第27話・最後の時

 自宅から車を走らせていると、背後から救急車両のサイレンが聞こえてきた。ハザードランプを点滅させて路肩に車を停止し、有希は救急車が追い越していくのを見守る。

 自分がこれから向かおうとしている方角へ走り去る救急車。父が入院する総合病院へ患者を搬送していくのだろうか。同じような光景をこの一年で何度も見た気がする。


 病院に着くと、先程見かけた車両が救急用の入口前に停車されているところだった。慌ただしく駆けまわっている病院関係者に邪魔にならないよう気を付けながら、慣れた足取りで入院病棟へと向かう。


 有希が病室へ入ると、父は3度目の大きな痙攣を起こしていた。過去2回の発作と同じように意識不明の状態となり、そのまま父が目覚めることは二度となかった。

 大きな痙攣は薬によって抑えられていたが、信一はずっと眠っているような状態だった。薬でも抑えきれないくらいの小さな痙攣が右半身にずっと続いていた。父の右手はピクピクと震え続け、治まることがない。


「痙攣を完全に止めようと思ったら、薬で呼吸まで止まってしまいます」


 様々な薬を投与し続けているせいで、これ以上の投薬は命そのものを止めることになると木下医師は家族へ説明する。なので小さな痙攣は様子を見ているだけで放っておくしかないという。

 酸素量も半分に減っているということで酸素給入され、熱冷ましには氷まくらをしてもらっていた。反対に、同時に数種類を吊り下げていた点滴は生理食塩水のパックだけになった。栄養や痛み止めではなく、父の身体が干乾びない為の最低限の点滴だ。


「一旦帰るけど、何かあったらすぐ連絡して」


 そう言って母が帰宅した後、有希は病室のソファーでいつもと同じようにパズル雑誌を広げていた。父の様子がどうであれ、付き添いの有希がすることは変わらない。と言うか、完全看護の病院で家族がすることなんて何もない。


 見開き1ページで展開されているナンプレに集中している時、有希はベッドからする父の呼吸の音がおかしいことに気付く。そして、慌ててナースコールを押した。カラカラというか、コロコロというか、そんな感じの異音が父の口から聞こえていたのだ。


「タンが絡まってるからかなぁ」


 駆け付けた看護師がそう言って吸引によって喉や気管のタンを除いていった。喉や鼻から管を通して吸引されると、父はとても苦しそうに呻いていた。


 何度も呼吸音がおかしくなるとナースコールを押し、その度に吸引してもらう。それを幾度となく繰り返していた。あまりにも頻繁に音が変わる割に、タンの量が少なかったので、もしやと思った看護師が口の中を確認すると、父の舌は喉の方へ落ち、気管を塞いでいる状態になっていた。

 父の口の中を見た看護師は付き添っていた有希には何も言わず、小走りで医師を呼びに病室を出て行った。


 小さな痙攣が4時間も続いていたが、駆け付けた主治医によって痙攣止めが注射されると、小刻みに続いていた父の震えはすーっと止まり、普通に眠っているような状態に落ち着いた。


「このコロコロという呼吸になると、周りからは苦しそうに見えるんだけど、患者さん自身は全く苦しくないんだそうですよ」


木下医師は痙攣止めを打った後に、有希達に向かってそう説明した。母は夕ご飯を食べてお風呂に入ってからすぐに病院へ戻って来ていた。意識不明の夫を放って家でのんびりできる訳がなかった。


「あとは広瀬さんの心臓がどれだけ持つか、です」


 医師の説明から察するに、つまりは舌が落ちた時点でダメだったみたいだ。口の中を確認した直後に看護師が担当医を呼びに走ったことが物語っている。後から思えば、これらの説明は、つまり脳死状態であると言われたのと同じだったのだ。信一の身体はまだ生命活動を維持してはいるが、彼の意識は既にこの世から離れてしまったということ。


 大学で受けた心理学の授業で、『脳死は死か、否か』というテーマでレポートを書かされたことをぼんやりと思い出す。あの時は、人としての意識や人格が無くなっているから脳死は死であると思うと書き綴った記憶があるが、実際に直面した今だったら違うことを書いたはずだ。

