第一話③
「あのう。アドラスさんは、帝国皇室の方なのですか?」
「いいや。俺はただの田舎騎士だ。生まれてこのかた、自分を皇子だと思ったことは一度もない」
「俺の母は現グレイン子爵の妹でな。俺自身は、母が帝都にいた時恋人との間に
「その手紙に、アドラスさんが皇帝陛下のご
「概ねその通りだ。……落胤というわけでもないのだが」
概ね、とはどういうことだろう。今の話を聞くかぎり、『アドラスさんの母親のお相手が、実は皇帝陛下だった』という流れのように思えるのだけれど。
「──とにかく、俺はアドラス・グレインだ。それ以上でもそれ以下でもないことは、自分でよく分かっている。それなのに、周囲は俺が皇子であるだの偽物だのと勝手に大騒ぎして、いい加減迷惑しているんだ」
彼はうんざりした調子で語る。その言葉に、噓や妄想の
確かに、帝国皇室の人間が一人増えるかも、という話が広がれば、大騒ぎにもなるだろう。この青年がそうした騒ぎを好まぬ
「しかし、どうしてそれを否定するのにわざわざ神殿へ? 皇子である可能性があるなら、たとえアドラスさんが望まなくても、しかるべき機関が検証してくれるのでは」
「すまないが、今は説明を省かせてもらおう。追われる身としては、あまり悠長なことをしていられなくてな」
「えっ……?」
「賊が侵入した! 持ち場を確認しろ!」
遠くから、怒気の混じった声が響く。続けて複数の、慌ただしく床を
「──まあ、こういうことだ」
「こういうことって……アドラスさん、追われているんですか!」
「ああ。
ごく当たり前のように返される。なかなか切羽詰まった状況のように思えるのだが、この人の余裕は一体どこから来るのだろうか。
靴音はまっすぐ房に近づいている。このままだと、程なくしてアドラスさんは兵に取り囲まれることになるだろう。今の話がどう転じれば私が必要だという話に
少しの名残惜しさを感じながら、私は扉の向こうに呼びかけた。
「アドラスさん。このままここにいても捕まるだけです。せっかく私を頼って神殿にいらしたのに、お手伝いできなくて心苦しくはあるのですが……どうか、早くお逃げください」
「聖女殿はどうしたい」
間髪を
「『物見の聖女は、真実を見通す』。かつて先見の聖女ジオーラは、そう予言したのだろう。俺はその言葉を信じてこの地に来た。了承してくれるなら、俺は聖女殿に真実を視てもらいたい」
「でも、ここから出られない以上私は」
──瞬間。キン! と金属を
次いで魔力で強く封じられていたはずの鉄扉が、
「ほら、扉なら開いたぞ」
「え……えっ? 今、どうやって? この扉、魔力で錠がかけられていたはずなのですが」
「錠? それなら
アドラスさんは、何てこともなさそうな調子で扉の端を指差す。
疑い半分に凝視すれば、確かにそこには、ぷすぷすと魔力を漏らしながら真っ二つに断たれた錠があった。
……信じられない。魔術──それも、神官が施した高等術だ──を物理で斬るなんて。
「なんだこの部屋は。ずいぶん寒いな」
顔をしかめながら、アドラスさんはのっそりと室内に踏み込んだ。薄暗い房の中で、彼の
「物見の聖女殿」
「は、はい」
呼びかけられて、丸まっていた背がぴんと伸びる。
「この部屋に残り、あの聖女たちに
「……意思」
「だが、もし俺と共に来てくれると言うのなら。俺はこの剣にかけて、この場からあなたを連れ出し、お守りすると約束する。
聖女殿。どうか、俺を助けてくれないか」
なんともちぐはぐな
なんの魔力の気配も感じられない。ただの男の人の、ごつごつとした手。
それなのに、胸が騒ぐ。耳の奥で、波乱が渦巻く音がする。この手を取れば、私はきっと後戻りできなくなる。
そう、分かっているのに。
気づけば私は、彼の手を強く握っていたのだった。
「よし、交渉成立だな」
すぐさま私の手を握り返して、アドラスさんはにかっと屈託のない笑みを浮かべる。
急に気恥ずかしくなってきて、さっと視線を足元に落としながら、私は小さく頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
「ああ。よろしく頼む、聖女殿。──さあ、時間がない。さっさとこの場所から離れるぞ」
私の手を握ったまま、アドラスさんは扉の外へと向かおうとする。けれど一つ用事を思い出して、私は慌てて足を止めた。
「あ、あの! 少しお待ちください」
房の隅に視線を向ける。そこには、
一度も意思の疎通に成功していないが、これでも三日を共に過ごした仲である。
「ねえあなた。ここにいても寒いだけですよ。扉も開いたことですし、外に出たらどうですか」
『いや……。寒いのはもうごめんよ。いっそ死んでしまえば、楽になれるのに』
いやもう死んでいますよ。そう言いたいのを
霊とは大概こういうものだ。彼らに生きた人間ほどの思考力はなく、生前の感情に強く支配された言動ばかりを繰り返す。ただ優しく語りかけても、反応を示す者などほとんどいない。
彼らは言わば、魂の
……だけど。
「そこ! 扉! 開いていますよ!」
呼びかけが伝わるよう、慣れない大声を張り上げる。ついでに身振り手振りを加えると、初めて霊は顔を上げた。
「ここにいても寒いだけです! ほら、あっち!」
『……』
霊は
「私はここを出ます。あなたもこんな場所に縛られていないで、別の場所に行ってみてはどうですか。ここだけの話、神殿の幹部会議室はいつも暖かいのでお勧めですよ」
『……』
私の言葉に、霊は何も返さない。結局彼女は視線を天井へと戻し、ぼうっと宙を眺めるのだった。
伝わったのかは分からない。だが、できることはした。これ以上の干渉は必要あるまい。
「もしかして、そこに霊がいるのか」
アドラスさんは興味津々な様子で目を見開く。私が「はい」とうなずけば、彼は小さく感嘆した。
「すごいな。俺には、聖女殿が壁に話しかけているようにしか見えなかったぞ」
失礼な発言に聞こえるけれど、どうやら本気で感心してくれているらしい。事実、彼の瞳は少年のように輝いていた。
「これは期待できるな。さあ、行こう」
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