つばきの花よ、彩りを
昔からなんでもわかってしまう。1を教えられれば100がわかる。スポーツも勉強も、ルールや公式がわかればあとは楽勝だった。なんでもわかるというのは気持ちよかったけど、同時に人の注目を集めてしまうのが難点だった。
「よう、つばき。お前勉強できるって聞いたけど本当か?」
「……なにが言いたいんだよ」
自分のクラスで本を読んでいると、隣の席のやつから声をかけられた。どうせ教えてほしいとか言うんだろ。ぼくはだれとも関わるつもりはない。人付き合いなんてめんどうなだけだ。
ぼくは睨むように見るけど、そいつはお構いなしにテスト用紙を机の引き出しから出している。ちらっと見ただけだが、70とか60とかの赤い数字があるのがわかった。全教科100点のぼくには想像もできないような数字だ。
「おれさ、算数とか理科とか苦手なんだよ。よかったら教えてくれないか?」
やっぱり、教えてくれと頼みたかったようだ。そんなめんどうなことだれがするか。勉強ができないやつにさく時間ほどムダなものはない。というか、こいつに勉強を教えてなんの得になるというのだろう。ぼくのメリットはなにもない。なにか得になることがあれば教えてあげなくもないけど。
それをそのまま伝えると、そいつは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くして驚いた様子を見せる。そして、だんだんとその顔が怒りに染まっていくのがわかった。ぼくがつめたく突き放すことでこうなるのは予想していたけど、人と馴れ合う気はないから、むしろこれでよかった。……これで、よかったんだ。
☆ ☆ ☆
ぼくの父親はお医者さんだから、そこそこお金持ちだ。それだからなのかわからないけど、結構いろいろな習い事を経験してきた。ピアノやサッカーやそろばんや絵……本当に多種多様な習い事をやった。絵だけは正解がないから、上手にならなかったけど。上手にならないまますぐにやめた。飽きっぽい性格でもあったし。
そんなぼくだから、乗馬という少し変わった習い事のことも耳に入っていた。生き物が関わっているなら、こんなぼくでも少しは楽しいと思えるかもしれない。そういう思いで入ったところが『花園乗馬クラブ』だった。ウワサで聞いた程度だけど、なにやら強いやつがいるらしい。まあ、ぼくよりは劣るとは思うけど。
そういう見下した考えは、あっけなく砕け散った。
「はぁ……っ!」
長い黒髪は、光を反射してキラキラ輝いている。黒い瞳はまっすぐに一点だけを見つめている。その先には高い位置に設置された棒が何本かあって、その人たちの行く手をふさいでいる。
「行くよ!」
だけど、その馬は軽々となんでもないように跳んだ。ペガサスかなにかか? そうとしか思えないほど、鮮やかでかっこよかった。この乗馬クラブにはこんなやつがいるのか。そう思うと、たまらなく体がふるえた。怯えたわけじゃなく、期待と興奮でテンションが上がったのだ。こんなやつと対戦してみたい。これなら退屈はしなさそう。
その日、ぼくははじめて目標とする人を見つけられた気がした。
☆ ☆ ☆
今日は見学の子が来ているみたいだった。めずらしいことではないけど、そうそうあることでもないからみんながソワソワしていることがわかった。例えるなら、自分のクラスに転校生が来たみたいな感覚だろうか。なんでそのことで楽しみという感情がわくのかは理解できないけど。普通に知らない人が来るというだけなのに、なぜそれが楽しいと思えるんだろう。凡人の考えることは本当にわからない。
「わからないものって、イライラするしもどかしいだけなんだよな」
悪態をつきながら、厩舎の見回りをした。見回りと言っても、適当に歩き回っているだけだけど。馬の様子をチラッと見てみると、前脚と後脚をたたんで寝ているやつがいたり、敷いてある土を鼻で掘って食べ物がないか探しているやつがいたり、馬房の中をぐるぐる円を描いてまわっているやつがいたりと今日もいつも通りだった。馬は知らない人が来るなんてわからないから当然だろう。能天気でいいな。
「つばき、ちょっといいか?」
呼ばれて振り返ると、先生が立っていた。先生の手は、なにかを言うより先にムーンフラワーの馬房の方をさしている。
「見学の子用に馬を出しておいてくれ、ムーンフラワーな。それと、結構元気そうな子だったから……まあ、がんばれ」
それだけ言うと、先生は忙しそうに去っていく。まったく、人使いの荒い先生だ。まあ、ぼくができるやつだからいいけど、他のやつだったら「え? え?」ってなってパニクってたと思う。先生のこの指示にすぐに従えるのはたぶんぼくだけだろう。
いそいでムーンフラワーを馬房から出して洗い場へもっていく。その後に、鞍やゼッケンや腹帯やバンテージや頭絡を用意する。これらをまとめて馬具と言って、馬に乗る時に必要な道具になっている。
すべての作業を終えた時、その姿は見えた。みんなと着ている服が違うから、すぐにそいつが見学の子だとわかった。
「えっと、つばきさん? はどちらに……」
「さん付けとかやめろ。気持ち悪い」
キョロキョロと辺りを見回しているが、ぼくはここにいる。まあ、新人だろうから無理もないか。先生から言われて会う前からなんとなく予想はついていたけど、明るくて元気がありそうな雰囲気をしている。こういう人はぼくの苦手なタイプだ。だから先生は「がんばれ」って言ったのか。
しかもぼくの方を見たあと、すぐに隣のムーンフラワーをガン見している。いや、話聞けよ。ぼくより年上っぽいけど、敬う気にはなれなかった。
「かっこいい……」
「おい、どこ見てんだ。人の話聞いてんのか?」
「え? あ、ごめん。馬の方見てた」
「お前正直すぎないか? さすがに無視されると傷つくんだが」
口ではそう言うも、そこまで傷ついてはいない。ぐいぐい来られるよりは、いないものとして扱ってくれた方がぼくにはよかった。
「えっと、ごめん……なんか言ってた?」
「……『つばき』でいい。さんはいらない」
「オッケー、わかった。つばきね!」
馴れ馴れしいな。まあ、さん付けよりはマシか。さん付けの方がバカにされている気がするから。
ぼくはそれっきり口をつぐんだ。なにも言うことがなかったから。馬を引いて先導し、ついてこいというふうに目線でさくらを誘導する。さくらはそれでもだまってついてきていた。案外いいやつなんじゃないかと思いつつ、変な期待はしないでおいた。
目的地は本当にすぐそこだ。ふかふかの砂が足元にたくさん広がっていて、まるで公園の砂場がどこまでも大きくなったように感じられる馬場の中に、ぼくとさくらはムーンフラワーの横で立っている。そして、さくらへわかりやすいように、近くにあった赤い色のビールケースを指さして指示する。
「ここにビールケースあるからそれに乗れ。馬に乗る時はだれでもそうしてる」
「えっと、ビールケースに乗ったら次はどうしたらいいの?」
「そしたら鐙に……あー、足かけるとこあるだろ。そこに足ひっかけてまたがればいい」
ぼくが言った通り、さくらはビールケースに乗って鐙に足をかけて馬にまたがる。さくらははじめて馬に乗って、どう感じているんだろう。少なくとも高さや揺れで怯えている様子はないように見えた。ちょっと呆然としてもいるようだけど。
「よし、ちゃんと乗れてるな。じゃ、一周まわったら終わりだから」
ちゃんとさくらの姿勢や馬の状態を確認して、僕はゆっくりと馬を引く。砂がやわらかすぎて歩きにくい。こんな場所をいつも歩かされたり走らされたりしている馬のことを可哀想だなと同情した。それと同時に、尊敬もした。まあ、馬の脚に優しいような作りになっているから、人が歩きにくくても馬にとっては歩きやすいようになっているのかな。僕にはそれはわからないけど。
「ねぇ、つばきってインストラクターだったりするの?」
「は? なんだそれ。ぼくは普通の子ども会員なんだけど」
「そ、そうだよね……」
馬場のことを考えていると、さくらから声をかけられた。上を見上げなきゃいけないのはめんどくさいけど、まあ仕方ないか。
というか、なんでインストラクターなんて言葉が出たんだろう。インストラクターは大人の職業だろうに。あ、もしかして……
「お前、ぼくが馬引いてるってことが不思議なんだろ」
「え、そうだけど……なんでわかったの?」
「やっぱりな……理由としては、ほんとくだらないことだ。先生が子どもをこき使うんだよ。それだけだ」
