悪魔の憂色

深茜 了

プロローグ

そこは都内某所の、細長い小綺麗なビルにある一軒のバーだった。


店内の照明は暗いオレンジ色で、カウンターでグラスを拭くバーテンダーの後ろにはウイスキーやブランデー、年代物のワインといった豊富な種類の洋酒の瓶が並べられている。広くはないが特別狭くもない、カウンター席を含めて二十席くらいの落ち着いたバーだった。


そのカウンターで、山中雅紀はやけ酒をあおっていた。


今日は交際している里帆と一周年記念で食事に行く約束をしていたのだが、いざ待ち合わせをしたら彼女から急に食事のキャンセルと、加えて交際の破棄も一方的に告げられた。

彼女は以前から雅紀の身勝手な振舞いが目に余っていたという。

雅紀だって里帆の多少の短所には目をつぶってきたのに、随分な扱いではないのかと思った。

真っ直ぐ帰る気にはなれずたまたま立ち寄ったこのバーで、そんな想いとともに更に酒を流し込んだ。普段は酒に飲まれることはほとんど無かったが、今日は大分酔いが回って来ていた。


追加の酒を注文しようか、もう帰ろうか考えていると、雅紀の頭上から声が降ってきた。


「お一人ですか?」


驚いて顔を上げると、そこには二十代半ばくらいの女性が居た。

長い黒髪に白い肌、大きな瞳を長い睫毛が覆っていて、清楚さと大人っぽさが混じったような雰囲気の女性だった。しかも大変な美人だった。


「あ、ああ・・・」

突然声を掛けられたのと彼女の美貌とが、雅紀が落ち着くのに時間をかけさせた。それでも彼がしどろもどろな返事をすると、彼女は優しげな笑みを見せた。

「いきなり話し掛けてしまってごめんなさい。私、恋人と食事に行く予定だったんですけど、急にふられてしまって。それで淋しいから、一緒にお酒を飲める人を探してたんです。・・・その、ご迷惑じゃなければ、一杯つきあっていただけませんか?」

彼女の声は落ち着きの中にも色気を感じさせるような魅惑的なひびきがあった。

加えて、自分と同じような目に遭った彼女に親近感を持ったし、こんな美女でもふられるのかという同情心もあった。この時雅紀の中の警戒心はまるで無くなっていた。


「ああ、じゃあ・・・一杯」

既に浮かれ気分になっていた雅紀が頷くと、彼女は嬉しそうに隣の席に腰掛けた。そしてバーテンダーに酒を注文する。


強めの酒とちょっとしたつまみを口にしながら、当たり障りのない会話で彼女と盛り上がった。雅紀は話題を考える一方で、どうこの美女を連れ帰るか考え始めていた。向こうから声を掛けてきたということは、少し押せば簡単になびくだろうか。


二人の飲んでいた酒がなくなりかける頃、カウンターに腕組みをするように肘を付いていた彼女が、ねえ、と雅紀を振り向いた。その顔には、最初に話し掛けてきた時よりも妖艶な笑みが浮かんでいた。

「私の家がここの近くなんです。私、もう少しあなたとゆっくりお話ししたい気分だし、せっかくだから寄って行きませんか?」

彼女の蕩けるような微笑を前に、雅紀は天にも昇る気持ちだった。向こうから誘ってもらえるとは手間が省けた。里帆を失ってひどい気分だったが、代わりにそれ以上の収穫があった。今日は人生で一番幸運な日かもしれない。

二つ返事で意気揚々と店を出る準備をする雅紀を、彼女は変わらずつややかな笑みで見つめていた。その手の中で、飲みかけのウイスキーのグラスに入っていた氷がカラン、と音を立てた。


この何の罪も無い男が、麗しい連続殺人犯の最初の犠牲者となった。

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