第27話 水鉄砲

 

庭にやってきたモンシロチョウは、ゆったりとあたりを回遊して、どこかへ帰って行った。


 瑛太郎えいたろう志憧しどうがごまかさずに杏珠あんじゅに伝えたことを感心していた。彼女がいずれ、標本のつくりかたも自分が口にしている肉がどうやって食べられる状態になっているのかも、自然に知るときまで濁しておくことだってできるはずだ。それを、曲げることなく伝えた。


「すごいですね」


「え?」


「さっきの蝶の話・・・僕だったら、適当にごまかしたと思います」


「遅かれ早かれいずれわかることですし、杏珠はなんでも本当のことを知りたがるので」


 杏珠はすっかり気を取り直し、今は庭に出て水鉄砲で遊んでいる。強い日差しに反射してイヤリングがキラキラ輝いていた。


「ごまかせないんです。彼女にはすべて見透かされていて」


「・・・・・・」


「この間、不思議なことを聞かれました」


「不思議なこと?」


「・・・瑛太郎さんよりも自分のことを好きかと」


「えっ・・・?!」


 瑛太郎の隣に座っていた志憧は、笑顔のまま振り向いた。瑛太郎は笑えなかった。


「どう・・・答えたんですか?」


「・・・答えられませんでした」


 こんな小さな少女が、そんなことを父親に。元気にはしゃぎ回る杏珠の後ろ姿からは想像も出来ない。


「見ていたのかもしれません。あの・・・晩のことを」


 瑛太郎の喉が上下してごくりと音を立てた。杏珠が見ていたということにも驚いたが、あの晩の出来事は瑛太郎の妄想ではなかったことが、なにより驚きだった。


「僕は死ぬまで杏珠の父親でいるつもりです。父親でいる間は、亡くなった人間を忘れずにいられるからです。でも・・・」


 杏珠が発射した水鉄砲の水が、物干し竿に当たってカン、カンと鳴った。一瞬そちらに気を取られたが、志憧は杏珠から目をそらすと瑛太郎に向き直った。


「瑛太郎さんは・・・どうして僕と?」


「それは・・・」


「僕はあなたに甘えた。寂しさを埋めてくれると思ったから・・・でも、あなたは?」


「・・・・・・従兄弟に、似ていたんです」


「従兄弟?」


「初恋の相手でした。学生時代に自分の気持ちに気づいて・・・結局伝えることはできませんでしたけど」


 志憧の顔に、従兄弟の顔を重ね合わせる。改めて見ても造りは違うが、やはり雰囲気は似ている。しかし時間が経つにつれて、従兄弟に似ているというのは言い訳となり、瑛太郎は志憧本人に惹かれた。


「だから僕にも理由があるっていうか・・・」


「・・・・・・」


 純粋な想いで近づいたわけではなかったことを告白するのはやはり心苦しい。志憧の横顔を見ながら、瑛太郎は言った。


「で・・・でも、今は違うんです。もう、従兄弟に重ねて志憧さんを見ていません」


「・・・・・・」


「志憧さんは杏珠ちゃんの父親だし、亡くなった恋人を忘れられないことは・・・重々承知しています」


「・・・瑛太郎さん、それ以上は・・・」


 志憧が言葉を遮ろうとしたのをさらに遮って、瑛太郎は志憧の手を握った。


「瑛太郎さ・・・」


「あなたが好きです。好きになってしまいました」


「杏珠が・・・っ」


 視界の端に確かに杏珠が見える。まだ部屋の中の様子には気づいていない。


「僕はあなたも杏珠ちゃんも、本気で大切にしたいと思っています。・・・駄目ですか」


 志憧は答えず、瞬きを繰り返した。


「あなたに向き合いたいんです」


「瑛太郎さんっ・・・」


「僕と付き合ってください」


「それ・・・は・・・」


「好きなんです・・・離れたくない」


 瑛太郎は思い切った行動に出た。志憧を抱き寄せ、強引に唇を合わせた。普段なら杏珠がすぐ側にいて、そんなことはしない。なのに今日は止められなかった。


「・・・ぅんっ・・・」


 志憧は慌てて、瑛太郎の胸を押し返そうとした。瑛太郎は自分でも驚くほどの力でそれを阻止した。舌を差し込み、腰を引き寄せ、無我夢中で唇を重ねた。

 その時、背中に冷たい刺激が走って、瑛太郎はとっさに志憧の身体を離した。


「だめ!」


 聞いたことのない強い口調で、杏珠が叫んでいた。ベランダの入口で仁王立ち、手には水鉄砲。打たれた水で瑛太郎の背中はびしょびしょだった。


「杏珠!」


「しどう!しどう!」


 杏珠は瑛太郎を押しのけ志憧の胸に飛び込んだ。そして必死の形相で振り向くと、瑛太郎に向かってこう叫んだ。


「しどうをとらないで!」


「杏珠ちゃん・・・」


「しどうはあんじゅのだから、だめ!」


 杏珠は涙を目に溜めていたが、泣いているというより怒っていた。今までおにいちゃん、と言って懐いていた杏珠とは別人だった。片方の耳から、瑛太郎のあげたイヤリングがはずれ、かしゃんと落ちた。

 志憧は杏珠を抱きしめ、なだめるように背中を撫でた。大人の男二人がなにをしていたのかを幼いながらも感じ取った杏珠は、もう瑛太郎のことは見ようとせず、志憧の首に巻き付いて泣いていた。


 瑛太郎は急激に我に返り、大変なことをしでかしたことに気づいた。そして、なにも言わずに二人の家を飛び出した。


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