ぼくの言葉を聞いたからか、それとも馬に揺られているからなのか。さくらはさっきよりもからだが震えているような気がする。今の言葉選びはよくなかったか。ぼくのせいでやっぱり乗馬クラブに通うのをやめるとかなったら、さすがに責任感じるし。
「ま、ぼくたちの扱いが雑って以外は特に問題もないし、ちゃんとぼくたちのこと見てくれてるし。って、聞いてるか?」
「ひぃぃ……」
「聞いてないな」
だめだ、完全にこわがっている。せっかく馬の背から見られる景色を堪能する余裕もないようで、さくらはずっと下を向いている。
「……そろそろ一周終わるぞ」
「へぁっ!?」
その言葉はちゃんと聞き取れたようで、変な声を出しながら反応する。まるで終わるのが早すぎやしないだろうかというような不思議そうな顔をしている。まあ、無理もないか。ぼくの話に気を取られすぎていたような様子だったから。
さくらはモジモジと手をいじっている。もう一周したいとか言い出すかな。まあ、それを言ったとしてもそれを許可するのはぼくじゃなくて先生だから、先生に聞いてこないといけないけど。
「あ、あの……もし時間あればもう一周……」
「ブルルッ!」
「……え?」
突然、さくらが乗っているムーンフラワーが鼻を鳴らしたかと思うと、そいつはいきなり駆け出した。
「へっ……ひゃぁぁぁぁぁ!」
それはぼくにとっても想定外の出来事だった。だけど、ムーンフラワーが直進する先にあるものを見てなるほどと納得した。そういうことか。ぼくは周りに興味がないから気づかなかった。まあ、気づいていたとしても馬を変えるなんてできないけど。先生こわいし。ま、トラウマを植え付けるのも責任感じるし、理由を説明していつもはしないって言えばいいか。
そう思って、ムーンフラワーが走った方へ歩き出す。そこにはすみれとフラワーシャワーがいる。ムーンフラワーは本当にフラワーシャワーのことが大好きだな。
「……つばき。なんであたしがフラワーシャワーに乗っている時にムーンフラワーを出したの。こうなることはわかるじゃない」
「仕方ねーだろ。先生にそいつを出せって言われたんだから」
ぼくが近づいてきていることに気づいたすみれが、大きなため息をつきながら話しかけてくる。いや、これぼくのせいじゃないし。ぼくは先生に言われた通りにしただけなんだから、すみれに怒られる筋合いはない。だけど、ぼくが口答えしたせいなのか、すみれの怒りのスイッチが入ってしまった。
「先生に言えばいいじゃない! 先生だってフーちゃんとムーちゃんの関係知ってるんだから!」
「んなこと言えるか! だいたい、他の馬はもう一回運動終わってんだから疲れさせるわけにいかないだろ!」
「だからって初心者の子を危険な目にあわせる方がおかしいわよ!」
「危険かどうかなんてムーンフラワーが駆け出すまでわかんねぇよ!」
すみれと話していると、ついつい向こうと同じくらい熱くなってしまう。冷静に話すことができない。前に、争い(ケンカ)は自分と同レベルの人とでしか成立しないということを聞いたことがある。……つまり、ぼくがすみれと同レベルということに? いやいや、ないない。ぼくの方が上だし。すみれの方が下なんだ。
高いプライドがむき出しになろうとした時、さくらがおずおずと口を開いた。
「え、えっと、あの、ちょっといいですか?」
ぼくはさくらのことを気にする余裕もなく、すみれに向けていたけわしい顔を戻すことができなかった。相当こわい顔をしていたんだろう。ムーンフラワーにいきなり走られた時以上に怯えているようだった。
だけど、意を決してさくらは続けた。声を震わせながら。
「あの、この子……ムーンフラワー? が駆け出した理由ってなんなんですか?」
「そんなの簡単よ。あたしが乗ってるこのフラワーシャワーに好意があるから」
「えっ」
「まあ、ムーンフラワーがフラワーシャワーを姉のように慕ってるってことよ。自分たちのことを姉妹だと勘違いしてるんじゃないかしら」
すみれがわかりやすく説明する。人に説明するのが得意なんだろうか。さくらもそうなんだというふうにすみれの話を熱心に聞いている。
言い終わったあと、すみれは自分の役目は終わりだとばかりにぼくに目配せする。はぁ……人使いの荒いやつだ。まあいいけど。
「そういうことだ。まあ、悪かったよ。お前を危険な目にあわせて」
