第三話⑧
「すまん。伯父が失礼をした」
気まずそうに、アドラスさんは口を開いた。
「妙な勘違いのせいで、嫌な思いをさせたな」
「いいえ、お気になさらず。こんな時間に出歩いた私が悪いんです。それよりアドラスさんこそ、どうしてここにいらっしゃるんです? アドラスさんは──」
女性と一緒にいると聞きましたが、と言おうとして口を
しかし意外にも、答えはあっさり返って来た。
「自分の部屋に戻ったら、なぜか東部貴族のご令嬢とやらが俺を待ち受けていたんだ。だがつまみ出そうにも、廊下を歩かせるには心もとない格好をしていてな。仕方がないので代わりに俺が部屋を出ることにしたら、先ほどの現場に遭遇したわけだ」
「なるほど」
ほっとする気もするけど、何に対する
「それで君は、こんな時間に出歩いて何をしていたんだ?」
「それは……。夜の方が霊が視えやすいので、アドラスさんのお母様を探そうかと」
「そうか」
アドラスさんはしばし思案する。そしてすぐに、ぱっと顔を上げた。
「では俺が案内しよう」
ランタンを片手にアドラスさんが向かったのは、昼間ボラードと
木造の家が町内を埋め尽くすなか、広場を囲む家々はどれも石造りだ。裕福な家庭は、この一帯に家を構えるのだろう。
アドラスさんは、そのうちの一つに迷いなく踏み入った。
「ここが俺と母の家だ。何か、感じるか?」
「いいえ。今のところは……」
さっそく私は、家の中を隅から隅まで観察する。炉のある居間。小さな台所。寝室。地下倉庫──
小ぶりな民家の探索はあっという間に終了したが、アドラスさんの母親らしき人の気配は、一切感じ取ることができなかった。
「いらっしゃらないようです。日や時間帯を変えると姿を現す霊もいるので、まだ絶対にいないとは言い切れませんが」
「……そうか。だが他にも、母と関係の深い場所はいくつかある。後日そこも当たってみよう」
彼としては残念な結果だろうに、そう話す声には安堵が含まれているような気がした。気持ちは分かる。誰だって、霊の姿で
「そう言えば、なかなかお聞きする機会がなかったのですが、アドラスさんのお母様はどんな方だったのでしょうか」
「そうだな……」
思案しながら、アドラスさんはランタンを居間の卓上に置いた。そして椅子の一つを引き寄せ腰掛ける。私もそれに倣って彼の対面に腰掛けた。
「美人、だったな。見た目も若くて、一緒にいるとよく俺の姉と間違えられた。グレイン家のマルディナと言えば、美姫として東部ではそこそこ有名だったらしい。何事もなく行儀見習いを終えていたら、今頃どこかの大貴族の奥方として、悠々自適な生活を送っていたかもしれないな」
「それなのに、マルディナさんは平民の男性と恋に落ち、子を
ずっと訊ねたかったことを、勢いに任せて口にする。ただし、面と向かって質問する勇気はなかったので、視線は伏せて次の言葉を待った。
少しの間がある。
「……正直、よく分からん」
「え?」
「らしくない、と言えばらしくないようにも思える。真面目で厳しく、責任感の強い人だったからな。恋に
息子としてはあまり想像したくもないな、とつけ加え、アドラスさんは笑った。
「だが、世の中には思いがけない大恋愛があると言うだろう。その日出会ったばかりの相手と恋に落ち、これまでの地位も名誉も全て捨てて、逃避行の旅に出る──なんて物語もよく聞くからな」
「そうですね。出会ったその日に、なんていうのはさすがに無茶がありますけど」
人は感情ゆえに、時折思いも寄らない行動に出ることがある。そんな突発的な感情の揺動を否定することはできない、か。
「母とて人間だ。
力強く、アドラスさんは断言した。彼の声にも表情にも、揺るぎない確信があった。
語るアドラスさんの
……しかしこれは、あくまで私の思い込みだ。私は本当のマルディナさんを知らない。だから、ここで素直に同意することはできない。
「先入観は、人の目を曇らせます。強い信念や感情は、時として見えるものを
「……」
「それは私も同じです。私も、どうしたって〝自分〟という器を介して、視える情報を歪めてしまいます。だから先生──先見の聖女は、私に『善人になろうとするな。善にも悪にも、平等であれ』とよくおっしゃいました」
ジオーラ先生の姿を思い出す。四十年以上の年月を、聖女という職に
お酒が好きで昼から
だけど先生は、いつも私に寄り添ってくれた。
自らが視たものを、人とは共有できぬ孤独感。視てはならぬものすら視えてしまう、己の力への底知れぬ恐怖。その全てを理解し、自分の力との向き合い方を、懸命に教え続けてくれた。
「善悪に平等であれ、なんて聖女らしからぬ教えですよね。でも物事を見極めるには、そうした何にも
なぜか、心臓が強く拍動する。震えをごまかすように、私は声を大きくした。
「〝私〟個人は、アドラスさんのお母様は素敵な方なのだろうと思っています。それは、息子であるアドラスさんを見ていれば分かりますから」
言い切ってから、「こんな長い前置き、必要なかったのでは」と気がついた。どうしてこんなにたらたらと、無駄話を連ねてしまったのだろう。
「ありがとう」
そう言って、アドラスさんは微笑んだ。
いつもの快活な笑みではなかった。もっと優しく、陽だまりのような──そんな、温かな笑みだった。
「それと、昼間はすまなかったな。つい頭に血が上って、大人気ない態度をとってしまった」
「そんなことはありません。昼間の件に関しては、私が軽率でした。可能性を検証することは大切ですが、人の尊厳を損なうような仮説を振りかざすことが、良いことだとは思いません。本当に、ごめんなさい」
謝罪を交わして、見つめ合い沈黙する。そして数瞬ののちに、揃って笑いを吹き出した。結局、私たちは謝罪する機会を、お互いに探り合っていただけなのだ。
しばらく笑ったあと、アドラスさんは姿勢を正してこちらに向き直った。ランタンの柔らかな光が、彼の真剣な顔を照らし出す。
「ヴィー。以前あの塔で、俺は『自分が皇子ではないと証明してほしい』と言ったな」
「はい」
「少し訂正だ。俺が、何者であるのか。真実は何かを、君に見通してほしい」
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