乗馬クラブのダークホース

M・A・J・O

さくらの花よ、咲き誇れ

「だめ、全然だめね」

 その人は大きなため息をこぼして、わたしの方を見る。すっごい見られている。熱烈な視線を送られている。ファンだったらどうしよう。まあ、視線の送り主は自分のお母さんなんだけど。

「どうしたの、お母さん」

「どうしたもこうしたもあるかぁ! さくら、アンタはなんでそうすぐ猫背になるのか知りたいわ!」

「だって、こっちの方が楽だし」

 なんだ、またその話か。

 どうやらお母さんは、わたしが猫背なことが嫌らしい。嫌というか、なおしたい? 猫背はそうしているだけで病気にかかりやすくなるとか、お母さんが色々言ってた気がするけどくわしいことは忘れた。

 わたしが姿勢を正す気もなく言うと、お母さんはまたため息をつく。ため息つくと幸せ逃げるらしいのに大丈夫かな?

「ふぅ……覚悟は決まったわ。金なら心配いらない。アンタ、乗馬やってみない?」

「乗馬……? って、あの馬に乗るやつ?」

「そう、それ」

 深刻そうな面持ちで、お母さんはテーブルに肘をつけて手の甲の上にあごを乗せた。あ、これはもうスイッチ入っちゃってるな。こうなったら、わたしの意見なんてガン無視で話を進めてくるに違いない。

「はぁ……それと猫背をなおすのにどう関係あるのかわかんないけど……いいよ。なんか楽しそうだし」

「よっしゃ、決まりね。アンタほんとなにしても姿勢よくなんないもんねー」

 わたしが興味もなさそうに座りながら足をプラプラさせていると、お母さんはいつの間に背後にまわってきたのか、ぺちぺちとわたしの背中を叩いている。

「いったっ! 暴力はんたーい!」

「これは暴力のうちに入りませんー」

「なにそれ!」

 わたしとお母さんは、友だちのように冗談を言い合いながら笑い合った。

 そうしているうちも、わたしはお母さんの言ったことについて考える。乗馬……確かに楽しそうとは思ったけど、どんなことをするのか想像もつかない。お母さんはわたしがもし断っても聞いてくれないだろうし。だから楽しそうという言葉は、そんなに本気で言ったことではなかった。


 ☆ ☆ ☆


 乗馬をやってみないかというお母さんの誘いを受けた次の日。わたしたちは早速乗馬クラブを訪れていた。……早くない?

「あ、ほらほら、馬に乗ってる子たちがいるわよ。かっこいいわねぇ」

「うーん、そこまでか……な……」

 お母さんは目を輝かせるけど、わたしはそこまで興味を持てなかった。あの人を見るまでは。

「はぁ……っ!」

 やけに真剣な表情。黒いヘルメットをつけながらも風になびく長い黒髪。白い馬は毛並みがすごく綺麗で、一瞬にしてすべてに目を奪われた。

 突然吹いた冷たい風は金木犀の香りをつれて、わたしの肺を満たす。その風がその人たちから吹いているように感じられて、不思議な感覚におそわれた。わたしはもう、その人たちから目が離せなくなっていた。

「へっへっへっ、なんか知らんけど気に入ってくれたようだね。じゃ、お母さんは手続きしてくるから」

 お母さんがなにか言って去っていったけど、今のわたしにはそれはどうでもよかった。長い黒髪の女の人と白い馬は、ハードル走とか走り高跳びの時に使う道具のような障害物を次々に跳んでいく。馬はわたしより大きくてたくましく感じるのに、鳥みたいに軽々と跳んでいるのが印象的だった。まるで、背中に羽でも生えているみたいだ。

「すごい……」

「すごいよねぇ」

「あれはさすがだよな」

「うひゃぁっ!?」

 いつの間にか、私の横には私と同い年くらいの女の子と男の子が立っていた。ずっと目が離せなかったから気づかなかったというのもあるけど……さすがにこの距離まで近づいてこられて気づかないなんてどうかしている。

「あっはっは、ごめんね~。おどろかせちゃったかな?」

「い、いや、別に……」

「アイツ見てたんだろ? 気づかねーのも無理ないって」

 二人の視線は、わたしがさっき見ていた人の方に向いている。二人の服装とわたしが見ていた人の服装は似ているから、おそらくここの乗馬クラブに通っている子たちなんだろう。車に乗っている時に、『花園乗馬クラブ』と書かれた看板を見かけた気がする。

 それにしても、ポロシャツになんかよくわからないピチピチのズボンを履いているのがどうにも気になる。馬に乗る時はこの格好じゃなきゃだめなのかな。ってことは、わたしもそれを着ることに? 上のポロシャツはともかく、ズボンがピチピチすぎてからだのラインがはっきりしちゃうのはちょっと抵抗があるというか。

「ねぇねぇ、あなたはじめて見るし見学の子でしょ? わたしたちが色々教えてあげよっか?」

「おー、そりゃいいな。知らねーことたくさんあるだろうし」

「え、で、でもわたしここでお母さん待ってないと……」

「ここそんな広くないから。ほらほら、レッツゴー!」

「ちょ、ちょっと……!」

 強引に手を引かれ、わたしはこの場を後にせざるを得なくなった。広くないと言っているが、家が何軒か建ちそうなくらいは広い。この子たちの感覚はどうなっているんだろう。やっぱりこういうところに来る子はお金持ちの家の子が多いのだろうか。

 わたしは色々考えながら、手を引かれ続けた。金木犀の香りはもうしなかった。


 ☆ ☆ ☆


「じゃじゃーん、ここが厩舎だよー!」

「お、おぉ……馬がいる……」

「そりゃ、乗馬クラブだからな」

 厩舎とは家畜を飼う小屋だとネットで調べたら出てきたが、ようするに馬の家らしい。家というか、たくさんいるからシェアハウスに近いのかな?