「えっ、いや、べつにいいけど……」
「じゃあ、そろそろ降りてくれ。そいつを手入れしなきゃいけないから」
さくらを降ろし、ムーンフラワーを引いて洗い場へ戻る。その間にさくらとすみれがなにかを話しているようだったが、ぼくには関係ないからスルーする。お互いの名前を言い合ったりして、挨拶でもしているんだろう。
洗い場へ来て、ムーンフラワーの様子がおかしいことに気づく。ずっとさくらとすみれの方を見ているのだ。フラワーシャワーがそっちにいるから、そっちを見ているんだろうと思ったけど、少し違う気がする。さくらが動くたびに目や顔を動かしているし。もしかして、さくらに興味があるのだろうか。
「いやいや、まさかな……」
だって、あのさくらだ。バカっぽくてなにも考えてなさそうな、あのさくらだ。ムーンフラワーがそんなやつに興味を持つはずがない。ムーンフラワーの好みとか知らないけど。そうやってちょっとした違和感を覚えつつも、自分には関係ないことだと思い、考えるのをやめた。
☆ ☆ ☆
それからしばらくも経たないうちに、すみれにピッタリとくっつくひっつき虫が出来上がっていた。あー、今日も空がキレイだなぁ。紅葉もイチョウも色鮮やかで見ていて飽きない。紅葉狩りとかできそうだ。あ、でも、周りは工場に囲まれているからそんなに楽しめないか。しかも、もう枯れかけているし。……全然楽しめないわ。
「ねぇ、ちゃんと聞いてるの!?」
「あー、うるせぇな……」
すみれのひっつき虫は、ぼくの目の前にいる。……なんでだ。すみれは近くにいないのかと探してみると、馬場の方に姿が見えた。馬に乗っているから、こっちの方に戻るのがいつになるかわからない。こいつのめんどうはぼくが見なきゃいけないのか。めんどくさいな。
「うるさいってなに!? こっちは真剣なのに!」
「いや、だから声でかいんだって……」
「そういうこと? ソーリーソーリー」
「絶対思ってないだろ……」
だけど、声は抑えてくれた。案外いいやつなんじゃないかと思ったが、苦手なタイプということに変わりはない。できれば関わりたくないが、人との関わりも重要なこの場所でそうは言っていられない。まあ、学校も大事は大事だけど、いざとなったら保健室という逃げ場があるし。でも、ここにはそんな逃げ場はない。強いて言うならトイレくらいだろうか。でも、トイレに長くこもってるわけにもいかないしなぁ。
まあ、それはともかく、すみれが馬に乗っている時はさすがにさくらもひっつき虫をやめるようだ。常識はあるようで、なんか安心した。ぼくのところに来る理由はわからないけど。というか、どっかに行ってほしい。
「ってかさ、話がそれたけどすみれさんって馬に乗ってる時ってほんとカッコイイよね~!」
「……乗ってる時だけか」
「え? うーん、どうかな……普段はクールだったりそっけないところはあるけど、それはカッコイイじゃなくてキレイの部類だしなぁ……」
そりゃそうか。ぼくも含め、みんなすみれの馬の乗りこなしに目がいっている。普段のすみれにあこがれるやつなんていないのかもしれない。まあ、あいつの裏の顔って結構アレだしな。それを知ったら、あこがれが砕け散るかもしれない。そういうところも見てみたい気がするけど、そこまでぼくの性格は悪くない。
あこがれの存在は遠くにあってこそ成り立つ。自分の手には届かないところにあるからこそ、その場所に行きたいと行動を起こしたり、逆に自分には無理だとあきらめたりする。だから、近づきすぎてはあこがれなんて起きやしないのだ。
「なぁ、お前すみれの素顔知りたくないか?」
「え?」
ぼくは少しいじわるしてみたくなった。ぼく自身がなにかをするわけではない。さくらのあこがれがどこまで続くのか見てみたかった。
「すみれが乗り終わったあとで遠くから少し観察してみろ。きっとすごいものが見られるぜ」
ぼくはきっと、ものすごく悪い顔をしていたに違いない。だけど、いたずらごころには勝てなくてさくらを思いのままに誘導したのだった。誘導と言っても、さくらをムーンフラワーの馬房に押し込んですみれが来るのを待つという単純なものだったけど。
「フーちゃん、来たわよ」
お、きたきた。すみれはフラワーシャワーの馬房の中へ足を踏み入れる。掃除をしにきたわけではないことも、乗るために出しにきたわけでもないこともぼくにはわかっていた。
ムーンフラワーの馬房とフラワーシャワーの馬房はちょうど向かい側にある。そのため、ムーンフラワーの馬房にいるさくらが、フラワーシャワーの馬房にいるすみれの様子がはっきりと見られるようになっているのだ。すみれがさくらに気づいたら絶対発狂するだろうな。まあ、さくらにはうまく隠れるように言ったからたぶん気づかないだろうけど。
「可愛いね~! あったかーい! おにくぷにぷにで触り心地サイコー!」
すみれの声は厩舎の外から様子をうかがっているぼくの耳にも入ってくる。それがどうしてみんなにバレていないと思っているのかナゾだ。すみれは、自分が馬とイチャイチャしていることをぼくだけが知っていると思っている。
そんなことはないと、少し考えればわかるはずなのに。ま、ぼくより賢いやつなんていないか。……そろそろすみれのところに行こう。
「ふふふ……もふもふ……」
「……お前、よく飽きないよな」
「いいじゃない。あたしの唯一の楽しみなんだから」
すみれはぼくが突然声をかけてきたことに驚いてはいたようだけど、取り乱すことはなかった。まあ、いまさらぼくに見られたところでどうってことないとでも思っているんだろう。もしぼく以外のだれかにこの場面を見られたら、恥ずかしさで死にそうになるのかもしれないけど。それはそれで見てみたいな。
「で、なにか用?」
「話がはやくて助かる。ちょっとこっち来てくれ」
ぼくは洗い場の方を指さす。なんで場所を変えなきゃいけないんだとでも言いたげだったが、素直に従ってくれた。よしよし、すみれならそうすると思った。
そうしてついてきてもらった時、すみれはふと洗い場の前で立ち止まった。あー、これは気づかれたかな。思っていたより早かったが、すぐにネタばらしができるから都合がいいか。すみれはさくらの姿を探しているようで、真剣なまなざしで必死に目と顔を動かしている。
「お前さ、もう少し考えて動いた方がいいぞ。知られたくないことならよけいに」
「……あんた、まさか……知ってて……」
思わず笑ってしまいそうになる。だけど、ぐっとこらえてなんとか真顔を保つことができた。ここは素直に白状するより少しウソをまぜて話した方がいいな。本当のことをバラしてもよかったんだけど、すみれは怒るとこわいしな。
「すみれが勘違いしてただけだろ。ぼくはたださくらが近くにいるのに気づかずに癒しをもらいに行ったすみれを放っておいただけだ」
「ちょっとぉ! つばきあんたなにしてくれてんのよ!」
すみれの叫び声は大きく響いたが、すぐに工場の作業音にかき消された。洗い場に出ていた馬はすごく驚いた様子で耳をピンと立てて目を見開いていたけど。馬は繊細でビビリだからなぁ。すみれもそのことをわかっているはずなのに、周りが見えないほど怒っているようだ。なんか顔めっちゃ赤くなってるし。リンゴの皮とかいちごとかそういうのが想像できた。
もう気温が下がってきていて厚めの上着を着ないとやっていけない時期になってきているのに、すみれだけやけに暑そうだった。怒りってここまでのことができるのか。そんなふうに、ぼくは冷静に分析していた。
「あーっ、もう! つばきのアホ! バカ!」
すみれは怒りで我を忘れているのか、言葉選びが子どもっぽくなっている。そして力強く足を踏み込んで厩舎に戻っていった。よほど腹が立ったんだろう。そりゃそうだよな。
すみれには悪いと思いつつ、ぼくはそれほどまでさくらのことが知りたかった。正確に言うと、さくらがどこまですみれを好きでいられるのかをこの目で見たかったのだ。すみれの恥ずかしい部分……弱みを見ても、はたしてあこがれることができるのか。単純に興味があった。
ぼくは最初、すみれのことをあなどっていた。目標を見つけたとは思ったが、ぼくが乗馬について理解した瞬間にすみれがぼくより下になってしまうんじゃないかとおそれていた。やっとぼくより上だと思う人を見つけられたと思ったのに。でも、そんなのはすぐにかき消された。すみれは本物の天才だったから。ぼくがどんなに速いペースで上達しても、すみれには及ばなかったから。それを知った時、ゾクゾクとからだがしびれた。そうだ、これだ、ぼくが求めていたものは!
