第三話④

 屋敷の中に入るなり、アドラスさんはグレイン卿に背中を押されて姿を消してしまった。私とリコくんは屋敷の中庭で所在なく立ち尽くしていたけれど、やがて使用人に誘われ、邸内の一室へと足を踏み入れた。

 そこは、来客用のサロンだった。床にはじゆうたんが敷き詰められ、壁には名も知らぬ画家の風景画がいくつもかけられている。天井には古めかしいシャンデリアがるされているが、揺れる灯は頼りない。

 その中では、しようしやな装いの男性たちがガラスの杯を片手に談笑していた。

「貴族……だよね、みんな」

「そうだと思います」

 場違いな私たちは部屋の隅に移動して、室内で談笑する人々をこっそりと観察する。

 男性陣も異質な私たちにちらと探るような視線を送ってきたけれど、すぐ何事もなかったかのように上品な笑みを浮かべて語らいを再開した。この鮮やかな〝見て見ぬ振り〟は、まさに上流社会ならではの技である。

 こっそり感心していると、やがてはつらつとした声と共に、両開きの木製扉が開かれた。

「みなさまお待たせしました」

 現れたのはグレイン卿だった。その背後には、アドラスさんもいる。彼のたたずまいは、離れていたわずかな時間のあいだにすっかり様変わりしていた。

 旅と襲撃によってめ込んだ汚れはれいに洗い落とされ、本来の整った顔立ちがくっきりと現れている。荒れ放題だったさびいろの髪は丁寧に整えられていて、仕立てのいい衣服に身を包んだ姿はまぶしいくらいだ。彼自身は不本意な入浴を終えた犬のようにふてくされているけれど、その表情も知らぬ人が見れば威厳ある顔つきに見えることだろう。

「アドラスさん、皇子様みたい」

「それ、本人に言わないでくださいね。あの人、変なところで繊細ですから」

 正直な感想をつぶやけば、リコくんが小声で窘めてくる。

「それに、いつも明るく振る舞っていますけど、本当はすごく心配なんだと思います。マルディナ様とは仲の良い親子だったのに、あの方が亡くなって悲しむ間もなく『お前の母親は他にいる』なんて言われることになったのですから」

 確かにそうだ。アドラスさんは、一ヶ月前突然お母様を亡くしたと話していた。本来ならば、まだ悲しみも癒えぬ時期だろうに。

 ……私も同じ頃に先生を亡くしているから、よく分かる。

「いやはや。東部のお歴々が一堂に会すると、なんとも壮観ですな」

 室内の人々を見回して、上機嫌にグレイン卿は言う。しかし視界の端に私たちをとらえると、卿は「むっ」とまゆひそめた。

「おい、なぜ彼らがここにいるのだ」

「俺が呼んだのです。伯父上が例の物を招待客に披露すると聞いて、彼らにも見てもらおうと考えたのですが」

 と間髪をれずアドラスさんが答える。

「お邪魔であるなら、彼らを連れてこの場は退がらせていただきます」

「……いや、いい。お前が呼んだということであれば構わんよ」

 あっさりグレインきようは引き下がった。けれども一瞬、彼が鋭いいちべつをこちらに投げるのを、私は見逃さなかった。

「さて。本日皆さまにお集まりいただいたのは、お察しの通り、先日私が提言した東部連合について改めてご説明するためです。既に各方面から賛同の声をいただき、現在、東部貴族の実に四割が連合加入の意を表明されました。うち何名かからは、実際に我が領へ人材や物資を送るなど、手厚いご支援をいただいております」

 グレイン卿の言葉に、客人たちはざわめき顔を見合わせる。確かに四割とは大きな数字だ。

「しかし、いまだ東部貴族の中には連合への加盟をちゆうちよなさる方が多いのも事実。また、加盟者の中にも我々の提案に疑念を抱く方が何名かいると聞いております。諸侯の疑問はおそらく同じでしょう。『アドラス・グレインは、本当にエミリオ皇子殿下なのか』」