 まあ、それはともかく、ほんとに乗馬クラブにいるんだなと実感できるほど馬が多い。そして、におう。くさい。厩舎の中に入ってからより一層においがキツくなった。

「ありゃ、鼻ふさいでる。やっぱこのにおいキツかった?」

「はじめて来た時、おれもキツかったな~。鼻もげるかと思った」

「そこまで?」

 二人だけで盛り上がっている。わたしはどうすればいいかわからず辺りを見回す。楽しそうに馬と戯れる小さい子もいれば、洗い場で馬に乗る準備をしている大人もいたり、わたしと同い年くらいの子が馬の部屋に入ってなにやら掃除みたいなことをしている。

 色々な人がいるんだなという印象を受けた。大人もちらほら見かけるけど、子どもの方が多いみたい。馬は子どもたちに人気なのかな。

「あ、あの、ちょっといい?」

「ん? どうしたの?」

「子どもが多いみたいだけど、なにか理由とかあるの?」

「あぁ、そのことか。この辺は子どもを受け付けてない乗馬クラブが多いから、この花園乗馬クラブに集まるって感じなんだよ~」

 なるほど。その子の説明はわかりやすくて、わたしはもっと色々聞きたいと思った。

「じゃあさ、さっきの人もそんな感じなのかな?」

「さっきの人?」

「あの、ほら、白い馬に乗ってた人!」

「あー、すみれのことか」

 女の子に向かって説明していると、その言葉に男の子の方が反応した。あの人、すみれさんっていうのか。素敵な名前。

「すみれさんね。あの人もそうなのかってのはわかんないなぁ。わたしたちとは住む世界が違うって感じだし」

「一人だけ次元が違うよな。どんな馬でも乗りこなすし、障害馬術の大会じゃ優勝しまくりだもんな」

 すみれさんってそんなにすごい人だったんだ。ますます興味を持った。

 わたしもいつか、あの人みたいになれる日が来るのだろうか。かっこよくて、キレイで、強いお姉さんになれる日が。

「あ、こら。お前たちここにいたのか。さっさと馬乗ってこい。割り当てただろ?」

「あっ、先生……ごめんなさい」

「えっと、おれたち見学の子の案内をしてて……」

「そんなのいいから。はよ行け」

 女の子に先生と呼ばれた人がぶっきらぼうに言い放つと、ピューっと二人は逃げるように走っていった。この人が先生? なんかめちゃくちゃこわそうなんですけど。あれ、っていうか、お母さんはこの人と話に行ったんじゃなかったっけ。先生って何人もいるのかな。

 わたしが考えすぎてぐるぐる目を回していると、先生はこっちをジロジロと見てきた。舐めまわすように見られていて落ち着かない。

「ふぅん、まあ問題なさそうだな。つばきに馬任せてあるから乗ってきていいぞ」

「え、あ、あの、つばきって……?」

「向こうに行けばわかる」

 先生がそう言って指さした先は、さっきわたしが通ってきた洗い場だった。馬が五頭くらい出されていて、満員みたいだ。馬をブラッシングしている人もいれば、馬を洗っている人もいて、いざ馬に乗ろうとしている人もいる。

「えっと、つばきさん? はどちらに……」

「さん付けとかやめろ。気持ち悪い」

 すぐそばに……というより、目の前につばきという人物がいた。すみれさんが女の人だったから、つばきという人も女の人かと思っていたけど違った。明るくて短い茶色の髪が目立っている、目付きがするどい男の子だ。わたしより年下っぽく感じる。

 そのつばきの隣には、真っ黒な馬が立っていた。ツヤツヤで、陽の光を反射していてとてもまぶしい。その黒色は、まるですみれさんの黒髪のように見えて、惹かれるほどに綺麗だった。

「かっこいい……」

「おい、どこ見てんだ。人の話聞いてんのか?」

「え? あ、ごめん。馬の方見てた」

「お前正直すぎないか? さすがに無視されると傷つくんだが」

 口ではそう言うも、傷ついているようには見えない。ツンデレ? ツンデレとかいうやつなのかな?

「えっと、ごめん……なんか言ってた?」

「……『つばき』でいい。さんはいらない」

「オッケー、わかった。つばきね!」

 まだ出会ったばかりなのに、いきなり呼び捨ては馴れ馴れしかっただろうか。でも、くん付けもしなくていいって言いそうだし。あまり深く考えないようにしよう。

 つばきはそれっきり口をつぐんでしまった。馬を引いて先導し、ついてこいとばかりに目線でわたしを誘導する。人と関わるのがあんまり得意じゃない子みたいだ。とはいえ、わたしも馬について知らないことだらけだから、だまってついていくしかない。

 目的地はすぐそこだったみたいだ。さっきすみれさんが馬に乗っているのを見た場所の中に、わたしは立っている。正確には馬場というらしい。ふかふかの砂が足元にたくさん広がっていて、まるで公園の砂場がどこまでも大きくなったように感じられる。踏んだ感触もちょっと似てるし。

「ここにビールケースあるからそれに乗れ。馬に乗る時はだれでもそうしてる」

「えっと、ビールケースに乗ったら次はどうしたらいいの?」

「そしたら鐙に……あー、足かけるとこあるだろ。そこに足ひっかけてまたがればいい」

 つばきに言われた通り、わたしはビールケースに乗ってトライアングルみたいな足置き場に足をかけて馬にまたがる。こうしてまたがると、馬の背から見る景色はさっきと違って見えた。いる場所も見ている場所も同じだけど、視線の高さが違うだけで別世界に迷い込んだかのようだった。こんなにも違うものなのかと、わたしは驚きのあまり呆然としてしまった。

「よし、ちゃんと乗れてるな。じゃ、一周まわったら終わりだから」

 ここでお別れみたいな言い方だったけど、つばきはちゃんと馬を引いてくれる。家でちょっと調べたけど、こういうのなんて言うんだっけ。えっと、たしか……引き馬だ。最初は一人で乗るのはあぶないから、インストラクターなどが馬を引くと書いてあった。インストラクターというくらいだから、てっきり大人が引くものだと思っていたけど、つばきはどう見ても子どもだ。

「ねぇ、つばきってインストラクターだったりするの?」

「は? なんだそれ。ぼくは普通の子ども会員なんだけど」

「そ、そうだよね……」

 すると、つばきはなにかを感じ取ったのか「そういうことか」とつぶやいた。

「お前、ぼくが馬引いてるってことが不思議なんだろ」

「え、そうだけど……なんでわかったの?」

「やっぱりな……理由としては、ほんとくだらないことだ。先生が子どもをこき使うんだよ。それだけだ」

 つばきの言葉でなのか、それとも馬に揺られているからなのか。わたしはこわくてからだが震えていた。

 そういえば、さっき案内されている時にわたしと同い年くらいの子たちが馬の部屋の掃除をしているのを見た。あれも、そういうことだったのだろうか。だとすると、相当やばい先生なのでは? 今問題になっている体罰とか平気でやっちゃう人なのでは?

「ま、ぼくたちの扱いが雑って以外は特に問題もないし、ちゃんとぼくたちのこと見てくれてるし。って、聞いてるか?」

「ひぃぃ……」

「聞いてないな」

 つばきの声は耳に入ってくるけど、わたしにはそれがどんな言葉を放ったのかを理解できるだけの余裕はなかった。ついでに言うと、馬の背から見られる景色を堪能する余裕もなかった。

「……そろそろ一周終わるぞ」

「へぁっ!?」

 その言葉はちゃんと聞き取れた。だけど、またしても理解できないでいる。馬場は学校のグラウンドくらい広いものだと感じていたのに、もう終わりだなんて早すぎやしないだろうか。いや、つばきの話に気を取られすぎていたのが問題かな。

 でも、わたしはまだこの子に乗っていたい。なんでなのかは自分でもよくわからないけど、この子がいいと強く思っていた。

「あ、あの……もし時間あればもう一周……」

「ブルルッ!」

「……え?」

 突然、わたしが乗っている馬が鼻を鳴らしたかと思うと、その子はいきなり駆け出した。

「へっ……ひゃぁぁぁぁぁ!」

 めっちゃ揺れる! 落ちる! 振り落とされそう!

 わたしは恐怖とパニックでどうにかなりそうだったけど、反射的に馬の長い首に自分の爪が剥がれそうなほど強くしがみついたことで難を逃れた。馬の首にわたしの爪あとが残ってないかが心配だ。

 それはともかく、なんでいきなり駆け出したりなんかしたんだろう。その答えは、すぐ目の前にあった。恐怖でしばらく顔を上げることができなかったけど、周りを見る余裕が生まれると、白い馬の脚が視界に入っていることに気づいた。わたしが乗っている馬は黒いのに。

「あなた、大丈夫?」

 凛とした、透き通った声。すっと胸の奥に響くような、芯のある声が耳に届いた。それがさっき見たすみれさんであることに気づくのに時間はかからなかった。

 まるで白馬の王子様のように見えた。いや、すみれさんは女の人だから白馬の王女様なんだけど。まるで雪景色のように真っ白な馬に、戦乙女のようなクールビューティな女の人。二次元の世界の人かと見間違うほど、その立ち姿はとても絵になった。

「あの、ほんとに大丈夫?」

「えっ、あっ、はい! 大丈夫ですっ!」

 すみれさんに再び問いかけられたのに、自分はまだ馬にしがみつくような体勢をしていたから、あわてて起き上がって背筋を伸ばした。

「それはよかった。でもなんでこの馬がいきなりあたしのところに……ん? この子、ムーンフラワー?」

 すみれさんがわたしの乗っている馬の名前であろう言葉を口にすると、すべてを察した様子で大きなため息をついた。どうしたんだろう。この子、暴れ馬かなんかなのかな。いやでも、そんな子を初心者のわたしに乗せるなんてバカげているし、それはないだろう。た、たぶん。

「……つばき。なんであたしがフラワーシャワーに乗っている時にムーンフラワーを出したの。こうなることはわかるじゃない」

「仕方ねーだろ。先生にそいつを出せって言われたんだから」

 いつの間にかそばに来ていたつばきが、すみれさんに口答えする。そんなつばきを、すみれさんは「年下のくせに偉そうに」とか思わないのかな。そんなわたしの疑問なんて二人に伝わっているわけもなく、二人の言い合いは続く。