ずっとずっと、ぼくは努力というものを知らなかった。それはそれで楽だったけど、心の底では努力というものを体験してみたかったんだ。だから、すみれがいてくれてよかった。まあ、中身があんなんだからとても尊敬する気にはなれないけど。ぼくがはじめてすみれの素顔を知った時は失望した。こいつはすごいやつだと思っていた分、少し違う顔が見えただけでガッカリしてしまったんだと思う。それは、さくらも同じだと思っていた。
☆ ☆ ☆
すみれに呼び出されたとかで、ぼくはさくらと一緒に木がいっぱい生えているところへ向かっていた。冬の時期が来た今では木々に葉っぱがついてなくて、淋しげな感じになっているだろうけど。夏とかだったら、その小さな森みたいなところを満喫できたのかもしれない。
「はぁ……なんでぼくまで連れてこられなきゃならないんだ……」
「ご、ごめん。すみれさんがつばきも一緒にって言ってたから」
「あー! さくらちゃんたちどこ行くの? わたしも連れてってよー」
「うわ、しつけーやつが来た」
反射的にそんなつめたい言葉が口からポロッとこぼれてしまった。女の中にはすぐ泣くやつもいるからな……こいつはそうじゃなきゃいいけど。というか、こいつだれだっけ。ついとっさに出た言葉だから特に意味はなかったんだよな。まあ、こいつはすぐに明るい笑顔を見せたから心配いらないか。
「もー、つばきくんっていっつもそうやって突っぱねてくるよね~。嫌になっちゃう」
「嫌なら来なきゃいいだろ」
「えー、ケチー。面白そうなことしようとしてるんでしょ? 先生の目をぬすむくらいなんだから~」
「あ、そ、それは……」
図星を突かれたというような顔をして、さくらは言い淀む。先生の目をぬすんで行動しているのは事実だから。先生怒るとこわいからなぁ。いや、普段もイカつい顔してるからそれもこわいって言えばこわいけど。
「いいじゃんいいじゃん。なに? もしかしてデートだったり?」
「そんなわけないよ。すみれさんに呼び出され」
「ヒヒーンッ!」
遠くに、茶色の暴れ馬が見えた。どうやら洗い場に括り付けられた紐を引きちぎって脱走しているらしい。遠くだからよく見えないけど、子どもも大人も慌てふためいているみたいだった。
ハナアラシだ。最近入ってきたばかりの馬。気性が荒く、馬房の目の前を通っただけで噛み付きそうになったり洗い場で一緒にいると蹴られたり足を踏まれたりする人が続出している。
そんな馬が、こちらにどんどん近づいてきている。ぼくと声をかけてきた女はとっさに道の端っこの方に寄っていく。だけど、さくらは動かなかった。いや、動けないでいるように見えた。
「おい、さくら! あぶないぞ!」
全速力の馬は車みたいなもの。突撃されたら無事じゃ済まない。ぼくは馬場の柵をくぐって中に入って、さくらに向かって必死で手を伸ばす。
ザッザッザッ! 馬が土を蹴る音がだんだん大きくなってくる。このままでは、さくらは馬に轢かれてしまう。そう思ってさくらを助けるべく動こうとした時、さくらは腕と足を大きく広げて自分のからだで大の字をつくっていた。そして、馬に向かってふっとほほえんだ。
「……うそ、だろ……」
ハナアラシが、さくらにぶつかることなく止まった。なにがどうなっているんだ。
「止まってくれたんだ……ハナアラシ」
「ブルルッ」
お前(さくら)のために止まってやったんだぞとでも言いたげに、ハナアラシは鼻を鳴らす。さくらはそんなハナアラシに近寄って首のところをぽんぽんとたたく。さくらは「ありがとう」と伝えているみたいだった。
「え、ちょ、ふへへ。くすぐったいよぉ」
ハナアラシはもぞもぞと鼻先を器用に動かして、さくらのことをくすぐる。さくらは間髪入れず、ハナアラシの頭をなでた。そんな一人と一頭の様子を見ながら、ぼくは目を丸くすることしかできずにいた。きっと、ハナアラシの暴走を止めるのはぼくやすみれでも無理だっただろう。さくらだったからこそできたことだ。ぼくにはマネできない。下だと思っていたさくらにこんな特技……いや、才能があるなんて思わなかった。さくらとの付き合い方を考えた方がいいかもな。
「すごい! さくらちゃんすごいね! 魔法使いみたい!」
「さくらちゃん、どうやって止められたの? おれもさくらちゃんみたいにやってみたい!」
「さくらさん、ケガはないか? どうしてあんな無茶を……」