 室内の緊張が一気に高まる。皆の関心が集まる手応えがあったのか、グレイン卿は満足げな笑みを浮かべた。

「突拍子もない話ですから、疑うのも無理はありますまい。なので本日は、東部貴族の中でも特にお力のある皆さまに『アドラスがエミリオ殿下である』という根拠となったクレマ妃の手紙をお見せします。ぜひこちらの書面を見て、ご判断いただきたい」

 グレイン卿はそう言って、背後の使用人に目配せした。

 使用人は静々と前に進み、木製テーブルの上に慎重な手つきで紙を並べていく。すると人々は我先にとテーブルに集まり、食い入るように紙に目を走らせた。

 なるほど、グレイン卿は広場で「丁度良い時に帰ってきてくれた」とアドラスさんに話していたが、彼は東部連合の規模拡大のために、今日は各地の有力者を集めて説得しようとしていたわけか。そこにある意味運悪く、アドラスさんは帰ってきてしまったのだ。

 だが、騒動の発端となった手紙には興味がある。私も詰め合うお歴々の隙間から、そっと顔をのぞかせた。

 テーブルの上に用意されていたのは、古びた三枚の紙だった。それぞれには黒いインクで、文字がびっしりと書き込まれている。

「触れないように」とグレイン卿が念を押してきたので、まず顔を近づけて、外観的な異常がないかを観察する。

 特に視えるものはない。紙の材質は目視の範囲では同じように見えるし、劣化の具合も、インクのにじみ方も紙ごとに変わりはない。鼻を近づけてみても、こうをくすぐるのは古びた紙の匂いだけ。……少なくとも、魔術的な異常はこの手紙にないようだ。

 次に私は、実際の文面に意識を移した。手紙には女性的な整った文字で、こう書かれていた。


『親愛なるマルディナへ


 突然このような便りが届いて、あなたは驚いていることでしょう。あるいは、怒っているかもしれませんね。私のせいで、あなたは女としての幸せを不当に奪われることになったのですから。でも、どうか……あなたがこの手紙を破り捨てず、愚かな私の話を聞いてくださることを祈ります。


 あなたがその子を連れて私の元を去ってから、もう二年が経ちました。あなたが消えたばかりの頃、私は怒りと喪失感とでむくろのように成り果てておりましたが、確かに年月は人を癒すものですね。最近は、以前よりも心穏やかに過ごせる時間が増えました。

 それでも、時折エミリオのことを夢に見ます。私の大事なエミリオ。で、誰よりも汚れのないはずのあの子が、どうして命を狙われなければならなかったのでしょう。どうしてあの子はいま、私の腕の中にいないのでしょう。そのことを思うと、二年前の激情が当時と同じ熱を持って湧き上がるのを感じます。

 やはり私は、彼らを許すことができないようです。自覚のないまま、彼らも私と同じ苦しみを味わえばいい。


 ですがあなたには、取り返しのつかないことをしてしまいました。

 あなたがいま、どのような生活をして、周囲からどのような評価を受けているのかは聞き及んでおります。

 本当は、あなたは誰より気高く心優しい女性なのに。あなたはその子を、そして私のことを守るために、約束された幸せも、名誉も全て捨てることになったのに……。

 全て私のせいです。

 それなのに、私はえんに取りかれ、自分の感情ばかりを燃やし続けておりました。

 本当に、ごめんなさい。


 マルディナ。あなたに一つ、お願いしたいことがあります。

 どうかその子を、このままあなたの手で育ててやってくれないでしょうか。

 その子は、正統なる第十位継承権保持者です。本来ならばしかるべき教育を受け、母の腕に抱かれて育つべき人なのでしょう。

 でもその子が王宮に戻ったなら、私はきっとその子を死なせてしまうから。だからあなたに守り続けてもらいたいのです。


 あなたに頼み事をする資格が私にないことは分かっています。だけどもう、あなたしか頼ることができないのです。

 あなたがこの願いを、聞き届けてくれることを信じて』


「これが……クレマ妃の手紙」

 もう一度文面をはじめから読み直す。

 なんだろう、この手紙。遠回しな内容のせいか、いまいち背景をつかめないせいか、いくら読んでも漠然とした違和感が胸に残る。

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