「先生に言えばいいじゃない! 先生だってフーちゃんとムーちゃんの関係知ってるんだから!」

「んなこと言えるか! だいたい、他の馬はもう一回運動終わってんだから疲れさせるわけにいかないだろ!」

「だからって初心者の子を危険な目にあわせる方がおかしいわよ!」

「危険かどうかなんてムーンフラワーが駆け出すまでわかんねぇよ!」

 言い合いが続いているというか、だんだんヒートアップしていた。これは止めた方がいいよね。でもわたしは二人の顔を交互に見るだけで、どんな言葉をかけたらいいかわからなかった。

 じーっと二人のにらみ合いが続いている間に、二人の言葉を頭の中で整理する。わたしが乗っている馬はムーンフラワーで、その子が暴れたのはすみれさんが乗っているフラワーシャワーのせいらしい。その理由は……まだわたしにはわからない。だけど、わたしをムーンフラワーに乗せたのは一応理由があるようだ。

「え、えっと、あの、ちょっといいですか?」

 わたしがおずおずと口を開くと、二人のするどい視線がこちらに向かった。こ、こわっ! 般若のお面みたい。もしくは鬼? どっちにしろこわいけど。

「あの、この子……ムーンフラワー? が駆け出した理由ってなんなんですか?」

「そんなの簡単よ。あたしが乗ってるこのフラワーシャワーに好意があるから」

「えっ」

「まあ、ムーンフラワーがフラワーシャワーを姉のように慕ってるってことよ。自分たちのことを姉妹だと勘違いしてるんじゃないかしら」

 そういうことだったんだ。というか、二人とも女の子だったんだ。たしかに乗る前にチラッと見た限り、ムーンフラワーにアレはついてなさそうだったけど……って、なに考えてるのわたし!

「そういうことだ。まあ、悪かったよ。お前を危険な目にあわせて」

「えっ、いや、べつにいいけど……」

「じゃあ、そろそろ降りてくれ。そいつを手入れしなきゃいけないから」

 やっぱりそうなっちゃうか。わたしとしてはもう少し乗っていたかったんだけどな。でも、ムーンフラワーを疲れさせるわけにもいかないし。わたしはそう考えて、しぶしぶ降りた。降りる時にはつばきになにも言われなかったけど、乗る時と逆のことをすればいいんだろうなと思いながら降りたのだった。わたしの考えは合っていたようで、つばきはなにも言わずにそのまま馬を引いて洗い場の方に去っていく。

 わたしがその姿を見送っていると、だれかにツンツンと背中を押された。

「うわっ! え、フラワーシャワー? だっけ? って、ちょっと、くすぐったいって」

 わたしがからだごと振り返って確かめると、視界が真っ白になる。目の部分だけが黒くて、すぐにフラワーシャワーだとわかった。すみれさんが動かしているわけではないらしく、フラワーシャワーの上で困惑しているような表情を見せる。

 わたしがなにをされているのかと言うと、フラワーシャワーは器用に鼻先だけを左右に動かして服の上からくすぐっているという状態になっている。実際にくすぐろうとしているのかはわからないけど、くすぐったいのは事実だった。

「……っ、や、やめなさい、フラワーシャワー。困ってるじゃない」

 すみれさんは紐を引っ張って、わたしから引きはがした。その紐のことも調べて、ちゃんとした名前があった気がするけど、なんだったかな。そういえば、ポケットにスマホをしまってたはず。スマホを取り出して『馬 紐』と検索すると、馬の顔につける道具の名前が丁寧に事細かにたくさん書かれている画像を見つけた。顔につける道具は一つだと思っていたけど、どうやらその一つの中にもたくさんの名前があるらしい。人間でいうと全体はからだ一つだけど、手とか足とか部位によって名前がついているから、それほど不思議ではなかった。すみれさんが引いていた部分は、手綱という名前らしい。

 わたしがそれを調べ終わる頃には、すみれさんはフラワーシャワーから降りていて、バツが悪そうに頭をかいていた。わたしになにか言いたいようで、口を開いては口を閉じるという行為を何回か繰り返している。よほど言いにくいというか、勇気がいることらしかった。

「えっと、その……そうだ。名前、聞いてなかったわね。あたしはすみれよ」

「あ、わたしはさくらって言います。その……わたし、べつにそこまで困ってなかったんですけど……」

「そ、そう? で、でも、あのままされ続けるわけにもいかないでしょう?」

「あー……それはたしかに。ありがとうございました」

 わたしが素直に頭を下げると、すみれさんはポカンと目を丸くしたあとにふっとやわらかく優しげに笑った。

「ようこそ、花園乗馬クラブへ。歓迎するわ。と言っても、あたしが代表ってわけでもないけれど」

 すみれさんの輝かしい笑顔を見て、わたしはこの乗馬クラブに通おうと決めたのだった。そして同時に、すみれさんはわたしのあこがれの人になった。


 ☆ ☆ ☆


 それからわたしは、すみれさんに付いて回る生活が始まった。付いて回るのはもちろん乗馬クラブの中でだけだけど。

「あ、またすみれのひっつき虫がいるー」

「よく飽きないよね」

「すみれちゃん、嫌だったらちゃんと言うのよ?」

 小学校低学年くらいの子から、バリバリの厚化粧をしたおば様までみんな口々に言う。どうやらわたしは、花園乗馬クラブの中でちょっとした有名人になれたみたいだ。すみれさんと一緒にいられるのなら、周りからどう言われようとかまわない。わたしは、ただあこがれのすみれさんとできるだけ長く一緒にいたいだけなのだ。

