フカフカだぞ。お菓子も、自由に食べていいからな」
「いや、しかし――」
「いいんだ。お前は何も気にするな」
「しかしだな――」
「座りなさい!」
*
「ふぅ……よし。あとは、味付けをするだけだ」「やったな、ユキト。俺たちの勝利だ。アジを完璧に屈服させてやったぞ」
「俺――たち?」
ひとり、戦力外の仲間がいたんだけど。
まぁ、いいか。
適材適所、というやつだ。
「さて、ナオキ。ここまでくれば、お前にも出来るはずだ。たたいたアジに、薬味と醤油を入れて混ぜ合わせるだけ。簡単だろ?」
「いいだろう。薬味ってのは……この刻まれた食材たちのことだな。無残な姿になっているコイツらを、アジと合流させればいいんだな?」
「無残な姿とか言うな。心が痛むから」
「では、まず……このよく分からん葉っぱ、投入ッ!」
「細ネギな」
「こっちは……クローバーだな。投入ッ!」
「大葉な」
「独特な匂いの黄色い欠片、投入ッ!」
「ショウガな」
「マヨネーズ、投入ッ!」
「そう、マヨネ――」
あれあれぇ?
何かなぁ? その植物性油脂は。
「おいおいおい、なんだソレは。お前はアジに何を混入させようというんだ」
「お前は知らないかもしれないが、コレはマヨネーズという。何にでも合う万能調味料だ」
「知ってる知ってる。説明を求めたわけじゃない。アジに入れるのをやめろと言ってるんだ」
「やめる? どういうつもりだ? こんなにも、アジを彩る食材たちが集結しているというのに――マヨネーズが入り込む余地は無いと、そう言いたいのか?」
「そう言いたいんだよ! いいから、ソレを離せ!」
くそっ、コイツ、とんでもない握力で握りしめてやがる。
何があっても離さないという、強い信念を感じる!
「おいコラ――離せって! マヨネーズだけはダメだ。ここまでの努力がすべて無駄になるぞ!」
「無駄にはならん! ほら、早くしないと、アジが乾いてしまうぞ――可哀相に! さっさとマヨネーズをかけてあげることが、彼に対する慈悲なんだッ!」
「むしろ無慈悲だって! マヨネーズは、帰るべき場所に帰してきなさい!」
「帰るべき場所? それなら、アジの中だろうッ!」
「冷蔵庫の中だ!」
マズいな。こうなったときのナオキは厄介だ。
だが、ここは譲れない。
せっかくの獲れたてアジをアブラまみれにするなんて……いくらなんでも許してはおけない。
なんとしても、コイツを止めなければ!
「ユキト! その手を離せ! お前には、アジの呼び声が聞こえないのか? 油分を求めているんだよ、彼は!」
「幻聴だ幻聴! お前こそ、マヨネーズから手を離すんだ!」
「えぇい、どけ! 俺はアジを救う!」
「救えないって、ソレじゃ!」
瞬間――事は起こった。
おそらく、どちらかの指がキャップの突起部分に引っかかったのだろう。
発射準備は、とうの昔に完了していた。ナオキが力一杯握りしめていたのだから、当然だ。
赤い発射口から放出されたビームは、ソレがクリーム状の物質とは思えないほどまっすぐな軌道を描き、俺を狙った。
避けられるわけがない――飛来する油脂に反応できるほどの神経は、持ち合わせていなかった。
顔面に、着弾。
お見事なコーティングである。
「…………」
「…………」
「…………」
「……満足か、ナオキ」
「……あぁ。悪かった。おかげで、目が覚めたよ……」
「そりゃあ、良かった」
「……なんか、美味そうな顔になってしまったな。ユキト」
「そうだな。舐めてみるか」
「やめとく。汚いし」
「だな……」
「あぁ」
その後、アジのたたきは無事に完成したが、しばらく顔のギトギトは残った。なかなか消えない脂傷である。
……今後二度と、アイツをキッチンに立たせてはいけない。
マヨネーズと一緒に、永久追放だ。
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