11.緑陰

 少女はずっとずっと憧れていた。

 大きな大きな緑の木の下で、お姉さんに物語を読んでもらう、そんな場面に。

 黄金の昼下がり、木漏れ日の大きな木の下で物語を読んでもらう。そんな場面から始まる小説があった。その主人公は退屈だったというけれど、物語を聞いた少女にとってはどこか優雅に見えて、機会があることをずっと夢見てきたのだった。


 この世の中はつまらない。目の前に起こることしか信じてはいけないという。

 空想ばかりしていられたら良いのに、親や学校の先生は「そんなつまらないことをしている暇はない」なんていう。

 つまらないかどうかなんて、自分が決めることなのに。

 少女はそう思うも、それを伝えるすべはない。

 少女がこの高原へ越してきたのは数ヶ月前。姉の患う病気の療養のため、家族皆で空気のきれいなこちらへやってきたのだ。


 姉の調子は徐々によくなっているようだった。

 父も母も、姉ばかりを見ている。当然だ。自分は身体に悪いところもなく元気であるから、心配されるような子どもではない。

 それが寂しいとは、言えなかった。


 少女は、緑陰の下で本を開いた。

 挿絵の入っていないこの本は、読書好きの母の部屋から持ち出してきた。字も小さく漢字も多いこの本はまだ早いよ、と母からは言われてしまったし、少女自身もそれはちゃんと分かっている。

 少女ははやく大人になりたかった。大人になれば、自分の好きなもの、大事にしたいものを守れるようになると思ったから。

 少しずつ背伸びをしていれば、少しずつ大人ができることに手を伸ばしていれば、はやく大人になれる気がした。


 開いた本の文字を目でゆっくり追っていく。分からない文字も多く、そのたびに視線がそこにとどまった。

 首を傾げていても分からないのは、彼女自身がいちばん良く分かっていた。

 どことなく自分の限界に失望しながら、少女は本を閉じようとした、その時だ。


「『屋上へ向かう螺旋階段を一歩一歩のぼるにつれて、由紀子は胸の鼓動が高鳴るのを感じた』ーー難しい漢字がたくさんだね」


 声は頭上から聞こえた。少女は驚いて上を見上げる。

 青々とした木の枝に、ひとりの女性が座っていた。少女よりも年上、姉と同じくらいの年に見えた。薄青のワンピースの女性は、目が合うとにっこり笑って手を振った。


「いつもここで、その本を開いてるでしょ? 私も続きが気になってね」

 はじめまして、と挨拶をすれば、彼女はそう返事をした。少し前から、自分とその本を眺めていたのだという。

 物語の先が知りたくて降りてきちゃった、と彼女は続けた。

 降りてきた、というけれど、彼女はまだ木の上だ。少女は首を傾げる。

 その疑問に木の上の彼女も気がついたようで、少しためらったようだが彼女はストンと少女のそばへ降りてきた。

「読んであげようか。その本」

 女性は、少女の抱えた本を指差した。少女は女性と本を代わる代わる見て、じきに彼女の言葉の意味を理解した。

 そしてそれが、自分の「憧れ」につながると思った。

「いいの!?」

「これでも昔は、女優になりたかったんだ。本読みだって練習してたんだよ」

 彼女は木の幹に背を預けるようにして座った。とんとん、と隣に座るよう芝生を叩く。少女は促されるままそこへ腰を下ろした。

 本を渡そうとすると、女性はそれを断り少女がページをめくるように言った。その方がいいよ、と言う意味は分からなかったが、この本は元々母のものだ。自分がこの場にいるとはいえ、人に渡すのは良くないかもしれない。

 少女は本の表紙を開く。それを女性がそっと覗き込む。肩に触れる彼女の肌はひんやりとしていた。

「『常夜灯の消える夜』」

 題名を読む彼女の声は、話をしているときより少し落ち着いて凛と響いた。

「『出逢った瞬間に、分かったのだ。私は、この人と最期を共にするのだとーー』」


 黄金の昼下がり、美しい女性の朗読が伸びやかに木陰から響いた。

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