「……いつものことだけど、どこまでついてくるの……」

「すみれさんのいるところになら、どこまででもついていくよ!」

「うーん、微妙に話が噛み合ってない気がするわ」

 わたしが敬語を使っていないのは、すみれさんにそうしていいと言われたからだった。なんでも、ここの乗馬クラブの子ども会員の中では年下や年上の区別はそこまで気にしなくていいらしいのだ。ちなみに、子ども会員の中ではすみれさんが一番年上らしい。たしかに、そういうオーラを感じる。リーダーとか似合いそう。

 そんなすみれさんは、ひっつき虫になったわたしを歓迎するでも拒否するでもなく、ただそこにいるものとして扱った。だからわたしも、付かず離れずの距離感を保つことができる。いやまあ、わたしはめちゃくちゃくっついているんだけど。すみれさんの方が程よい関係を維持してくれているというか、ついてきてほしくない時はちゃんとそう言ってくれる。だからわたしも、ついて行く時はとことんついて行くし、すみれさんがついてきてほしくない時はちゃんとついて行かないようにしている。これは程よい関係って言えるよね。

 わたしが徹底的にすみれさんのひっつき虫になっていると、急にすみれさんの足が止まった。なんだろうと首を傾げていると、すみれさんはゆっくりと振り返って尋ねる。

「さくら、あなたは……動物に好かれやすいの?」

「へ? なんで?」

 不意に冷たい風が厩舎の中を吹き抜ける。本格的に冬が始まろうとしているのがわかる。わたしはそれに身震いしながら、すみれさんの返事を待った。

「だ、だって、さくらが水やりする時に駆け寄って来ない子はいないし、どんなに気性が荒い子だってさくらが近づくとおとなしくなるし、好かれやすいんだとしか思えないわよ!」

「きゅ、急にまくし立てられた……」

 すみれさんによる言葉のマシンガンを受けつつ、「そう言われても」と思う。

「動物に好かれてるかどうかなんて、自分じゃわからないよ。すみれさんってわたしより年上だし乗馬クラブにも長くいるって聞いたから、なんでも知ってるもんだと思ってたけど……」

 すみれさんは中学二年生らしい。中学生なんて、小学生のわたしにしたらじゅうぶん大人だ。まあ、わたしは六年生だから、もう少ししたら中学生になれるんだけどね。二年くらいしか違わなくても、すみれさんは大人っぽく感じられる。つややかな長い黒髪と切れ長の目が、大人っぽく見せるのだろうか。それとも、中学生という事実がそうさせるのか。

 すみれさんを大人の女の人だと認識していたわたしだけど、目の前の本人はすごく不満そうな顔をしている。というより、「こいつはバカなのか?」と言わんばかりの顔になっている。

「あなたね……あたしのこと神様かなんかだと思ってるの? なんでも知ってるなんて、大人でも無理があるわよ」

「そうなんだね……」

「え、本気で言ってたのかしら。この子ほんとにいろんな意味で大丈夫なの?」

 なにやら失礼なことを言われている気がするけど、すみれさんに言われる言葉はなんでも嬉しい。わたしのあこがれの人だもん。

「はぁ……まあいいわ。そういう人って、実際にいるのね」

「そういう人?」

「動物に好かれやすい人よ」

「え、わたしって好かれやすいのかな?」

 わたしの問いかけに、すみれさんは答えてくれなかった。どうやらこれ以上、わたしと話してくれる気はないらしい。わたしは仕方なく、自分が動物に好かれやすい人なのかどうか、あとでスマホで調べてみようと思った。


 ☆ ☆ ☆


「ちょっとぉ! つばきあんたなにしてくれてんのよ!」

 イチョウの葉も全部地面に落ち、冬の到来を感じさせる頃。そろそろ上着ももふもふしたあたたかいものにしなきゃいけないかなと考えながらムーンフラワーをもふもふなでなでしていると、その考えを打ち消すほどの大音量の声が辺りに響いた。

 幸い、花園乗馬クラブの周りは工場が密集していて、その声はすぐ作業音にかき消されたけれど。というか、いまさらだけどなんでこんなところに乗馬クラブがあるんだろう。もっと自然豊かな場所には作れなかったのかな。いや、それか元々自然豊かな場所だったけど、あとから工場ができてきたとかも考えられる。

「あーっ、もう! つばきのアホ! バカ!」

 その声の主はおそらくすみれさんなのだろうが、言葉のチョイスがとてもすみれさんらしくなかった。なんというか、子どもっぽい。

「やってらんないわ」

 声がこちらに近づいてきている。怒っているみたいだけど、なにかあったのだろうか。

「すみれさん」

「わひゃぁっ!?」

「え、あ、ごめんなさい。驚かせるつもりじゃ……」

「馬房からいきなり声かけられたらびっくりなんてレベルじゃないわよ……馬が話しかけてきたのかと思った」

 厩舎が馬の家だとすると、馬房は馬の部屋。馬は一頭一頭、それぞれの部屋が与えられている。アパート暮らしで自分の部屋がないわたしにとっては、羨ましいことこの上ない。

 まあ、そんなことはいいとして、わたしはムーンフラワーのお部屋にお邪魔している。最初に乗った子だからか、なんか他の子より愛着わいちゃったんだよね。真っ黒な馬体も綺麗だし、フラワーシャワーにぞっこんなのも可愛いし。

