市川 俊明
きっかけは、盆休みでの母の実家への帰省だった。
祖父母の家は須藤
そこは冬になれば民家の二階ほどまで雪が積もるような地域だったが、夏はほどほどに暑く、寝る時には空調をつけなければ寝苦しかった。
昼間は窓を開けて扇風機を回せば凌げたため、愛美と両親が帰る時はいつも窓が開いていて、食卓の小窓から眺める木々の鮮やかな緑が愛美は気に入っていた。
しかし去年の帰省以来、愛美はこの矢野家に来ることが少し億劫になっていた。
矢野家へは両親と共にほぼ毎年盆に帰省していて、二、三日程滞在するのが常だった。
祖父母は絵に描いたような人の良いお年寄りで、愛美達が帰るといつも笑顔で歓迎してくれた。自分達はあと何年生きられるか分からないから、またこうして今年も会えたことが何よりの幸せだと夕飯の席で機嫌良く話すのが帰省した日の決まりとなっていた。
しかし矢野家にはもう一人の親族が居た。母の弟—愛美にとって叔父にあたる人物であった。
叔父は母より二つ年下の四十八歳で、落ち着いた印象の母とは違い、常に大きな声で話したり笑い声を立てたりすることが多かった。肌は趣味のサーフィンで焼けていて、自分でも家の近所でサーフィン用品を扱う店を経営していた。結婚はしておらず、家を出て行く理由が無いからと現在も祖父母と共に実家暮らしをしていた。
最初の頃は一人だけ毛色の違う人間がいるものだと思ったくらいだった。叔父は少し騒がしいくらいで、今までは特別人間性に問題があるようには見えなかったからだ。
しかし去年、愛美が二十四歳の時の帰省の
翌日に矢野家を離れる最後の晩、愛美は夕食の片づけを買って出ていた為、祖父母と両親は今で揃ってテレビを見て
その音を聞きながら六人分の食器を洗っていると台所に叔父が入って来た。
ビールでも取りに来たのだろうかと思っていると、叔父は愛美の傍にやって来て、量が多くて大変だろうから手伝うと言ってくれた。そして愛美の隣に立って、彼女の洗った食器を拭き始めた。
最初は愉快そうな顔をして愛美の近況を尋ねてきたりしたが、恋人は居ないのかという話題になり、愛美が居ないと答えると、こんなに美人なの勿体ないと言いながら叔父は愛美の尻を掴んできた。
突然のことに言葉が出なかった。愛美が顔をこわばらせて絶句していると、叔父は頑張れよ、と言いながら愛美の肩を叩いて台所を出て行った。
残された愛美はただただ不快感を感じていた。少し尻を触られたくらいで気にしすぎなのだろうかとも思ったが、やはり親族であってもおかしい事だと思った。
それから叔父への不信感を募らせていた為、今年も矢野家へ来たものの、到着した後の昼食の席で愛美は叔父と目を合わせないようにして黙々と料理を咀嚼していた。
叔父はというと去年愛美にした事を覚えているのかいないのか、普段と全く変わらない様子で枝豆を豪快に食べ、酒を片手に笑い声を上げていた。
両親や祖父母は愛美の態度に気付かず叔父の話に相槌を打ったり、自分達の近況を話したりしていた。祖父は近頃自分の応援している野球チームの成績が芳しくないことを苦々しく語り、母は
そして叔父が350ミリリットルのビール缶を二本空け、三本目を取りに席を立った時だった。突然叔父は喉を潰したようなうめき声を上げると、床に崩れ落ちた。そのまましばらく手と膝を付き頭部を押さえていたが、血相を変えた他の家族が立ち上がった時には既にその場に倒れ込んで意識を失っていた。
母が携帯電話で救急車を呼んでいる間、私の頭の中には今見た光景がスローモーションのように甦っていた。ひたすらに衝撃的だったが、ただそれだけだった。叔父がどうにかなってしまうかもしれないという焦燥は自分の中でどこにも感じられなかった。