「さくらさん、すごく助かったわ。でも、あぶなかったからヒヤヒヤしたわ」
さくらはあっという間にみんなに囲まれた。すげ、大人気じゃん。先生もこっちに近づいてきている。焦りと安堵がまじったような表情で。
「……さくら」
「ひゃわっ!」
先生が声をかけると、さくらは飛び上がった。自分が危険なことをしたと自覚しているようだ。
「あばばば……お、お許しくださいぃ。なぜかこうしなきゃいけない気持ちになっ」
「助かった。ありがとう」
「……へぁ?」
先生はさくらの頭をくしゃぁとなでて去っていく。さくらは困惑顔でなにが起こっているのかわからないという様子だった。あわあわと慌てふためいている。
仕方ない、ぼくがハナアラシを片付けるか。そう思って、人の輪をかきわけてハナアラシを引っ張っていった。スキップしたり首を大きく動かしたりするから引きづらい。おまけに、時々さくらの方を向くからすぐに止まってしまう。今すぐにでも馬房に押し込んでやりたい。
「でも、これですみれの呼び出しから逃げられたし……ラッキーだな」
そう思うことにした。そうして、ぼくはすみれの呼び出しをドタキャンした。
☆ ☆ ☆
だけど、少し気になったから、ハナアラシを洗い場へ運んだあとに遠くから様子を見ることにした。バレないように、音を立てないようにゆっくりと近づく。木が枯れているから、さくらとすみれの様子ははっきりと見えた。でも、こっちからはっきり見えるということは、向こうからもはっきり見えるということだ。うまくボロ捨て場の影に隠れながら覗くことにした。うまく隠れられているといいけど。
「どうしてあなたなの。どうしてあたしじゃないの。ムーちゃんもフーちゃんもハナちゃんも! なんであなたになつくのよ! なんであたしじゃダメなのよ!」
ぼくが来てから少し経って、すみれの悲痛な叫び声が聞こえてきた。すみれもさくらがハナアラシを止めるところを見ていたらしい。隠れてイチャイチャするほど馬が好きで、なおかつ自分よりもあとから来たやつの方がなつかれているなんて認めたくないんだろうな。すみれの気持ちは少しわかる気がした。
そんなすみれを見て、さくらはなんて言うんだろう。ここまですみれのダメな部分を見たら、さすがにあこがれなんて……
「……すみれさん。わたし、すみれさんにあこがれています」
ぼくはその言葉に驚いたが、言われたすみれの方がもっと驚いただろう。
「は? 急に改まってなに? 知ってたけど?」
「えへへ、だよね。最初は見た目が綺麗で障害馬術をすごく上手にこなすところにあこがれた。わたしもこんな風になりたいって」
さくらはそこから止まらなかった。まるで、今もなおあこがれ続けているみたいに。
「でもね、それだけじゃないの。すみれさんの落ち着いたところも、乗馬に真剣なところも、つばきと言い争ってるところも」
「ちょっと待って、最後のってなんかちが」
「全部、大好きなの。全部キラキラして見える。すみれさんがわたしのあこがれだってことは、ずっと変わらない」
……そうか。こいつは、さくらは、すみれのいいところも悪いところもすべて含めて大好きなんだ。あこがれが消えることはない。さくらはミーハーなんかではなかった。本当に心の底からすみれにあこがれているんだ。
「すみれさんは、わたしの光。だから、わたしがすみれさんの影になる! ずっと輝いていてほしいから! すみれさんがなにか悩んでいるなら、それを全部わたしが引き受けるよ! わたしがすみれさんの足りない部分を持っているっていうのなら、全部あげる。だから、もう泣かないで?」
そんなふうにすべてを包み込むように言うさくらの声は、すみれの涙を引っ込ませるにはじゅうぶんすぎるみたいだった。いつの間にかすみれは涙を止めていて、満ち足りたような顔をしていた。
すみれみたいな天才でも、たくさん悩んでいた。さくらみたいに一見平凡そうなやつでも、思わぬ能力を持っていることを知った。人間って、案外面白い生き物だったんだな。今まで、ぼくはぼく以外の人間がすべて同じに見えていた。ぼくには到底及ばない、取るに足らないものだと。だけど、その認識が間違っていたことがわかった。さくらとすみれのおかげで。
「わたしが、すみれさんの影に……黒に……ダークホースになるよ。それなら、すみれさんの肩の荷が少しは下りるかな?」
……こいつ、ダークホースって意味をわかって言っているんだろうか。もともとは力や人気のある馬を差し置いて一番になる穴馬のことだった。そこから転じて、実力はわからないけど強いだろうと予想できる競争相手というふうになったと言われている。少し前に調べたことがあるから、ダークホースの意味もわかっていた。それなのに、すみれの欠点(穴)を埋めるという意味で使うだなんておどろいた。すみれも笑っている。
「ふふっ、あははっ。あなたなにを言っているの? 意味がわからなさすぎて笑えてきちゃったわ」
そう言うと、すみれは立ち上がってさくらの手を取った。ヒザから崩れ落ちていたすみれだったが、ようやく力を取り戻したようだ。
「あたしの影になるって言ったけど、ほんとにいいの? あたしの悩み、重いわよ?」
「かまわないよ! どんなに重くても、みこしのように担いじゃうんだから!」
「ふふっ、なんだかよくわからないけど……頼もしく思えるわ」
すみれは「悩んでいるのがバカらしくなってくるわね」と笑い飛ばした。
「まあ、悩みを肩代わりさせるなんてことはできないから……あたしの影……ダークホース……親友? うん、親友がいいわ。親友として悩み相談くらいは乗ってもらおうかしら」
「うん、いいよ……って、親友!? そんな恐れ多いよ!」
「恐れ多いって……じゃあこういうのはどう? あたし友だちいないのよ。さくらがあたしのはじめての友だちっていうのは?」
「すみれさんの……はじめての友だち……」
さくらの答えはもう決まっていたようで、すぐに太陽のような笑顔で声を弾ませた。ってかこいつら、まだ友だちじゃなかったのかよ。
「うん! はじめての友だち! えへへ、すごくいい響き」
「親友は恐れ多くて友だちはオッケーなの、よくわからないわ……」
それについてはぼくも同意だ。さくらは人より感覚がズレているのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいか。仲直り……いや、より仲が深まったならめでたしめでたしだろう。ちょうど馬房に入れたハナアラシであろう鳴き声が聞こえてきたし。
「おい、お前らここにいたのか。ハナアラシがまた機嫌悪くなってる。ちょっと手伝え」
ぼくはまだ手を繋いでいる二人に声をかけた。二人はおどろいた様子だったけど、ぼくのことはどうでもいいみたいに顔を見合わせて笑っている。いや、わざわざ見せつけなくても。そう思ったけど、それを指摘しなかった。二人がそれでいいならいいんじゃないかと、ぼくはめずらしく他人のことを尊重したから。
☆ ☆ ☆
「……な、なぁ、その、今日教科書忘れちまってさ、悪いけど見せてくれねぇか?」
席替えをしても、隣のやつは変わらなかった。ぼくがつめたく突き放してから話しかけて来なくなったが、どうやら話しかけざるをえない状況ができたらしい。気まずそうなのが見てわかる。別にそういうことなら断ったりしないのに。
「ん、どうぞ」
「あ、サンキュ」
ぼくが教科書を見せたのが意外だったのか、戸惑ったように感謝された。ぼくのことなんだと思ってるんだ。……まあ、前のぼくは確かに嫌なやつだったかもな。
「……なぁ、困ったことがあれば遠慮なく言えよ。それと、前の断り方がちょっと強かったの……悪かった」
「……もしかして、あの時のこと謝ってんのか?」
「は? それしかないだろ」
そいつは最初ポカンと口を開けていたが、すぐに明るく笑った。まるで、気にもしていないみたいに。
「ははっ。お前謝れるんだな。謝れないやつだと思ってたわ」
「なんだよそれ。そんなわけないだろ」
「あははっ。だってお前、嫌なやつだったじゃん」
それはそうだけど、本人にそれを言うだろうか。いや、過去形になっているから今は違うってことを言いたいのか? よくわからないけど、腹をかかえて笑っている隣のやつを見たらどうでもよくなってきた。こいつがぼくの前で笑うなんてなかったはずだ。ぼくも少しは、変わっているのだろうか。さくらとすみれみたいに。
「だから悪かったって言ってるだろ」
「ははっ。お前が言うとウソみたいに聞こえるわ」
「なんだと!?」
ぼく自身、こんなに笑ったのははじめてかもしれない。さくらとすみれに影響を受けたんだな。それを認めるのは嫌だったけど、なぜかあたたかいものが込み上げてきたのだった。
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