黒川 恭也
十一月の弱々しい太陽の光を浴びながら愛美は松下昴を乗せた車を隣県へ走らせていた。もちろん彼は助手席ではなくトランクの中だったし、談笑しながらのドライブではなく松下はもう永遠に話すことはできない状態で乗っている。
遺体を運んでいる車中で愛美は物思いに耽ることが癖になっていた。
交差点に差し掛かり、ウインカーを出して右折する。曲がった先は街路樹の緑が両脇に続く道だった。その緑を視界に入れながら思索した。
——私は最近、いわゆる性善説と性悪説について考えることがある。
それらは言葉の通り、人間は本来「善き者」であるという説と、「悪しき者」であるという説である。
初めのうちは私も、人間は果たしてどちらなのだろうかと一方に正解を求めて考えたりしたものだったが、繰り返し考えるうちにこう思うようになった。
私は神を絶対的に信じている訳ではないが、仮に生物をこの世に造り出した存在がいたとする。
それが人間を造ろうとした時、他の生物よりも知恵があり、他者を思いやる能力に長け、向上心のある生物にしようとした。しかし完璧な個体にすることはできず、中途半端にこれらの能力を身に着けた。ここを切り取って見ると「性善説」になる。
しかし人間も動物である為、利己的な感覚や他者を貶めようとする部分も残ってしまった。ここを切り取ると「性悪説」になると思われる。
要するに、人間とはより優れた動物を造ろうとして造りきれなかった中途半端な生物——これが私の出した結論だった。
では、私はどうだろう。
特に見返りがある訳でもないのに無実の男性達を殺害し続けている。もちろん性善説などに当てはまるはずもないし、目的も無い殺生をしているところを見ると動物よりもひどいと思えてしまう。
悪魔——そんな言葉が頭をよぎった。私は人間でも動物でもなく、厄災の象徴のような個体なのだろうか。どうしてこんな人間になってしまったのだろうか。もう、後戻りはできないのだろうか——。
そこで愛美は車を止めた。考え事をしているうちに目的地に着いていた。まだ自分に対する疑惑が頭から離れない。思考を整理しようとするが上手くいかなかった。何かを吐き出すかのように小さく溜息をついた彼女はきつく目を瞑り、ハンドルを握りしめたまましばらく動かなかった。
黒川恭也は短すぎない短髪を茶色く染めて、革素材の黒い上着を着てジーンズを履いていた。
お決まりの台詞で愛美が声を掛けた時、黒川は特別狼狽えることもなく「ああ、いいよ」と言って一緒に飲むことを承諾してきた。
隣に座った愛美がチェリーベースのカクテルを注文すると、黒川は愛美を観察するように口を開いた。
「さっき彼氏に食事をキャンセルされたって言ってたけど、その男のことはもういいのか?」
「ええ、食事だけじゃなくて、お付き合いも終わりにしたいと言われてしまったんです」
用意していた言葉を口にした。大抵の男は愛美のような美女が手ひどく振られたといえば同情と自尊心を感じるものだ。しかし黒川は頷くと、愛美の目を真っ直ぐに見た。
「何か思い当たることはあったのか?」
その質問に愛美は一瞬動揺した。しかしすぐに頭を回転させた。
「彼とは休みがなかなか合わなくて、最近はすれ違うことが多かったんです。だからもう駄目かなって感じはしてました」
「向こうは何の仕事を?」
「美容師です。だから休み自体も少ないし、土日休みなんて滅多に無いですから。どうしてもすれ違いがちになっていきました」
職種というものにあまり詳しくない愛美は、土日休みでない代表とも言える仕事を挙げた。そして黒川は愛美の仕事も尋ねてきたので製薬会社の事務職ですとありのままを答えた。
「歳はいくつ?」
自分の飲んでいたウォッカを空にしてしまうと、黒川はカウンターの奥に居たバーテンダーに追加の酒を注文した。
「二十五歳です。黒川さんは?」
「俺は二十八だよ」
そして彼はデザイン事務所でインテリアデザイナーとして働いていることを話した。今は家庭向けのカーテンの製作に関わっていて、遮視性に優れながら部屋をできるだけ明るくするレースカーテンを作りたいと語っていた。
黒川の話を時折質問を織り交ぜながら聞き、愛美への警戒心が無くなってきたと思った愛美は、もう頃合いだろうと思いグラスをそっと置いて黒川の瞳を見た。