叔父は程なくして到着した救急車に運ばれ病院へと移送されたが、死亡が確認された。同乗した母が病院から掛けてきた電話でそのことが分かった。
くも膜下出血だった。原因は過度の飲酒にあったようだった。それを聞いた愛美は叔父が昼も夜も缶ビールや焼酎を何本も空けていたことを思い出した。
両親は病院の手続きや葬儀の段取りなどのために田舎に残ったが、愛美は仕事を休めず、滞在予定が過ぎると一旦ひとりで東京へと帰った。
帰りの新幹線の中で、愛美は叔父の倒れていくさまをぼんやりと思い返していた。その頭の中の光景は、眺めていた窓の外の景色に何度か溶けて消えてを繰り返していた。
東京へ戻ってまたすぐに叔父の葬儀に参列し、その後普段通りの生活を送っていたものの、愛美の脳裏には度々あの時の光景が思い出された。
恐ろしい訳でも、ましてや愉快な気分にもならなかったが、その光景は段々と愛美の中に染み付いていった。
そして日常的にあの時の事を考えるようになると、次第に愛美にはぼんやりとした感情が浮かんできた。「衝動」と呼べる程の強いものではなかったが、それは愛美の中で日々徐々に色を増してきた。
男性を殺害しなければ。
最初に思い付いた時には、おかしなことだと思った。今まで生きてきて他人を殺そうと思ったことなど無かったし、普通の人間として生きてきたつもりだった。
しかし啓示のようにそれをひらめいてから二週間もすると、愛美は具体的な計画を立て始めていた。そして叔父の死を目の当たりにしてからひと月程経った夜、愛美は山中雅紀を殺害した。
それからまた一か月が過ぎた。前回の殺人を犯してからしばらくは男性への殺意は無くなっていたが、最近になって再び彼女の中で色を増して溢れそうになっていた。
またやるしかないのだろうか。
心の中で疑問形で呟いてみたものの、愛美はそれが疑問でないことを既に感じ取っていた。
西陽が差し込む部屋で読みかけの本のページをぱらぱらと指で弄びながら、愛美は山中雅紀を思い出した。そして自分の中に罪悪感の感情を探したが、とうとう見つけることは出来なかった。
とある週末の夜更け、愛美は市川俊明という男性と住宅街を歩いていた。
バーで一人飲んでいた彼に愛美が声を掛け、山中雅紀の時と同様に少し打ち解けてから愛美の家へと誘い出した。
バーから愛美の住むマンションまでは歩いて三十分程だった。その間に市川俊明の興奮が冷めないよう、色々な話題を振って終始喋りながら歩いていた。
マンションに着いてエントランスを抜けるとエレベーターに乗り込み、三階の愛美の部屋へと向かう。夜遅い時間のせいか、住民とはすれ違わなかった。愛美は安堵する。
「お邪魔しますー」
市川俊明は酔いが回りながらも、挨拶をしてから部屋へと入った。
その彼を愛美はダイニングへと誘導し、愛美がいつも食事をする隣の椅子へと座らせた。
「赤ワインとウイスキーと日本酒、あとビールとハイボールがあるんですけど、どれがいいですか?」
キッチンへと向かいながら愛美は尋ねた。普段全てを愛美が飲んでいる訳ではない。好きな酒が無いから要らないと連れてきた男に言わせない為だった。
「だいぶ揃えてるんだな。じゃあ、日本酒で。ロックがいいかな」
上機嫌にそう答えた市川俊明を尻目に、愛美は酒の準備を始めた。
日本酒を取り出し、市川から見えない場所まで移動する。そしてグラスに氷と日本酒を注ぐと、棚に予め粉末状にして入れてあった睡眠薬も一緒に流し入れた。それを音を立てないように
そして自分用の赤ワインも用意すると愛美はダイニングに戻った。
「はい、どうぞ」
市川に睡眠薬入りの日本酒を差し出す。そして市川の隣の椅子に腰掛けた。
「じゃあ・・・、乾杯」
