乙は玉手を渡さない

「おはようございます、真崎」


 窓から射し込む朝の日射しの中。身体を起こした屋代さんが、にっこり微笑んでいた。

 カーテンの隙間から覗く綺麗な青空。身体が痛い。ベッドに突っ伏したまま、寝てしまったみたいだ。遠くでスズメがさえずっている。


「何、ぼんやりしてるんですか?朝ごはんはまだですか…―へっ、へっ、へっくちゅん。んぐっ、あぁ、もうっ。最近 掃除をしてませんね、真崎ぃ」

 ずっと寝ていたのが嘘みたいに鼻水をすする彼女。何て言ったらいいのか分からなくて ただ見つめていると、部屋の扉がガチャっと開いた。


「おはよう、真崎。ご飯できたぞー!おっ、屋代さんも目が覚めたか。

 無事直ったみたいでよかった、よかった」


 色褪せたアロハシャツの日焼け男。…あぁ、彼に会うのは何年ぶりだろう。


「…父さん」

 木下きのした浦路うらじ。文化人類学者でありながら、AI研究の最前線で活躍する技術者。そして、屋代さんの製作者で、僕の生物学上の父親だ。


**************************************************


「――で、三ヶ月も屋代さんのこと寝かせっぱなしで、家の中も放ったらかしだったってわけか」

 豪快にサンドイッチを頬張る父さん。大きなジョッキに注いだ牛乳をぐっとあおる。

「お前もまだまだひよっこだな」

 健康そうな日焼けした顔に真っ白な歯が光った。フィールドワークと言って、いつも世界を飛び回っているからだろうか。相変わらず、体育会系な雰囲気の父さん。


「でも、料理はすっごく上手くなったんですよ」

 僕が黙っていると、屋代さんが口を挟んだ。

「和洋中華はもちろん、いろんなお菓子も作れますし、残り物をパパっとアレンジするのも上手です。特に、カレーの翌朝に真崎が焼いてくれるスパイシーなチーズフレンチトーストが私は好きです。あと、この前のトマトのお味噌汁も爽やかで飲みやすかったですし、ピクニックのときのおにぎりも――」

 あまりに彼女が褒めるから、僕は恥ずかしくって全身がむず痒くなってしまう。

 恐る恐る横目で父さんを見ると、真剣にうなずきながら、聞いていた。

「ふんふん、そうかい。

 ……うん、そうだな。記憶データの欠損も問題はなさそうだな」

 父さんは満足そうに呟くと、立ち上がってお皿を片付け始めた。

「真崎、屋代さんのアップデートした箇所についての仕様書は共有フォルダに入れておくから、あとでチェックしとけよ」

「え?」

「今回は復旧できたけど、次回はどうなるか分からんだろ?だから、サーバーに逐一ちくいちバックアップをとるようなシステムをつけたから」

「は?」

「ホントはちゃんと説明しときたかったんだけど、父さんまだ仕事が途中だから、すぐ戻らなきゃいけないんだよ、すまんな」

 茫然としているうちに、さっさと支度を済ませる父さん。

「まぁ、また何かあれば連絡してくれ」


 がちゃんっと、玄関の扉が閉まる。

 僕の返事を待つことなく、慌ただしく出ていった。きっと次に帰ってくるのは数年後だろう。

 もしかすると、父さんに会うのはもうこれが最後だったのかもしれない。


 しんと静まり返った居間がパァーッと明るくなる。

 太陽が雲から顔を出したのか。ガラス越しに射し込む夏の日射しに照らされて、僕はようやく、外でセミが鳴いていることに気がついた。


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