「私、もう少し黒川さんのお仕事の話をよく聞きたいんですけど、ここで長話も何ですし、私の家がここの近くなので、そこでゆっくり話しませんか?」
勝利を確信していたつもりだった。しかし黒川は思案するようにゆっくり一度まばたきをすると、すぐに愛美へと視線を戻した。
「いや、今日はもう遅いから今度にしよう。でも君とはまた話をしてみたい気がする。良かったら連絡先だけ教えてくれないか?」
あまり態度には出さなかったが、心中はそれこそ狐につままれたような気分だった。今までの男性は三人とも成功してきたせいか、どこか自分の中に慢心があったのかもしれない。それで少し賢そうな男に声を掛けてしまったのだ。
愛美は動揺したまま黒川と連絡先を交換した。その必要が果たしてあったのか、一体何をやっているのか、自分でもよく分かっていなかった。
ただ言われるがままに彼の言葉に従った。店内に愛美の好きなクラシック音楽が流れてきたが、彼女の耳にはまったく届いていなかった。
黒川からは連絡が来ない可能性もあると思ったが、彼は比較的高い頻度で連絡を寄越してきた。愛美は戸惑いながらも返事をした。獲物にならないのであれば不要な交流だと思われたが、潔く断ち切ることが出来なかった。その理由はよく分からなかった。彼女はいつだって自分の心がよく分かっていなかった。
黒川と出会って一週間後、十二月の初旬、愛美は黒川の運転する車の助手席に乗っていた。黒川から一緒に出掛けようと言われ行きたい所を尋ねられたが、愛美は趣味があまり無く、加えて出不精だった為特に出掛けたい場所は無かった。愛美が答えられないでいると、じゃあ車で適当にドライブをして行きたい所が見つかればそこに行けばいいと黒川が提案してのことだった。
運転している黒川を横目で観察した。彼は今まで交際してきた男性や殺害してきた男達と少し違っているように感じた。過去の男達は自分の行きたいところに愛美を連れて行き、ここは良いだろうという具合に無理矢理自分の好きなものや立てた計画を好きにさせようとした。常に自分が主体だった。
しかし今までのメッセージのやりとりに関しても今日の外出に関してもそうだが、黒川は人づきあいが柔軟だった。決して弱気な訳ではなかったが、相手の様子を見て合わせたり相手を尊重する姿勢が窺い知れた。
先述した通り愛美は物事を自分で決めるのが苦手な為相手の行きたい場所に付き合うことは嫌ではなかったのだが、やはり自分のことを考えてくれている気配が見えるのは不快ではなかった。
「煙草吸ってもいい?」
信号で停止すると黒川は尋ねてきた。愛美がええ、と答えると、黒川は窓を薄く開けて煙草を吸い始めた。メントール系の香りではなく、どちらかというとスモーキーな重厚感のあるにおいだった。
「君はやらないの?」
黒川が煙草を指でつまんで軽く揺らした。
「ええ、私は吸わないです」
「そうだね、吸わない方が良い」
黒川は投げやりに窓の外に視線を移した。言葉と行動が噛み合っていなかった。
「黒川さんはどうして煙草を吸うんですか?」
「どうして?」
先程の発言の意味が知りたくて聞いてみたが、愛美の質問の意図が飲み込めないようだった。
「煙草を吸い始める理由なんて大抵の奴には無いよ。大体なんとなくで吸い始める」
「そうなんですか」
煙草に興味が無い愛美にはピンと来なかった。
「どうして今日俺のさそいに乗ってくれたの?」
煙草を携帯灰皿に仕舞うと黒川は真っ直ぐ愛美を見た。思ってもみない質問だったので少し動揺した。
「えっと・・・・・・」
愛美が言い淀んでいると黒川は言葉を続けた。
「この前のバーで俺は君の誘いを断ったけど、それでも君は俺を拒まなかった。それに君は一夜限りの関係に走るような軽率な感じには見えない。でも真剣な恋愛を望んでるにしては今日の君は淡泊だ。俺は君の真意をはかりかねているんだよ」
殺害目的で近付いたことがばれるはずはなかった。しかし黒川の聡さに愛美は自分が彼に近付いた理由に気付かれるのではないかと少し心配に思った。
俯き加減で言葉を探している愛美を見て、黒川はまあいいや、と言ってアクセルに足を掛けて車を発進させた。愛美は窓の外の移ろいゆく景色をぼうっと眺めながら黒川の質問を反芻していた。自分で答えが知りたいくらいだった。