それが死の合図だった。愛美の用意した日本酒を何の疑いもなく呷る市川を、愛美は赤ワインを口にしながら横目で見た。
そして彼はしばらく呂律の回らない言葉で何かを話していたが、やがて眠りに落ちた。それを愛美は静かな瞳で見つめていた。
市川が完全に眠ってしまったのを確認すると、愛美はダイニング脇の棚から注射器と、ボトルに入った筋弛緩剤を取り出した。
それを注射器に入れ、市川の様子を再度確認する。彼が目を開ける気配は無い。
市川に近付いた愛美はゆっくりと彼の服の袖を捲り上げ、腕に注射器をあてがった。深く息を吸い、一旦目を閉じる。
そして目を開けてもう一度市川の顔を見ると、愛美は注射器の針を刺し、中の液体を押し込んだ。ゆっくりと液体が注射器から無くなっていく。
そして愛美が疲れたように息を吐き出すと、眠っていた市川が目を開き暴れ出した。呼吸がだいぶ乱れている。勿論愛美が注射した筋弛緩剤によるものだった。
のたうち回る市川の腕は自分の飲んでいた日本酒のグラスを倒し、愛美のワインのグラスも倒した。テーブルの上はぶちまけられた液体で溢れかえって、そこをつたって床にも染みを作った。山中の時もこうなったので予想はしていたが、また掃除が大変になると愛美はその光景を眺めながら頭の隅で思った。
そして市川はしばらくして暴れるのをやめると、テーブルに倒れ込んで事切れた。顔だけが横を向いていて、とても穏やかな死に顔とは言えなかった。愛美は男性が苦しむ顔を見たい訳ではなかったのだが、手に入れられる毒の都合上仕方の無いことだった。
市川から目線を逸らすと、愛美はテーブルと床の掃除を始めた。そのあと、市川に付いた酒も極力拭ってやる。
そして掃除を終えると、市川が乗っている椅子の傍に大型のスーツケースを転がしてきた。床にそれを開くと、市川の遺体の腕を自分の肩に掛け、何とか椅子から引きずり降ろした。そのまま下で口を開いていたスーツケースに半ば投げ込むようにして遺体を納めた。そしてそれの蓋を閉じる。
本当はこのまますぐに遺体を運び出したかったが、運び出しには車を使っていて、飲酒運転はしたくなかったので前回の時も朝になるのを待っていた。今回も同じにしようと思い、市川の遺体が入ったスーツケースをダイニングに置いたまま寝る準備に取り掛かった。
化粧を落とし、服を脱いでシャワーを浴びた。そして入浴を済ませるとキッチンで水を飲み、スーツケースの横を通り過ぎて寝室へ向かい、ベッドに横になった。しばらく目が冴えていたが、一時間弱もすると視界が暗くなってきて、愛美はゆっくりと眠りについた。
翌朝、アラームの音で目が覚めた。時間は六時ちょうど。よく晴れていて、外からは雀の鳴く声が聞こえてきた。
愛美は起き上がって出掛けるための身支度を始めた。寝間着を着替えて寝室を出て、軽く洗顔をする。居間に入ると、そこから繋がっているダイニングに置いてあるスーツケースが目に入る。そして薄く化粧をすると、朝食も摂らずにスーツケースを引き玄関のドアを開けた。
自宅を出ると、マンションのエレベーターに乗り込んだ。押したのは地階のボタンだった。このマンションの住人用駐車場のフロアになっている。
エレベーターを降りると、駐車場を自分の車へ向かって歩いた。ここまでの間で人に遭遇してはいない。スーツケースを引いて歩いているだけなのでおかしくはないはずだが、やはりなるべく人に見られたくはなかった。それが土曜の早朝という時間を選んだ理由でもあった。
スーツケースを車のトランクに入れ、自分も運転席に乗り込んだ。エンジンを掛けて車を発進させる。そして市川俊明を乗せた車は外へ向かって走り出した。
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