 本人にとっては死かもしれないが、家族にとってはその身体が体温を保って活動し続けているのなら、まだ生きているのだ、と。目の前で横たわっている父は、まだ生きているとしか思えない。


 母は姉に連絡をしに、静かに病室を出て行った。


 呼吸がコロコロに変わってからは、父は吸引をされてももう苦しむことはなかった。父にはもう痛みの感覚すら無くなってしまったようだった。気付いた時には点滴も酸素給入器も全て外されていた。あとはもう父の生命力次第だった。


 子供達を夜中に連れ出せないからと、由依がその晩に病室へ顔を出すことは無く、翌昼前に娘達を引き連れて様子を見にやって来た。売店で買って貰ったオニギリや菓子パンを病室のソファーで姪達と並んで食べていると、巡回に訪れた看護師から「賑やかでいいわねぇ」と微笑まれてしまった。子供達がいると、悲壮感なんてものは消し飛んでしまう。目の前では父の命が尽きようとしているのに不思議なものだ。


 信一が瀕死状態にも関わらず、特に面会謝絶という訳ではなかった。たまたまその日に見舞いに来た親戚は、目を覚ます気配のない父に慌てたのだろう、少しだけ貴美子と会話を交わしただけでバツが悪そうな顔で病室をそそくさと出て行った。

 そしてその後すぐ、先の親戚から話を聞いたという近所の人達が次々に見舞い金を片手に病室を訪れた。入院している者がいると聞いてしまえば、見舞いに行かないのは不義理だというのは、田舎に根強く残る悪習だ。


「あー、こりゃアカンわ。瞳孔が完全に開いとる」

「そうか、もうアカンか?」


 見舞い客というよりも野次馬と呼んで良いかもしれない。日が落ち始めた頃、有希には名前までは分からないが、何となく見かけたことがある近所の老人二人が病室に入って来て、信一の閉じた瞼を指で無理矢理こじ開けて覗き込んだ。


 いきなり目の前で取られた行動に、ソファーで姪っ子達に絵本を読み聞かせていた有希は言葉が出ない。茫然と二人の様子を見ていると、


「これ、お母さんに渡しといて」


 と、お見舞と書かれた封筒を有希の手に強引に押し付け、「ああなったら、もうアカンわ。すぐや」と半笑いで話しながら病室を立ち去っていく。そのあまりの勢いに、有希は怒りすら湧かず、目をぱちくりさせて二人の後ろ姿を見送るのが精一杯だった。


 ――え、今の、何?!


 夜になると、父の身体は小さな痙攣を右の足と手に交互に起こしていた。

 途中、何度も呼吸を止めてしまうことがあり、その度に有希達は「お父さん、息しなアカンっ!」と父の身体を揺すった。たとえ父の意思が消えて父では無くなっていても、それでもまだ息をして少しでも長く生き続けていて欲しかった。

 母はベッドの傍に丸椅子を置いて、震えの止まらない父の右手をずっと撫でていた。


 たまに目蓋にも痙攣が起こることがあり、一時的に目を開いていることもあった。尿が全く出ない代わりに、全身から汗として水分を発散していたので、何度も着替えをさせてもらっていた。熱は38度をずっと超えて下がることは無かった。


 亡くなる少し前に、父の呼吸は眠っている時のような穏やかなものに変わったことは、家族にとって良かったかもしれない。苦しみながら息を引き取っていく姿は見たくはない。血圧は2時間前から低下状態が続いていた。


 呼吸が口だけでなくて、口を開いたり閉じたりという口元全体を使った呼吸に変わっていき、最後はその開いたり閉じたりの間隔が少しずつ、少しずつゆっくりゆっくりになっていった。あまりにもそのリズムが穏やかだったので、ゆっくりと有希達家族の前から父の魂が消えていったという感じだった。静かに最後の一呼吸を終えると、広瀬信一の身体からは震えすら無くなった。父が亡くなった瞬間だった。

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