結局どこにも立ち寄ることはなく二人はずっとドライブをしていた。好きな音楽の話や仕事の話、時事問題の話など、話題は真面目なものが多かった。愛美は根が真面目なのでそういった話題の方が合ったし、黒川も愛美が見る限りでは退屈しているようには見えなかった。
夕飯時になって一緒に夕食を摂ることになった。黒川が選んだのはチェーン店のファミリーレストランだった。過去に男性と食事を共にする時は洒落たレストランに連れて行かれることが多かった。そういう店も嫌いではなかったが、いつもなんとなく相手の男性から虚栄心がうかがえたものだった。
黒川はステーキを注文して、愛美はまぐろ丼のセットを注文した。運ばれてきたまぐろ丼を見て、何だか渋い、と黒川が笑ったので、愛美もつられて笑ってしまった。控えめな笑いではあったが、男性と出掛けて心から笑ったのは初めてかもしれなかった。
レストランを出ると、黒川は愛美の家の前まで送ってくれた。じゃあまた、と言って黒川は愛美に別れを告げた。また、ということは次も一緒に出掛ける気があるということだろうか。ずっとドライブをしていただけだったし、愛美の態度は淡々としていたが不満ではなかったのだろうか。考えているうちに車は走り出した。愛美はマンションに入る前に一度だけ、去って行く車を振り返った。
その後一度だけ黒川と出掛け、連絡もそこそこ頻繁に取りあっているうちに十二月も下旬になった。今年は例年よりも寒さが厳しく、愛美は冬のボーナスを使ってコートをより暖かいものに替えた。
黒川との関係性をどうするか、愛美はまだ決めきれないでいた。彼は今まで関わってきた男性達とは違う雰囲気を持っていた。
理知的に話したかと思えば、時々退廃的な空気を漂わせる。何が彼をそうさせるのか知ってみたい気もした。
断言してしまえば、愛美は黒川に少し惹かれていた。彼女は過去に三人の男性と交際したことがあったが、言い寄られたのを承諾しただけで彼らを本気で好きになったことはなかった。思い返してみれば愛美は他人に恋愛感情を持ったことが無かった。
ダイニングのテーブルに頬杖を付いて、もう片方の指を机にとんとんと打ち付けた。そろそろ夕食の準備をしなければいけなかったが、しばらく考えに耽ることをやめられなかった。
それから数日後の夜、愛美は家の近くの居酒屋で黒川と食事をしていた。気になる店があったが、彼女は一人では居酒屋に行けないので黒川に一緒に行ってくれるよう頼んだのだった。
「この刺身美味いな」
黒川が平目の刺身を箸でつまみながら言った。高級な居酒屋であれば、浮世離れした彼やいかにも女性といった見た目の愛美でも浮いていなかった。加えて個室を取ったので人目を気にすることもない。
「黒川さんは居酒屋にも結構行くんですか?」
「うん、男同士で飲む時なんかは大抵居酒屋じゃないかな。君は?」
「私はあまり来ないんです。友達と食事をする時は大抵レストランですから」
「そんな感じするな」
そして黒川はハイボールを呷り、飲み切ってしまうと梅酒を注文した。
「男の人でも梅酒を飲むんですね」
愛美が少し驚きながら梅酒が載っているメニュー表を眺めると、苦笑した黒川が煙草の先を灰皿に押し付けた。
「全然男でも飲むよ。女性だってビール飲んだりラーメン食べたりするだろ?それと同じだよ」
そして黒川がトイレに立った。間もなく梅酒が運ばれてきた。
「全然食べてないじゃないか」
戻って来た黒川がテーブルを見ながら苦笑した。男性のトイレにかかる時間というのは短いものだけど、それにしても彼の言う通り料理はほとんど減ってなかった。
「私ばかり食べては申し訳ないですから」
居酒屋の料理は大抵大皿で運ばれてきたものを取り分けるため、そこが気を遣うところでもあった。
「だいたいで良いんだよ、そんなのは」
黒川は頬杖を付きながら愛美の取り皿に唐揚げを二つ入れてきた。
「黒川さんて、O型ですか?」
女性は血液型の話が好きだというが、愛美もその例に漏れなかった。信憑性が全く無いと言う人もいるが、愛美はなかなか的を射ていると思っているのだ。
「お、当たり。大雑把だと思った?」
「いえ、社交的な感じがしましたから。・・・まあ、さっきの発言でそう思ったのもありますけど」
「やっぱり雑だと思ったんだな」
「ええ、少しだけ」
