第9話 団扇
外回りの途中、
コンビニの近くにある公園のベンチは日陰になっているが、気温が高過ぎてまったく涼しくない。とりあえず、かき氷の蓋を開けた。
どぎついピンクのシロップとクリームの入ったかき氷。この際冷たければなんでもいいと選んだ。体の中から少しずつ冷えていくのが心地いい。それでも汗は止まらず、スラックスのポケットからハンカチを取り出した。が、すでにしっとりと濡れている。ここに来るまでに何度も何度も汗を拭った。やれやれ、と言いながらポケットに戻した時、ふと頭上が暗くなった。
「こんにちわ」
瑛太郎が顔を上げると、そこに立っていたのは
「こ・・・・・・こんにちわ」
「暑いですね」
志憧は少し間を開けて、瑛太郎の傍らに腰を降ろした。瑛太郎は汗だくだというのに、志憧は涼やかに微笑んでいる。その額に汗も滲んでいない。
「よかったらどうぞ。使ってください」
志憧はタオル地のハンカチを取り出し、瑛太郎の前に差し出した。
「いや、あの、平気です」
「でも、汗だくでしょう」
「あ、はは・・・・・・」
そのとおりなのだが、どうにも気まずい。しかし自分のものは使い物にならない。瑛太郎は差し出された志憧のハンカチを受け取った。それを広げて額の汗を拭った。このハンカチがあれば、洗って返す時に志憧に会える。そんなやましいことを考えながら瑛太郎は首筋の汗も拭った。
「かき氷ですか」
気がつけば、暑さでただの甘い色水になっていたかき氷。そもそも口をつけたものを勧めるわけにはいかないが、幸い水のボトルは手つかずだ。
「こ、これ、飲みませんか」
「え?」
「ハンカチのお礼に・・・まだ冷えてます」
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
志憧はボトルを手に取り、キャップをひねった。勢いよく水をのどに流し込む志憧を、瑛太郎は横目で見た。
上下する喉仏、濡れた唇。
「助かりました。のどが渇いていて」
「いいえ、こちらこそです、あの・・・」
瑛太郎ははたと思い出した。ついさっき取引先から、相手の社名の入った団扇を貰ったのだった。扇いだところで熱風だが、ないよりはいい。
「使いますか、団扇」
鞄から出した団扇を見ると、志憧の顔が子供のようにぱっと明るくなった。そして柄を持つと、嬉しそうに自分の顔を扇いだ。
「涼しい」
志憧のそんな顔は初めて見た。瑛太郎はつられて笑った。
「今度の日曜日、杏珠と海に行くんです」
志憧は団扇をゆっくり上下に動かしながら言った。
「日曜日、お仕事ですか」
瑛太郎はそれが自分に尋ねられているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「い、いいえ、休みです」
「よければご一緒にどうですか。杏珠が瑛太郎さんを誘ってほしいと」
「え・・・っ?」
「隣町の海水浴場です。どうですか」
「あ・・・ありがとうございます、じゃあ、あの、お言葉に甘えて・・・」
「良かった、杏珠に伝えます」
志憧は立ち上がった。水のボトルと団扇を持って、いただいても?と言った。どうぞ、と答えると、志憧は瑛太郎ににっこり笑い返した。日曜日の朝、最寄り駅で、と言って志憧は公園を出て行った。
瑛太郎は志憧のハンカチを持ったまま、あることを考えていた。
志憧に会ったのは三回目。今まですべて偶然だ。花火のとき、名字を伝えた。名前までは伝えていなかった。
でも志憧ははっきりと、「瑛太郎さん」と言った。
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