「ゴホン、今の悲鳴は忘れなさい。あれはあたしの悲鳴じゃないわ」

「え、でも、目の前にはすみれさんしかいないし……」

「そんなことはいいのよ! ところで、なんで話しかけてきたの?」

 必死に取り繕っているのがわかるけど、あえてそこには触れないでおく。触れたら怒りそうだし。

「なんでって……それはつばきと話しているのが聞こえたから気になって」

「えっ、まじ?」

「まじ」

 次の瞬間、すみれさんが膝から崩れ落ちた。そこまで勢いがなかったから、多分ケガはしてないと思う。手もついてるし大丈夫そうだ。

「あぁぁぁぁ……聞かれてたのね。くっそ恥ずかしいわ」

「すみれさんって意外とそういう言葉遣いもするんだね」

「もうこの際さくらに言ってやろうかしら」

「へ? わたし?」

 すみれさんの口からわたしの名前が出ておどろいた。すぐに立ち上がってわたしの方に距離をつめてきたこともびっくりしたけど。

 いったいなにを言われるのだろう。罵詈雑言でも浴びせられるのだろうか。それはちょっと遠慮したい。

「さくら、つばきからあたしのことなんか聞いた?」

「え? どういうことを? いろいろ聞いてるけど」

「あー、そうよね。もうハッキリ言うわ。あたしが馬とイチャイチャしてるってこと言ってた?」

 そのことが聞きたかったのか。それなら簡単だ。

「うん、実際フーちゃんとイチャイチャしてるとこも見たよ。いつものすみれさんじゃないみたいで可愛かった!」

 フーちゃんはフラワーシャワーのこと。ちなみにムーンフラワーのことはムーちゃんと呼んでいる。すみれさんもこの子たちのことをそう呼んでたし。

 わたしがすみれさんの問いかけに肯定したからなのか、あるいは可愛いと言ったからなのか、すみれさんは赤面しながら頭をかかえている。そういうところも可愛いけど、言わない方がいいだろうか。

「もう無理。いっそ死にたい。いや、穴掘って地面に埋まりたいわ。できれば奥深くまで」

「すみれさんも穴掘りするんですね」

「そういう意味じゃないわよ!」

 どういう意味なのかはともかく、すみれさんも馬と親睦を深めていたんだ。あこがれの人と同じことをしていたなんて、だれかに自慢したいくらい嬉しい。

「もうどうにでもなればいいわ。イチャイチャしても、さくらにはどうせ敵わないし」

「え?」

 敵わない? どういう意味なんだろう。わたしの方がすみれさんに敵わないことたくさんあるのに。聞き間違えたのかな。でも、たしかに敵わないと聞こえた気がするんだけど。

 わたしが首を傾げていることに気づいたのか、すみれさんは大きなため息をつく。すみれさんはため息をついてばかりだ。ため息をつくと幸せが逃げるんじゃなくて、不幸せだからため息をついちゃうということもあるのかもしれない。そうすると、すみれさんは不幸せってことになるけど。

 すみれさんは「今は話せない」と言って、場所を指定するからあとでつばきと来てということだった。


 ☆ ☆ ☆


 花園乗馬クラブは、工場が密集しているところに存在する。さすがに密集地帯から少し離れてはいるものの、トラックが出入りする音とか金属が擦れ合う音がして集中できないこともよくある。

 しかし、その中にも自然はあるもので、ボロ(馬のフン)を捨てる場所のすぐ近くに森に入れる入口みたいなものがある。その入口はせまくて見つけづらいせいか、だれかが入っていくところを見たことがない。だから、すみれさんはこの場所を選んだのかな。

「はぁ……なんでぼくまで連れてこられなきゃならないんだ……」

「ご、ごめん。すみれさんがつばきも一緒にって言ってたから」

「あー! さくらちゃんたちどこ行くの? わたしも連れてってよー」

「うわ、しつけーやつが来た」

 その子は、わたしがこの乗馬クラブに来た時にいろいろと案内してくれた子だった。いつも一緒にいる男の子は、今日休んでいるらしい。

「もー、つばきくんっていっつもそうやって突っぱねてくるよね~。嫌になっちゃう」

「嫌なら来なきゃいいだろ」

「えー、ケチー。面白そうなことしようとしてるんでしょ? 先生の目をぬすむくらいなんだから~」

「あ、そ、それは……」

 その子の言う通り、わたしとつばきは先生にバレないように移動していた。先生は厳しいから、バレたらどうなるか想像もしたくなかったんだよね。

「いいじゃんいいじゃん。なに? もしかしてデートだったり?」

「そんなわけないよ。すみれさんに呼び出され」

「ヒヒーンッ!」

 遠くに、茶色の暴れ馬が見えた。どうやら洗い場に括り付けられた紐を引きちぎって脱走しているらしい。遠くだからよく見えないけど、子どもも大人も慌てふためいているみたいだった。

 そしてどうやら、その馬はこっちに向かってきているみたいだった。つばきたちはとっさに道の端っこの方に寄っていくけど、わたしは動かずにいた。なぜかそうしないといけないような気がしたから。

