第29話 信じるもの



 聡が戻って来てすぐ、七森はリビングのカーテンを閉めて、こちらをまだ見ている女の顔を遮断した。

 こちらの声が聞こえているのかわからないが、気になって仕方がない。

 修一の話に集中したかったのだ。

 冴をあんなにも拒絶した理由、なぜ七森が関係あるのか聞きたかった。


「優人、お前ももう大人だ。全部話してやる。俺の知ってる限り————聡、お前もこの話を聞いたら、あの娘とは関わらない方がいいとわかるだろう」



 ◆



 あれは優人がまだ小学生に上がる前だ。

 優人の本当の母親————香澄かすみは、水神会という宗教団体の信者だった。


 香澄が嫁いだ先が、そういう宗教の信者の家だとは知らなかったんだ。

 ただ普通に、幸せに田舎で暮らしているものと俺は思っていた。

 嫁いでからは実家にもほとんど帰って来なかったし、俺はたまたま出張先が近かったから久しぶりに会おうとその家を訪ねた。


「兄さん、久しぶりね」

「ああ、元気だったか?」


 口ではそう聞いていたが、元気そうには見えなかった。

 かなり痩せた気もしたし、しばらく会っていないとはいえ、老けたようにも見えて……

 何より、目が何だかおかしいような気がした。

 ほとんど瞬きをしないというか、顔の肉が減ったせいか、常に大きく見開いているようにも見えて、なんだか気持ちが悪いと思ってしまたんだ。

 実の妹だというのに、全く知らない別人に会ったような気分だった。


「まてー!! まてえ!!」


 俺があの家に入ると、優人が走り回っていた。

 何かを追いかけて、ぐるぐると広い家の中を走り回っていた。


 優人とあったのは生まれたばかりの時に写真を見せてもらったくらいで、元気に走り回っているのを見て、聡もこのくらいの時はよく公園で虫を追いかけ回していたなと思っていた。

 最近はすっかり大人しくなってしまったけれど……


「一体何を捕まえようとしているんだ?」

「ああ、童子わらし様よ。童子と遊んでいるの」

「ワラシ……さま?」


 俺にはそれが何かさっぱりわからなかった。


「優人はね、特別な子なの。だから、私たちには見えないけど、見えるのよ」


 でも優人は確かに、そこにいる何かを追いかけていたんだよ。

 楽しそうに、鬼ごっこをしているようだった。

 霊感があるとか、そういうことだろうかとその時はあまり深くは考えなかった。

 嘘か本当かは知らないが、遠い親戚に、そういうものが見える人が何人かいると聞いたことがあったからだ。


「特別な子だから、今度のお祭りでもゴクウに選ばれてね」


 何かと無邪気に遊んでいる優人を見つめて、香澄は微笑んでいた。

「これでみんなが幸せになれる」とか「とても光栄なことなのよ」とか、そんなようなことを言っていた気がする。

 俺はその祭りがどんなものか知らないが、ゴクウという言葉を聞いて、最遊記の芝居でもするのかと思っていた。


 その後、お姑さん達とも会って、少し話をした。

 その家では香澄と優人の父親の他に、兄弟の家族とお手伝いさんらしい人も暮らしている家だった。

 少し顔を見せたらすぐに帰るつもりだったんだが、その日は明後日行われる祭りの打ち合わせを兼ねて食事会があるらしくて、大勢が集まるから一緒にということになった。

 大きな家だからか、近所の人たちも集まってきたりしていて、すごくにぎやかだったよ。


 田舎の風習なんだとうと思って、俺も空いている席に座った。

 近くに大きな湖があって、そこで獲れた魚の天ぷらや煮付け、その村で育てている野菜を使った郷土料理なんかもあって、それは豪勢な食事がテーブルの上に溢れるくらい並んでいて驚いたのを今でも覚えている。


「それでは、お手を————」


 姑がそういうと、多くの人でざわついていたのが嘘のように急に静かになった。

 そうして、そこにいた俺以外の全員が胸の前で手を合わせて、拝んでいた。


「神様……神様……」

「神様……神様……」


 正直、初めて聞いた俺にはなんて言っていたのか聞き取れなかった。

 お経か祝詞か————なんだかわからないが、神様くらいしか……

 その場にいた人たちが、皆一斉に同じ言葉を口にしていたんだ。


 あまりに奇妙な光景だった。

 そのまま深く頭を下げて、腰の曲がった爺さんも、小さな子供もみんな大人たちの真似をして頭を床に擦り付けて、尻の方が高いくらいだった。

 恐怖でしかなかったよ。


「驚いたでしょう? この辺りの人たちはみんな水神会っていうものに入るのが習わしでね、そのおかげでこんなに幸せに暮らせているのよ? これは食事の前に水神様に皆で感謝をする儀式の一つなの」

「儀式……?」

「兄さんたちも都会で暮らしていないで、こっちに来てくれれば? いつでも歓迎よ。水神様が守ってくださるし、田舎の暮らしは時間がゆっくり流れていて、とってもいいわよ」


 香澄はそう言って笑っていたが、俺に異様な光景でしかない。

 しかし、みんながそうしているから、口には出せなかった。

 おかしいとは言えなかった。

 怖くなって、俺は夕食を食べた後すぐにタクシーを呼んで宿泊先の旅館に戻ったんだ。

 あんなに美味しそうな食事も用意された酒も、怖くて全く味を感じられなかった。


「お客さんも水神会の人ですかい?」

「いえ、違いますけど……どうしてですか?」

「いや、あの家、ここらじゃ有名な水神会の集会所だけど……顔つきが違うからさぁ。やっぱり違ったか」


 たまたまその時俺を乗せたタクシーの運転手は、水神会の人間のことを知っていて、話してくれた。


「これから入信しようとしてるなら、悪いことは言わん。水神会には関わらない方がいい。昔からある宗教なんだけど、教主が変わってから信者が増えていってるみたいでねぇ、なんでもないただの水をとんでもない値段で買わされるらしいよ。確か『幸せの水』とか……そんな名前の。あの家もそうだ……水神会の信者の家には、必ず龍というか蛇というか————とにかく怪しい絵が貼ってあるから、あんまり近づかん方が……子供がいるなら危険だ」

「危険?」

「何年かに一度、祭りをやるらしいよ。あの湖————ほら、今は夜だからあんま見えんけど、大きな湖がそこにあってね、その時そこで子供を湖に投げ込んで————人身御供ひとみごくうにするって話だよ」


 人身御供————神に捧げる、生贄だ。






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