乙は玉手を渡さない
「おはようございます、真崎」
窓から射し込む朝の日射しの中。身体を起こした屋代さんが、にっこり微笑んでいた。
カーテンの隙間から覗く綺麗な青空。身体が痛い。ベッドに突っ伏したまま、寝てしまったみたいだ。遠くでスズメがさえずっている。
「何、ぼんやりしてるんですか?朝ごはんはまだですか…―へっ、へっ、へっくちゅん。んぐっ、あぁ、もうっ。最近 掃除をしてませんね、真崎ぃ」
ずっと寝ていたのが嘘みたいに鼻水をすする彼女。何て言ったらいいのか分からなくて ただ見つめていると、部屋の扉がガチャっと開いた。
「おはよう、真崎。ご飯できたぞー!おっ、屋代さんも目が覚めたか。
無事直ったみたいでよかった、よかった」
色褪せたアロハシャツの日焼け男。…あぁ、彼に会うのは何年ぶりだろう。
「…父さん」
「――で、三ヶ月も屋代さんのこと寝かせっぱなしで、家の中も放ったらかしだったってわけか」
豪快にサンドイッチを頬張る父さん。大きなジョッキに注いだ牛乳をぐっと
「お前もまだまだひよっこだな」
健康そうな日焼けした顔に真っ白な歯が光った。フィールドワークと言って、いつも世界を飛び回っているからだろうか。相変わらず、体育会系な雰囲気の父さん。
「でも、料理はすっごく上手くなったんですよ」
僕が黙っていると、屋代さんが口を挟んだ。
「和洋中華はもちろん、いろんなお菓子も作れますし、残り物をパパっとアレンジするのも上手です。特に、カレーの翌朝に真崎が焼いてくれるスパイシーなチーズフレンチトーストが私は好きです。あと、この前のトマトのお味噌汁も爽やかで飲みやすかったですし、ピクニックのときのおにぎりも――」
あまりに彼女が褒めるから、僕は恥ずかしくって全身がむず痒くなってしまう。
恐る恐る横目で父さんを見ると、真剣にうなずきながら、聞いていた。
「ふんふん、そうかい。
……うん、そうだな。記憶データの欠損も問題はなさそうだな」
父さんは満足そうに呟くと、立ち上がってお皿を片付け始めた。
「真崎、屋代さんのアップデートした箇所についての仕様書は共有フォルダに入れておくから、あとでチェックしとけよ」
「え?」
「今回は復旧できたけど、次回はどうなるか分からんだろ?だから、サーバーに
「は?」
「ホントはちゃんと説明しときたかったんだけど、父さんまだ仕事が途中だから、すぐ戻らなきゃいけないんだよ、すまんな」
茫然としているうちに、さっさと支度を済ませる父さん。
「まぁ、また何かあれば連絡してくれ」
がちゃんっと、玄関の扉が閉まる。
僕の返事を待つことなく、慌ただしく出ていった。きっと次に帰ってくるのは数年後だろう。
もしかすると、父さんに会うのはもうこれが最後だったのかもしれない。
しんと静まり返った居間がパァーッと明るくなる。
太陽が雲から顔を出したのか。ガラス越しに射し込む夏の日射しに照らされて、僕はようやく、外でセミが鳴いていることに気がついた。
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