「おい、さくら! あぶないぞ!」

 そりゃあ、全速力の馬は車みたいなものだ。突撃されたら無事じゃ済まないことはわたしでもわかる。つばきは馬場の柵をくぐって中に入ったようで、わたしに向かって必死で手を伸ばしてくれている。だけど、わたしは……

 ザッザッザッ! 馬が土を蹴る音がだんだん大きくなってくる。このままでは、わたしは馬に轢かれてしまうだろう。そうやって自分のことを考えられるほど、やけに冷静だった。わたしは腕と足を大きく広げ、自分のからだで大の字をつくった。腕を上にあげすぎると、馬が叩かれると思ってよけいに興奮してしまうから、できるだけ横にだけ広げるようにして。そして、馬に向かってふっとほほえんだ。

「……うそ、だろ……」

 正直、自分でも驚いている。つばきがその言葉を発するのも無理はない。

「止まってくれたんだ……ハナアラシ」

「ブルルッ」

 お前のために止まってやったんだぞとでも言いたげに、暴れ馬……ハナアラシは鼻を鳴らす。わたしはハナアラシに近寄って首のところをぽんぽんとたたく。これには、「お疲れ様」とか「ありがとう」という意味が込められている。すみれさんやつばきも、馬から降りる時にはいつもやっていることだ。

「え、ちょ、ふへへ。くすぐったいよぉ」

 フラワーシャワーにはじめて会った時にされたようなことを、ハナアラシにもされている。もぞもぞと鼻先を器用に動かして、わたしのことをくすぐる。甘えのサインなのかもしれないなと思いながら、ハナアラシの頭をなでた。

「すごい! さくらちゃんすごいね! 魔法使いみたい!」

「さくらちゃん、どうやって止められたの? おれもさくらちゃんみたいにやってみたい!」

「さくらさん、ケガはないか? どうしてあんな無茶を……」

「さくらさん、すごく助かったわ。でも、あぶなかったからヒヤヒヤしたわ」

 わたしと同い年か年下くらいの子たちも、わたしの親と同い年くらいの人たちも洗い場からここまで追いついたみたいで、わたしはあっという間にみんなに囲まれた。普段こんなに囲まれることはないから、どうしたらいいかわからない。

「……さくら」

「ひゃわっ!」

 その声は、わたしが一番おそれている人。鬼のようにこわい人の声が聞こえてきた。

「あばばば……お、お許しくださいぃ。なぜかこうしなきゃいけない気持ちになっ」

「助かった。ありがとう」

「……へぁ?」

 その人……先生はわたしの頭をくしゃぁとなでて去っていく。よくわからない人だ。あれ、っていうか、褒められた? 褒められたよね?

 あわあわと困惑することしかできないわたしの代わりに、つばきがハナアラシを厩舎に連れていってくれた。スキップしながら歩くハナアラシは、まったく悪びれた様子がなさそうに見える。ハナアラシはちょっと気性荒いからね。

「……そういえば、すみれさんとの約束ドタキャンしたことになっちゃったな……」

 ガヤガヤと騒がしい中で、わたしはそのことだけを考えていた。


 みんなに解放されて落ち着いたあと、わたしはすぐにすみれさんの元に向かった。すみれさんは、森の緑の中で大きな岩に腰かけて寂しそうにしている。

「すみれさん、ごめんなさい! わたし、すみれさんとの約束すっぽかしちゃって……」

「いいのよ。聞こえていたわ。ハナアラシの暴走を止めてたんでしょ? いいことしてたのね」

「あ、あの、すみれさん……」

 どうしよう。約束をやぶったからか、すみれさんがいつになくつめたい気がする。ちょっとしたハプニングがあったとはいえ、約束をやぶるのはよくなかったようだ。

 すみれさんに素っ気なくされていることで、わたしの胸が苦しくて息もできないくらいだった。嫌われてしまったかもしれないという思いが、よけいに心臓を苦しめる。あこがれの人に嫌われるなんて、起きてほしくない出来事だ。でも、現実に起こってしまった。

 自分の吐く息が白いほど、気温が低かった。それもあってか、わたしの手足はしびれて思うように動かせない。いつものようにすみれさんに近づきたいのに、どうしてわたしのからだは言うことを聞かないのだろうか。

「あたし……あたしだって、馬に好かれたいのに……っ!」

「……へ?」

 すみれさんもなにかに悩んでいたのか、わたしに背を向けながらつぶやいた。つぶやいたというより、吐き出した。すみれさんが自分の奥底の思いを口にするのは、もしかしたらはじめてかもしれない。前にも言ってたかもしれないから、はじめてでもないかもしれないけど。わたしが覚えている限りでは、はじめてのことだった。

