第40話・小さな引っ越し

 胃のむかつきと眩暈が酷くて、有希は昼間からベッドで横になっていた。すると、いつの間にか猫達も二階の部屋に集まってくる。猫達はどこで誰が昼寝しているかの情報をどうやって嗅ぎつけてくるのか、気付けば枕の半分を占拠されていたり、掛布団の上に圧し掛かられていたりする。自分達が気付いていないだけで、猫達は人間の行動を逐一見張っているのかもしれないとさえ思えるくらいだ。


「クロ、お腹には乗っちゃダメ」


 どすんと布団の上に倒れ込んだクロを避けるようにベッドの端に身を寄せる。まだ大きさの目立たないお腹だが、押し潰されては堪らない。きっと猫が一匹乗っかったくらいで潰れたりするほど妊婦のお腹は軟弱ではないと思うが、何となく庇いたくなるのは芽生え始めている母性だろうか。


 動ける時に動き、食べられる時に食べるを繰り返し、ツワリのピークを乗り越えて、何とか5か月の安定期に入った頃、母の予言通りに体調は霧が晴れるようにすーっとマシになっていった。と同時に、お腹も少しずつ丸くなり始めてきた。元々が細身の有希だから着衣していると分からないが、毎晩お風呂の鏡でお腹周りの成長を確かめるのが楽しみになっていた。


 胃が楽になったおかげで何でも美味しく食べられるようになり、油断するとつい食べすぎてしまいそうになるくらいだった。痩せ型の有希でも出産までに増えていいのは10キロまでと助産師から言われているので、要注意だ。

 由依が菜月を妊娠している時に、水を飲んでも太るのよ、と嘆いていたことを思い出す。自覚がないのに意外と増えている体重に、健診がある度にヒヤヒヤする。


「来週辺りに、雅人のマンションへ引っ越そうと思うんだけど」

「身体はもう平気なの?」

「うん、ツワリもほとんど無くなったし、大丈夫」


 夕食の生姜焼きを残さず食べ切った後、グラスに入った麦茶を一気に飲み干すと、有希は母に告げる。産後までそのまま家に居たい気持ちもあるが、一応は近所の目もあるし、ちゃんとケジメもつけておきたい。でないといつまで経っても自立できない気がした。


「どうせ今着れる服は限られてるし、ちゃんとした引っ越しは産後になるかな」

「そうね、すぐに戻ってくるんだから、今必要な物だけ持っていけばいいわ」


 1DKの雅人のマンションに持っていけそうな家具類もなく、これからどんどん大きくなるお腹では着れる服が限定される。由依が妹の為にと搔き集めて来たベビーグッズ類も、里帰りを終えてから持って行くつもりだった。

 だから引っ越しと言っても、業者を頼むほどではなく雅人の車で事足りるだろう。


 段ボール箱3箱にまとめられた有希の荷物は、雅人の車のトランクに乗せられて広瀬の家から運び出された。当面に着られそうな洋服類と共に、一人暮らしの雅人の部屋にはあまり無かった調理具や食器類などが無理矢理に詰め込まれていた。

 段ボール箱と一緒に積み込まれた紙袋の中身は、母の家庭菜園で採れた野菜がたっぷりと入っていて、しばらくは食材に困る事はない。

 梅雨明けはまだらしいが、よく晴れた穏やかな昼過ぎだった。


 たまたま顔を見せた由依は、「妹の嫁入りなのに、そんな猫の子をあげるみたいな少ない荷物で――」と納得いかない顔をしていた。由依の時は父もまだ健在で、結納から婚礼家具まできっちりと準備万端な嫁入りだったから尚更だ。自分の時とは比べ物にならない質素な嫁入りに、妹のことが不憫に思えてしまう。


 確かに、これを引っ越しと呼んで良いのか分からないくらいで、まさか誰も今から有希が嫁入りするとは思わないだろう。引っ越しというより、単なる荷物の運搬でしかない。


「お父さんが生きてたら、絶対に許されないわ」

「すみません。すぐに広い部屋を探して引っ越すつもりなので……」


 普通は部屋を見つけてから迎えに来るべきでしょう、と由依は雅人へと食ってかかる勢いだった。姉と雅人はたまたま同じ学年だったが、義姉と義弟という関係からか初対面から完全に上下がはっきりしていた。申し訳なさげに恐縮する雅人の腕を引っ張って、有希は車へと乗り込む。


「じゃあ、来週の健診の後、また顔出しに来るから」

「無理しちゃダメよ」


 ドアを閉め掛け、有希ははっと思い出したように手に持っていたバッグを探った。中から取り出した物を母に差し出すと、貴美子は「ああ」と頷いてから大事そうに受け取る。


「それは返すね。お母さんが持ってて」


 有希が母に渡したのは、一通の封筒と、折り畳まれた一枚のチラシ。封筒の方は、一度目のガンマナイフ治療後に木下医師が書いてくれた信一の診断書。そして、以前に父が自分の病状を訴えた、見知らぬ医師への手紙が下書きされたチラシだ。どちらもずっと捨てられずにいた。

 引っ越しの準備をしていて見つけ、これは母に返しておくのが正解だと思ったのだ。


 片手を振って、ようやく有希は助手席のドアを閉める。雅人は運転席側の窓を開けて、見送りの母と由依に律儀に何度も頭を下げていた。


「なんか、ごめんね。お姉ちゃんまで来るとは思わなかった」

「別にいいよ。相変わらず、有希のお姉ちゃんは怖いわ。俺、同い年なのに……」


 それより、とトランクルームを振り返ってから首を傾げる。


「荷物は本当にあれだけ?」

「うん。私の物は2箱だけ。あとはお母さんが家にあった余ってる食器とかを詰め込んでくれてた」


 引き出物などで貰って使わずに放置していた食器や調理具を押し入れから引っ張り出してきてくれた。中には「お姉ちゃんには内緒よ」と口止めされるくらいの掘り出し物もあったりして、田舎の贈答品は決してあなどれない。


「ジバンシーのお皿セットとか、バーバリーのフェザーケットとかが入ってる。あと、何たら焼きのグラタン皿とかも」

「え、それが余り物?」


 グラタンかぁ、いいねと嬉しそうな雅人の笑顔に、有希は今日のご飯はポテトグラタンにしようと決めた。母からの紙袋の中にはジャガイモが沢山入っていたはずだ。

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