単話集
斯波らく
さくらんぼの食レポ、または官能小説。
薄手の造りの白磁小皿に、赤い小さな魅惑の果実が座り、やや緊張しているような顔を見せる。緊張しているのはこちらの方かもしれず、それが相手のものと錯覚をしている感じもする。
天井を向いたへそから伸びる、くすんだ緑色の軸が、ややカーブを描いて、しかししっかりと固い。指で弾くと形そのままに倒れる。二本指にわずかな力を入れて、軸の先の球になった部分を持つ。持ち上げるとたわわなる実の重みが伝わる。
表面についた水は弾かれ、艶やかな赤肌の上に張り付いている。暑い日にかく汗のような大粒の水。このさくらんぼが人だったら、香水など付けなくても内側からかぐわしい花の香りがするだろう。香りが届くほどに体を近く寄せた時には甘酸っぱさを予感するが、深く吸うとただ控えめな甘さがあって、それを感じたところから、こちらの身が溶けるような思いをするだろう。この人の汗ならば、汗として汚くあれと思っても、どうしても清らかで美しくなってしまう。
汗を拭うように舐めてみても無味無臭で味気なく、早く飛びつき赤い皮膚を破ってクリーム色の中身を舌で転がしながら奥まで味わいたいとさえ思う。しかしまだ、このさくらんぼの張りも色も重さも分かっていないのだから愛で足りておらず、すぐ食べるには惜しい。勢いで最後までしてしまえば必ず後悔することが、このさくらんぼを
水たまりが出来ている。上のへその下にひとつ、下のしりの先にひとつ。上は
耐えきれず口を開いてみを寄せる。指先に力を込めて軸を切り離す。中に大きな種を抱えた、み。舌上に重くて軽い確かな存在。「自分の中に入れてしまった」「ようやく自分の中に入れることができた」相反する二つの感情がまだあって、少し舌先で転がす。転がして
未練を断ち切るために、そして食べたいという欲を満たすために、私の熱で少しぬるくなったさくらんぼの、私と一体化しかけているさくらんぼの、最後のバリアを破る。プチリと噛んでジワリと広がる甘みに、ユルリととろける頰の感覚。
慣れた仕草で種と可食部を取り外し、種だけを外に逃がす。口の中では甘美な喜びが踊る。見えはしないが、半透明に輝くクリーム色のやわらかな肉が、液を垂らしながら私の中に取り込まれようとしているのを想像する。ゆっくりと、じっくりと、噛み、転がし、目を閉じて感じる。いつの間にか飲み込んでしまい、次のさくらんぼへを手を伸ばしてゆく。
いくつか積まれたさくらんぼを食べ尽くすと、並んだ種は頭蓋骨のように、軸は剣のように、戦いに敗れた兵士たちの墓だった。生ゴミの袋に一気に入れられたそれは、黄泉の国に行ったイザナミのごとし。私は、変わり果てた姿への恐ろしさと悲しみを最後に味わうのだった。
赤い小さな魅惑の果実。
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