第26話 標本


 インターホンを押す指がかすかに震える。無人の家に入ってから二週間。遊園地で買った杏珠あんじゅへの土産を持って久しぶりにこの家を訪ねる。

 蝶の形のイヤリングと、志憧には来る途中でよく冷えたビールを買った。二回呼び出し音が鳴って、家の中から足音が聞こえてくる。

 がちゃ、と開いたドアの陰から、目を大きく見開いた志憧しどうが顔を出した。


「瑛・・・太郎さん?」

 

「こんにちわ・・・急にすみません」


「どうぞどうぞ。杏珠が喜びます」


 無人の家に入ったことは言わなかった。気づかれていないのかもしれない。いつもどおりの志憧に促されるままリビングに入ると、今までで最も真剣な顔をして本を読んでいる杏珠がいた。


「杏珠、瑛太郎さんだよ」


 志憧が言うと、真剣な顔のまま杏珠は瑛太郎を見た。一瞬驚いたように見えたが、すぐにいつもの笑顔になった。

 

「おにいちゃん!」


「杏珠ちゃん、ひさしぶり。・・・それは?」


 杏珠の前には分厚い本が開かれていた。


「これね、としょかんで借りたの!むしの本」


「昆虫図鑑か」


 背後から志憧が麦茶を入れたグラスを持ってやってきた。


「女の子だから気持ち悪いって言うかと思ったんですけど、なんだか気に入ったみたいで」


 確かにたいがいの女の子は気味悪がるのが普通だ。開かれていたのは蝶のページで、モンシロチョウやアゲハチョウが紹介されていた。


「おにいちゃんみて、これ、アデハチョウ、きれいでしょ」


 アゲハ、と言えていない。瑛太郎はうん、と答えて杏珠の横に腰を下ろした。蝶を気に入った杏珠に、ちょうどいい土産だ。


「蝶が好きなの?」


「うん。あとね、てんとうむしもすき」


「そっか。・・・杏珠ちゃん、あの、ちょっと目をつぶってくれる?」


「目?」


「そう」


 瑛太郎はバッグの中からイヤリングの包みを取り出した。杏珠はぎゅっと目を閉じて待っている。志憧は瑛太郎が包みから取り出した子供用のアクセサリーに少し驚いたようだった。そんな志憧に目配せをして、瑛太郎は杏珠の耳にイヤリングをつけた。


「目を開けていいよ」


 おそるおそる瞼を開けた杏珠は、自分の耳たぶをそっと触った。志憧はキッチンから小さな鏡を持ってきて、不思議そうな杏珠の前に差し出した。杏珠は光を反射して輝くクリアのイヤリングにテンションを上げた。


「ちょうちょだ!」


「どうかな・・・こういうの好き?」


「きれい!好き!」


「杏珠、瑛太郎さんにありがとうは?」


「おにいちゃんありがとう!」


 杏珠は何度も鏡の前で透明な蝶を揺らし、キラキラさせた。その喜びように思い切って買ってきてよかったと瑛太郎は思った。紗耶さやも母親に買ってもらったイヤリングを喜んでいたが、彼女ならそろそろ飽きた頃合いだ。


「瑛太郎さん、ありがとうございます」


「いえいえ、蝶が好きだったなんて、ラッキーでした」


「ご旅行に?」


「あ、いえ、姪っ子の付き添いで○○町の遊園地に・・・」


 言い掛けて瑛太郎は言葉を濁した。もしあの丘に立っていたのが本当に志憧と杏珠だったら、と考える。見かけたのに知らない振りをするのはどうなのか?でも彼らは瑛太郎に気づいていなかったし、ほんの数分のことだ。


「遊園地ですか。いいですね、杏珠がもう少し大きくなったら連れて行ってあげたいです」


 杏珠は身体が小さく、紗耶よりも乗れるものが少ないだろう。そういう理由であの公園にいたのだろうか。  

 と、杏珠が大きな声を上げた。


「志憧!おにわ!おにわにちょうちょいる!」


 杏珠はベランダの窓に貼り付いていた。近づくと、庭の物干し竿に、一匹の蝶が翅を上げて休んでいる。


「アデハチョウかな?」


 わくわくした様子の杏珠に、志憧がやさしく言った。


「あれはモンシロチョウだよ。きれいだね」


「志憧、取って」


「取ってどうする?」


「かざるの!」


「杏珠、あの蝶は生きてるんだぞ。飾ることはできないよ」


「だって、この本のちょうちょ、かざってあるよ」


 図鑑には、標本にする方法も載っていた。当然杏珠は、蝶を殺してから標本にすることをまだ理解していない。それをどう説明するのか志憧を見ていると、彼は杏珠を座らせ図鑑を開くと、同じ目線まで下がってこう言った。


「よく見てごらん。この蝶のおなかになにがある?」


「おなか・・・・・・あっ!」


 針を刺された蝶を見て、杏珠は両手で口を覆った。正確にはその針で死んだわけではないが、子どもには衝撃的な映像だったようだ。


「杏珠、もしおなかに針を刺されたらどうだ?」


「や・・・やだ!痛いのやだ!」


「だよな。針を刺されたら、ちょうちょはもう飛べなくなるんだぞ」


「そ・・・そうなの?」


「飾ってあるのは、死んでるんだよ。わかるか?」


 杏珠の目が潤みだした。自分が言ったことの意味を理解したようだ。


「・・・このちょうちょ、死んじゃったの?」


 図鑑を指さし、杏珠は言った。そうだよ、と志憧が答えると、手の甲で目の回りをぐいっと拭った。


「だからあの元気なちょうちょは、逃がしてやろうな」


「うん」


「いい子だ」


 志憧は杏珠の頭を撫でた。彼女の耳元で、しゃらん、とイヤリングが音を立てた。






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