「どうしてあなたなの。どうしてあたしじゃないの。ムーちゃんもフーちゃんもハナちゃんも! なんであなたになつくのよ! なんであたしじゃダメなのよ!」

 すみれさんが、あの物静かでクールビューティなすみれさんが、涙を流しながら大声で叫んでいる。顔をぐちゃぐちゃにして、声が枯れそうなくらい泣き叫んでいる。

 わたしたちの周りには、当然だれもいない。言うなら、伝えるなら、今しかないと思った。

「……すみれさん。わたし、すみれさんにあこがれています」

「は? 急に改まってなに? 知ってたけど?」

「えへへ、だよね。最初は見た目が綺麗で障害馬術をすごく上手にこなすところにあこがれた。わたしもこんな風になりたいって」

 ポカンと口を開けるすみれさんをそのままに、わたしは続ける。

「でもね、それだけじゃないの。すみれさんの落ち着いたところも、乗馬に真剣なところも、つばきと言い争ってるところも」

「ちょっと待って、最後のってなんかちが」

「全部、大好きなの。全部キラキラして見える。すみれさんがわたしのあこがれだってことは、ずっと変わらない」

 なんだか自分でもなにを言っているかわからなくなってきたけど、もう勢いのまま全部言っちゃおう。もうすみれさんにそんな顔をさせたくないから。

「すみれさんは、わたしの光。だから、わたしがすみれさんの影になる! ずっと輝いていてほしいから! すみれさんがなにか悩んでいるなら、それを全部わたしが引き受けるよ! わたしがすみれさんの足りない部分を持っているっていうのなら、全部あげる。だから、もう泣かないで?」

 わたしの声は、言葉は、すみれさんに届いているだろうか。わたしはバカだから、そう言うべきだったのかわからない。でも、すみれさんに泣いてほしくないという思いは、どうしても伝えたかった。

「わたしが、すみれさんの影に……黒に……ダークホースになるよ。それなら、すみれさんの肩の荷が少しは下りるかな?」

 わたしがそう言ったあと、辺りはシンと静まり返った。本来の森の静寂につつまれる。

 わたしはなにを言っていたんだろう。自分でもわからない。しかもダークホースってそういう意味だったっけ。ダークホースってなんだっけ。自分の言葉にぐるぐると目を回していると、「ふふっ」と小さな笑い声が耳に入った。わたしは笑っていない。それじゃあ、この笑い声は……すみれさん?

「ふふっ、あははっ。あなたなにを言っているの? 意味がわからなさすぎて笑えてきちゃったわ」

 すみれさんが声を出して笑っている。涙も引いたみたい。よかった。わたし、すみれさんを笑わせることができたんだ。

 わたしが一人で舞い上がっていると、すみれさんは立ち上がってわたしの手を取った。白くて細長い指だなぁ。思わず見とれてしまった。

「あたしの影になるって言ったけど、ほんとにいいの? あたしの悩み、重いわよ?」

「かまわないよ! どんなに重くても、みこしのように担いじゃうんだから!」

「ふふっ、なんだかよくわからないけど……頼もしく思えるわ」

 すみれさんは「悩んでいるのがバカらしくなってくるわね」と笑い飛ばした。悩みなんて、笑い飛ばすくらいがちょうどいいんだよ。わたし、悩んでも寝たら忘れちゃうし。

「まあ、悩みを肩代わりさせるなんてことはできないから……あたしの影……ダークホース……親友? うん、親友がいいわ。親友として悩み相談くらいは乗ってもらおうかしら」

「うん、いいよ……って、親友!? そんな恐れ多いよ!」

「恐れ多いって……じゃあこういうのはどう? あたし友だちいないのよ。さくらがあたしのはじめての友だちっていうのは?」

「すみれさんの……はじめての友だち……」

 わたしの答えは、もう決まっている。

「うん! はじめての友だち! えへへ、すごくいい響き」

「親友は恐れ多くて友だちはオッケーなの、よくわからないわ……」

 わたしのことをよくわからない子と分類しつつも、ずっと手を握ってくれている。そのことがとても嬉しくて、その場でスキップしたくなった。しないけどね。

「おい、お前らここにいたのか。ハナアラシがまた機嫌悪くなってる。ちょっと手伝え」

 突然声をかけてきたつばきは森への入口のところで立っていて、洗い場の方を指さしている。ちぇ、いいとこだったのに。

 わたしはすみれさんと一緒に、つばきのところへ向かった。お互い、満開の笑顔を浮かべながら。


 ☆ ☆ ☆


「……あんた、最近楽しそうね」

「うん、乗馬楽しいよ。お母さんに誘ってもらえてよかった」

 家の中でお母さんと料理しながら、親子の仲を深めていく。まあようするに、会話を楽しんでいるのだ。

「ほほーう? アタクシに感謝してくれてもいいのよん?」

「あ、お母さん、わたしにんじん切るね」

「話を聞けよ」

 わたしは多分、お母さんの方の性格が引き継がれちゃったんだろうな。お母さんを見ていると、なんだか自分と似ているところがたくさんあるなと感じるから。なんだか鏡を見ているような気分だった。

「それにしても……ふむふむ、姿勢もだんだんよくなってきてるし……こりゃええのう」

 そういえば、お母さんはわたしの猫背を治そうとして乗馬クラブに入れたんだっけ。この人の思考回路はほんとに謎だ。

 日々すみれさんやつばきにきたえられている成果が出ているのかな。毎日、わたしのトレーニングはその二人が見てくれているし。先生にわたしのことを見るように言われているんだろうけど。二人に猫背のこと話したら、馬に乗っている時はわたしが姿勢を丸めることに厳しくなった。二人はクール系だけど、熱いところもあるんだよね。

「ほんとによかったよ。私の判断が正しかったことが証明されるわね」

「いや、そこなの?」

 お母さんの言っていることにツッコミながら、これからもすみれさんのいる花園乗馬クラブで頑張っていきたいと願ったのだった。

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