そこで愛美はくすりと笑った。それを黒川は知的な瞳で見つめた。
「君はあまり笑わないけど、そういう人が笑うと新鮮みあるね」
そう言うと黒川は梅酒を一気に飲んだ。それを見た愛美は、
「あまり一気に飲むと良くないですよ、梅酒は度数が高いんですから。しかもロックですし」
と軽くたしなめた。それに対し黒川はいやいや、と手を振り、
「俺は酒強いから大丈夫」
と言って蕪の漬物を口に放り込んだ。そして店員を呼ぶと日本酒をロックで注文した。
日本酒が運ばれてきたあたりから、黒川は少しだるそうだった。いつもと比べて少しぼうっとしていて、愛美が話し掛けても遅れて返事をするくらいで、ついには肘を付いて下を向いてしまった。
「黒川さん、大丈夫ですか?どこか具合悪いですか?」
愛美が心配するも彼はうつむいたまま、ああ、と言うだけだった。梅酒を一気飲みしたせいだと思った。このまま食事を続けることは出来ないと思った愛美は席を立つと黒川の肩に手をそえた。
「だいぶ良くなさそうですから、私の家で休みましょう。歩けそうですか?」
彼が頷いたので、席を後にして会計をした。愛美が会計をしているさなか黒川はおぼつかない視線でレジのカウンターに手を掛けていたが、泥酔している客は珍しくないのであろう、店員は気にも留めていなかった。
そしてふらつきながら歩く黒川を支えながら愛美は自宅のあるマンションへと向かった。黒川の体調は先程よりも悪化しているように思えた。
ようやく自宅に辿り着くと愛美は居間のカーペットに枕を置いて黒川を寝かせた。再び大丈夫かと尋ねたが彼はだるそうに頭を動かすだけで目を閉じてしまった。
そのまましばらく愛美は黒川の横に座って彼を見守っていた。最初はうめき声を上げたり頭を動かしたりしていたが、何分もしないうちに黒川は眠りについてしまった。
それを確認すると愛美は黒川の額にそっと手を乗せた。眉間に皺を寄せてきつく目を閉じる。数秒、そうしたかと思うと彼女はゆっくりと瞳を開けた。
そして腰を上げダイニング脇の棚から注射器と、ボトルに入った筋弛緩剤を取り出した。
それを注射器に入れ、黒川の様子を再度確認する。彼が目を開ける気配は無い。
前もって計画していたことだった。
交際していない状態で黒川が愛美の家に来るとは思えなかったので、黒川を居酒屋に呼び出し、彼が席を外している間に梅酒に睡眠薬を入れた。すぐに眠ってしまっては困るので、いつもより量は減らしていた。今までの経験上臭いや味で気付かれることは無さそうだったが、念のため香りの強い梅酒を選んだのだった。
黒川としばらく過ごして心を動かされた愛美だったが、最終的な決断は変わらなかった。もしかしたら自分も好きな人と普通の人生を歩めるかもしれないと思ったりもしたが、彼女が過去に犯した罪を思えば、このままおめおめと幸せになることは許されなかった。黒川が存在していてはその決心が揺らいでしまう可能性があった。だからそれを守る為に彼を手に掛けなくてはいけなかった。
愛美は再び黒川の横に座ると、ゆっくりと彼の服の袖を捲り上げた。適度に筋肉の付いた奇麗な腕だった。その腕に注射器の針をあてがった。深く息を吸い、一旦目を閉じる。その瞳からは涙が一滴零れ落ちた。
そして目を開けてもう一度黒川の顔を見ると、一気に針を押し込んだ。いつの間にかとめどなく涙が流れていた。
ほどなくして黒川が苦しみだしたが、愛美はその様子を見ることができなかった。ただひたすら顔をそむけながら、ごめんなさい、ごめんなさいと呟いていた。
十分程泣き続けてようやく落ち着くと、愛美は黒川に視線を戻した。
その顔はやはり苦悶に満ちていて、愛美はいつも以上に恐怖を感じた。やっと止まった涙がまた溢れてきて、愛美は洟をすすりながらせめてもの償いで黒川の瞼に手を触れて閉じさせた。
いつもは遺体をすぐにスーツケースに押し込んでいたが、愛美は黒川の体を居間に横たえさせたまま自分も隣で寝そべった。そして黒川の方を向き、彼の死顔を眺めた。細い指で頬をなぞる。そして抱き締めるようにして彼の肩に手を掛けた。聞こえるはずのない心臓の音が聞こえるような気がした。彼女はそのままずっと、夜が明けるまで彼に寄り添っていた。
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