虚構エッセイ第3集「森の詩人」編
高階經啓@J_for_Joker
第1話 【北極星の生まれるところ】SFPエッセイ201
【北極星の生まれるところ】夜、空一面に光の粒がばらまかれる。星さ。じっと見てるとみんな動いてる。中に一つだけピクリとも動かない星がある。北極星っていうんだけど、見たことあるかな? 実はもともと北極星ってなかったんだよ。どうやって生まれたか知りたいかい? #140SFP
*
「お客様の中に、般若心経を暗唱できる方はいらっしゃいませんか?」
キャビン・アテンダントに呼びかけられて、軽く手を上げる。眉間のあたりにかすかに緊張を漂わせてCAが歩み寄ってきて言う。緊張感のせいもあって冷たい印象ではあるが、吸い込まれるような目をした美しい人だ。
「お客様は、般若心経を暗唱なさるのですか?」
「はい」
「何も見ずに?」
「はい」
「失礼ですが、お坊さまでいらっしゃる?」
「いえ。お坊さんではありませんし、仏教を信仰しているわけでもありません」
「でも暗唱おできになる」
「はい」
「実は」
CAは般若心経の暗唱が必要になった理由を事細かに説明してくれる。それはかなり込み入った事情だが、とにかく急を要することはよくわかる。ものごとを整理してわかりやすく伝える人を見ると無条件に心惹かれる。このCAはいい。外見だけでなくいい。ほれぼれとその話しぶりを見つめていると、それに気づいたCAは、ややとまどった表情になる。すぐさま顔つきを引き締めて改めてわたしに確認する。
「ですから、唱え始めてから、覚えていませんでしたではすまないのです」
「承知しました。途中でつっかえることなく、よどみなく暗唱します」
「いまご説明した通り、何回も繰り返していただくことになります」
「回数が多ければ多いほどいい」
CAの説明に出てきた表現を繰り返す。
「はい。回数が多ければ多いほど解決に向かいます」
「途中でつっかえたり、回数が足りなかったりすると」
一瞬CAが笑ったように見えたがそれは錯覚で、全く逆だった。
「望ましくないことになります」
「例えばつい……」
「お客様!」
墜落、という言葉を言いかけたのだが素早く遮られた。それからCAはゆっくりと首を横に振った。まわりにも乗客のいるところで話すことではないということだろう。
「本文だけなら1分ジャストで暗唱できます。それでよろしければ」
「本当ですか?」
喜ぶと思ったら険しい顔つきになった。信じてもらえないらしい。
「本当です。正確には59秒フラットで読めます」
CAはほんの一瞬迷ったようだったが、事態が差し迫っていることから決断したようだ。
「では、こちらに。ご案内いたします」
「ぼくでお役に立てれば」
というようなことが起きないだろうかとよく想像する。
般若心経を覚えてみようと思い立って、身につけた。身につけたはいいが、誰の役に立つわけでない。毎日坐禅を組むときにひとさらい諳んじてそれで終わりだ。ふとしたきっかけで坐禅を組んだり、般若心経を諳んじたりすることになったが、別に仏教に帰依するわけでもない。普段はずっと言葉や論理や思考で埋め尽くされている頭と体をいっとき解放するのが目的だ。ごちゃごちゃ考えない。ただすわり、ただ唱える。
もちろんそれでいいのだが、ときどき、せっかく身につけたものを何かに活かせないだろうかと考えてしまう。それがもう邪念だと言われればそれまでなのだが、別に悟りを開いたわけでなく、悟りを開きたいわけでもないので構わない。覚え始めて1ヶ月くらいかけて最初の3分の1、気を変えて終盤の3分の1、それから中盤の3分の1という具合に取り組んで、ちょっとずつ一歩一歩確かめるように進んできた。
冒頭に出てくる五蘊(ごうん)というのが、それに続いて出てくる色(しき)と受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)の5つのことで、人間が世界を認識する方法を非常に分析的に表したものだと知って感動していたら、それが全部空(くう)だと言い放たれて、そのあまりにロックなスタンスにしびれてしまう。
さらに続いて「生まれることもなければ滅びることもない、汚いということもなければ清いということもない、増えることもなければ減ることもない」なんて畳み掛けるのはもうジョン・レノンの「イマジン」そっくりだ。いや、ジョンが般若心経を知って「イマジン」を書いたんだろうけれど、とにかくすごく力強い。
そんな具合に意味を調べたり、終盤の是大神呪(ぜだいじんしゅ)に始まる頭韻と尾韻を4回続けて重ねたパートのドライブ感が半端なくてほれぼれしたり、末尾に出てくるマントラがそこだけ漢訳ではなくオリジナルのサンスクリット語の音をそのまま再現していると知って「あ! そこは音重視なんだ!」とワクワクしたり、そんな感じで「だいたい頑張れば思い出せる」程度に暗記するのに1カ月ほどかかった。
それやこれやで何度も繰り返していくうちになんとか頭からお尻まで通して暗唱できるようになって、やがて全くつっかえることなく暗唱できるようになって、気が付いたらいちいち頭で考えることなくするすると暗唱するようになっていた。ふと思いついてホーメイで一人ハーモニーをやりながら「演奏」できるようになって、そんなことをやるうちにスピードも自在にコントロールできるようになって、読経のペースで読むことも、早口言葉並みに読むこともできるようになり、全部をワンブレスで暗唱できるようになっていた。
ここまでくると、やはりわたしは俗人なので、これを何かに活かせないだろうか、誰かこういう特殊技術を必要としてくれる人はいないだろうかと考えてしまう。考えてしまうが、思いつくのは「お客様の中に〜」がせいぜいである。つまりわたしの般若心経に出番はない。
仕方がないので、赤ん坊が泣いたときにだっこして庭先に出てぶらぶら歩きながら、超低音の倍音唱法で般若心経を唱える。泣いた赤ん坊を寝付かせるのにぴったりなのだ。だいたい一回そらんじる頃には寝付いている。屋内でやると、どういうわけか母親、つまり妻を起こしてしまうので外に出る。外に出て星など眺めながら観自在菩薩と唱え始める。
見上げればいつも北極星が同じ場所にある。同じ場所にあるけれどあれも空(くう)だ。北極星が見えていると思っているわたしの感覚も認識も空(くう)だ。北極星なんてものはないし、それでも北極星はそこにある。今見ている光は433年前の光だし、今そこにある保証はどこにもない。もっとずっと前には存在もしなかっただろうし、もっとずっと後には存在しなくなっているだろう。
そんなことを思ってツイートしてみた。どこかでぽつんとした気分の眠れない子どもがいて、ツイッターを眺めていたら読んでくれるようにと、ハッシュタグをつけてみた。大きな災害が起きて避難生活をしている子どもたちのもとに届けるためのハッシュタグと聞いたから。不思議な気持ちになるけれど、これはぐっすり眠れるおまじないのようなもの。わたしの般若心経は子どもたちをぐっすり眠らせる役に立てば、それでいい。
(「【北極星の生まれるところ】」ordered by 松田 祐司 -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・高階の暗唱能力などとは一切関係ありません。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます