逆光の樹影、ガラスのリノウ

四谷軒

01 ガラスのリノウ

To be, or not to be, that is the question.


――William Shakespeare's play "Hamlet"






 硝子生命体グラス・ビーイングという言葉がある、とリノウは聞いていた。

 それが自分にあたるかどうか、判然としない。

 だが、躰の曲線や透過の具合を調整できることから、やはり自分はそれなのだと思い、そして周囲に溶け込むのだ。


 沈黙。

 静止。


 靴音が聞こえる。

 目深まぶかにかぶったソフト帽。

 洒落込んだトレンチコート。

 だが、顔が無かった。


「お前もか」


 トレンチコートが言う。

 目に見えぬ唇を動かして。

 リノウは手を尖らせた。

 手が円錐になる。

 円錐が伸びる。


「やめろ」


 トレンチコートは跳んだ。

 跳んだ先に、もう一方の手――あしかもしれない――を伸ばして、突く。

 ぐ、というくぐもったうめき。


shoot him狙撃


 性別など分からないのにhimとはいい加減なことだ、とリノウは思いながら、避けられた円錐を飛ばして、トレンチコートを貫いた。


 爆散。

 爆音。

 静寂。


「……見事な手並みだ、リノウ」


「……樹影ジュエイ


 今度こそ、肉の躰を持った若い男――樹影が、煙草をくゆらせながら近づいて来る。

 おざなりながらも、拍手をしながら。

 ぱちぱちと。



 樹影ジュエイは不健康な男だった。

 常に煙草をくわえているし、仕事の依頼は常に酒場で、往年の文豪が愛飲したというダイキリをよく飲んでいた。

 その日も場末の酒場で、ショットグラスを揺らす樹影ジュエイが、端末を操作してリノウにデータを寄越した。


硝子生命体グラス・ビーイング?」


「……そういう呼称だ。実態は知らんよ」


 樹影ジュエイは吸い終わった煙草を灰皿に押しつけ、新たな煙草をくわえる。

 スーツの内ポケットから出した、今となっては懐旧的な燐寸マッチって、火をつける。


「ワタシが硝子生命体ソレだと言いたいのか?」


「……君の出自は不明だ」


 樹影ジュエイ燐寸マッチの火をかばうようにして煙草に近づけ、やがて紫煙を吐く。

 はあ、というため息ともつかない息。


「……だが、メタファ比喩にしてサイファ暗号であることにはちがいない」


 カウンタを滑ってきた新たなショットグラスを片手でキャッチし、ひと息であおる。


「だってそうだろう? まるでガラスのように光学的な迷彩を施し、あたかも飴細工のように変化を遂げる……こんなのは」


 飲んでいる間にも燃えていく煙草を惜しむようにくわえ、何かの音楽を楽しむように瞑目し、そして言葉をつづける。


「こんなのは、どこかの政府か、さもなくば組織の科学者が何かの目的で作ったのに相違ない。それをどう呼ぶかなんてのは、意味が有るけど無い行為さ」


 だからこんな言葉遊びめいた呼称が生まれる。

 言わなくても、樹影ジュエイの皮肉めいた瞳がそう語っていた。

 リノウは自分の躰を眺める。場末の酒場の暗い席に座っているおかげで目立たないが、全裸だ。ただし、躰の光度を調節して、何かの黒ずくめのウェアを着ているような感じになっている。

 こんなことができるのは、確かに硝子生命体グラス・ビーイングと呼ばれても仕方ないかもしれない。

 リノウは端末(これは以前に樹影ジュエイにもらった)を操作し、トレンチコートを愛用するという、を見た。

 それというのは、とかとか、性別が不明だからだ……少なくとも、身体的特徴として。

 

「……それを始末する?」


「うん。それが君の仕事。代わりに、君の生存ビーイングが許される」


 樹影ジュエイは、己こそ出自を語らない。政府のエージェントかと聞いたことがあったが、政府と取引があるのは認める、と返って来た。

 いずれにしろ、気がついた時に路地裏に転がっていたリノウが目覚めた時――もし機械だとしたら、起動した時――すぐそばに居たのが、煙草を吸いに来た樹影ジュエイだった。

 通常なら、政府に届けるべき事案に相違ない。


「面白い」


 だが樹影ジュエイはリノウを束縛しなかった。

 実際問題、通常ならざる膂力と殺傷能力を具えたリノウを束縛することなど、自称非力な樹影ジュエイには不可能だったが。


「君は誰だ? 名前は? 性別は?」


 硝子の彫像かと思ったと言われ、そういえば自分が衣服なるものを身に着けていないことに気がついた。

 だが、どうやら性別は女のようだと思った。

 思っただけで、身体の形状を自在に操れることを認識したので、だからといって女性の形状に固定し、拘泥することは無かった。

 樹影ジュエイはそれを見て何も言わなかったが、さすがに名前を何とかしなくてはな、と告げた。


「名……」


「君、と呼ぶのもどうかと思う」


「そう」


「何か、思い出す?」


「…………」


 検索するイメージ。

 言語以前の音がごちゃごちゃとする中、少しだけ音が浮かんできた。


「リ、ノウ」


「ふうん」


 私は樹影ジュエイだ、と樹影ジュエイは今さらながら自己紹介をした。

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