かけたもの

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かみさま、おねがい


ある暑い日。夜眠れずに昼間まで布団でぐずついている最中のことだった。


呼び鈴が鳴った。間を開けずに二回。そういえば今日は宅配で物が届く予定の日だ。酷く億劫だが再配達ほど面倒なものも無いので仕方なく怠惰から体を引き剥がし足を引き摺って玄関に向かう。その間にもう一回鳴った。

チェーンを掛け、鍵を捻る。ドアノブに掌を乗せ体重をかけた所で「あれ、」と思った。ここに来るまでに玄関前の人間は一度でも「宅配便です」と言っただろうか。

愚かしいことに、僕はそう考えながらもドアを開ける腕を引こうとしなかった。


男が立っていた。彼は僕と同じくらいの身長だったので、図らずも目を合わせる形になる。そして「それ」を見てから意識が戻ってくると、僕の喉の筋肉は一気に硬直した。さっき息を吸い込んだはずなのに吐くことが出来ない。反射的に目は大きく開いて、自体を把握しようと視線が左右に痙攣した。


目の前にいたのは「彼」だった。去年僕を心中に誘い、そして僕に埋められた「彼」だった。


それは僕を見ているのかいないのか、挨拶をするように左手を上げるとにっこりと笑った。そしてチェーンを指さし声を出さずに「あけて」と言ったように見えた。三日月の形に細められた目はもはや昔のような茶色ではなく、黴が浮かんだように白濁している。

僕はチェーンを外した。扉を開けてそれに近づき震える掌で恐る恐るそれの腕を握ると、背筋が凍るような冷たさが指先から伝わった。時間が経つ内にそれはじんわりと熱を持ち生ぬるくなる。それは振り払おうともしない。ただ不思議そうにこちらを見つめていた。そのまま指をゆっくりと滑らせ、「彼」の生白い掌に触れる。僅かに砂が残っていて、表面はさらさらしていた。ゴムのような感触の指をたぐり、絡ませ、隙間を無くす。恋人繋ぎ。暫しの恍惚の後、僕は弾かれたように手を離した。

「……ご、ごめん……はいって」

扉を開けるとそれはさも当然のように入ってきた。ひとまず玄関の鍵をかけそれをソファーに座らせる。他の場所は処方箋の袋やらダンボールやらティッシュやらが散乱していてとても座れる状態じゃない。仕方なく机の上のものだけ移動し、僕はクッションを敷いて床に座ることにした。それはその間足を閉じてお利口に座っていた。

「なにか、飲む」

それが頷いたので台所に移動し冷蔵庫を探る。おおよそ一週間ぶりに開けた。当然中身が無事なはずもなく、水で我慢してもらうことにした。コップを手渡すとそれは両手で受け取りそのまま飲み干した。袖の隙間から「彼」の黒ずんだ自傷痕が覗いた。それはコップを机に置くと手持ち無沙汰そうに辺りを見渡し、リモコンを見つけ出してボタンを弄り始めた。その中で電源を触ったのか、テレビが少しの時差を置いて午後のニュースを映し出す。黒いスーツのニュースキャスターが紙面を読み上げていた。


あの日から、ニュースを見るのが恐くなった。今にも「○○区の廃神社で男性の遺体発見」という速報が流れてきそうな気がして。しかし今画面には何かの新興宗教が大規模な集会を開いてるという文字が流れているだけだった。真っ白な服を着た人々が「終焉の日は近い」とか「××様が復活する」とか喚いて、その周囲は異常な興奮に包まれている。当の「遺体」は画面を見るのに夢中になっていた。もう一度確かめるように「彼」の腕に触れる。昔みたいに振り払われるようなこともなければ、咎めるような声も暴力も降ってこない。ぎゅう、と「彼」が痛がるんじゃないかと思うくらい強く握ってみた。

冷たかった。

それはいつの間にかニュースに飽きたのか、空のコップをじっと眺めていた。

「……おかわり、持ってこよっか」

僕が席を立つとそれは微笑みを浮かべ「ありがとう」と口を動かした、ように見えた。

瞬間、僕の中で何かが千切れる音がした。


「……っ、ふ、ふざけるな!ゆうくんはお礼なんて言わない!言わないんだよ!」

僕はそれを、我を忘れて殴っていた。手の甲が痛む。拒食に投薬で細くなった肉体の何処にそんな力があったのか分からないが、強いて言うなら「彼」に作られた僕の信仰そのものが訳の分からない叫びを上げてそれに襲いかかっていた。

何度も何度も拳を振り下ろして、やがて鈍い音が水音を含んできた頃、それは這いずるようにして僕の足元で蹲った。それから苦しげにえづいたかと思うと黒い塊を吐き出した。

「彼」の舌が音を立てて落ちた。血が通ってないそれは赤黒く青色さえ帯びていて、僕はそれを見た瞬間に涙が止まらなかった。未だ呆然としているそれの前にしゃがんで擦り寄り、白濁した瞳を見つめる。

「……ゆうくん…………もう一度僕を物みたいに扱って……僕を『お前』って呼んで……どれだけ痛くしたっていいし、どんなところでもついていくから…………」

それはゆっくりと視線をこちらに向ける。暗い双眼に息を飲んだ。あの日の「彼」にそっくりだったから。思わず「彼」を呼ぶ。「彼」はやっぱり反応ひとつしない。

代わりにそれが笑っていた。僕を嘲笑するように口を逆三角形にして、咥内から真っ黒なへどろの様なものを吐き出して噎せ返りながら、それでもなお声もなく笑っていた。「彼」の表情がそれに歪められていく。そしてそれの体内からプチ、プチリと膜を破るような音が聞こえ、口の端からミミズのような細い触手がのぞいた。それは僕の顔を両手で包み、獲物の品定めをするかのように目を覗き込んだ。それの瞳は余すところなく真っ黒だった。それを見ているとまるで深い奈落に脳が引き摺り出されていくようで、目を離すことが出来なかった。



「おい、」

───ぼうっ、としていた。「彼」の声がして慌てて意識を浮上させる。気がついたら「彼」の顔が目の前にあった。

「……ゆ、ゆうく……」

「……は?待て、なんで泣くんだよ、なぁ、」

「だっでぇ……」

怖い夢を見ていたから現実を噛み締めたいのに、ちゃんと「彼」の顔を見たいのに、それが涙で滲む。しかも「彼」を目の前にして鼻水は出るし上手く声が出ないし。情けなさでさらに涙が溢れ出てくるのに「彼」は眉を顰めながらティッシュで押さえてくれた。その優しさに、へへ、とだらしない笑いが零れる。

「ゆうくん、だいすき」

「急すぎだろ。情緒大丈夫か」

「ん、今日の僕ちょっと変かも。久しぶりにゆうくんに会えたからかな」

僕の髪を撫でる温かい手。呆れたように伏せられる睫毛。茶色っぽいきらきらした瞳。「彼」の全部愛おしくて、それをもっと感じたくて、気がついたら声に出ていた。

「ゆうくん、」

「あ?」



「キスして」

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