思い出売買

木戸

思い出売買1-1

 せっかく撮った写真が汚れたと真奈美が嘆いている。食べていたホットチキンから油が飛んで写真に付着したらしい。艶っぽくなった写真を私の顔に近づける。私と真奈美が映るところに絵の具みたいに油が広がっているのが分かる。

 夜道を歩いていた。異なる身長を並べて一戸建ての家が先まで続いて私たちを見下ろしている。街灯がちらほら設置されていて暗い道の輪郭をぼんやりと映し出していてそれを頼りに先に進む。暗くていまいちお互いの顔も確認しづらいけれど真奈美が手に持つ写真を調べる。真奈美はもう片方に持つホットチキンをまた一口くわえる。

「手汗こんな油ぎってるのお前だけだよ」

「どっちが引火しやすいか勝負するか?」

私の適当な言葉に興味無さそうに返事してホットチキンを味わう。どうやってだよ、と返す。真奈美は汚れた写真を自分の顔の前に吊るして残念そうにしていた。

「ストーブに手をかざして先に燃えた方が負け、とか?」

「燃えたら嫌だなぁ」

口の中に物を入れたまま喋る。真奈美は思ったよりもショックを受けているらしく気持ちを持ち直しそうにない。目の前に写真を吊るしてホットチキンを食している。

「ホットチキンにこんな仕打ちを受けたのは初めてだ」

「いつも幸せを分けてくれてるんだから許してやれば?」

「こんなことになって、ホットチキンの見方変わってしまう」

そこまで調べることがあるのだろうか、真奈美は吊るした写真をじっと眺める。

 一つの街灯がやけに明るくそれに引き寄せられて小さな虫たちが光を求めて飛翔している。街灯の下に楕円の明かりが落ちていて夜の闇を押し出している。一人の人間が街灯の後ろで膝を抱えていた。他の家屋と変わらない大きさの消防署の手前、道と消防署のガレージの間に少しの余裕があって、道から外れたそこに座り込んでいた。体は大きくなさそうだ。白無地の半袖の上着と黒無地の長ズボンを着ている。髪が短かくて、家出をしている男の子だろうかと想像された。

 私が横を通り過ぎるときに男の子が視線を上げた。みすぼらしさを感じさせる鋭い目をしていた。顔の半分は抱えた腕の中に沈めてどういう表情で私を見たのか掴めなかった。痛々しくてこれ以上興味を持つのは良くないと思った。

「写真は油程度でよれないしティッシュで拭きとればいいじゃん」

「ティッシュで拭きとれるものなの?」

「さあ。なんなら自然乾燥してもおかしくないし」

真奈美は汚らしいものを持つ手で私たちの写真を指で挟んでいる。もう片方の手でホットチキンを口の中に押し込む。ちらりと消防署の方に注意を向けた。

「さっきの子、大丈夫かな」

真奈美は特に心配している風でもなく言う。

「さあ、たいてい大丈夫でしょ」

私と真奈美は帰るの遅くなりすぎたかな、怒られたら面倒くさいと次の話題に移った。


 街灯がかっかっ、と配線の不調からか数瞬だけ点滅する。眩しい光が降り注いで暗い世界から僕のいる場所だけを暗さから守っている。背中を倒してガレージに触れると少しのショックでがしゃんがしゃんと大きな音が鳴る。じっとその場で膝を抱える。消防署から道に出るまでの一メートルほどの下り坂、その隅っこに肩を寄せる。ここから動きたくなくてなるべく体を小さく丸めて顔を両腕の中に沈める。羽虫が街灯の周りに群がり上下左右を見失って飛び回っている。羽のこすれ合う小さな音が集合して無音の空気から遠ざけてくれている。

 人が道で立ち止まったのが分かった。瓦張りの古風な家、玄関に柵を取り付けた家、錆びて所々赤い筋が走っている倉庫、ずんぐりした建物が道に沿っている。両端に白線を引いた道に一人の人が立っていた。こつこつと靴を鳴らす音が徐々に大きくなる。

「どうしたの? こんなところで何してるの?」

女の人らしさを含んだ柔らかい言い方だった。体を縦に折って顔の高さを揃えようとする。どんな顔をして話しかけているのかは分からない。僕は顔を腕の中に埋める。

「食べる?」

女の人は肩に提げたかばんからパンを取り出した。商品紹介の文字がカラフルでうるさい包装を開いてパンの半分をはみ出させる。はみ出したそれを僕に向かって差し出す。同じように顔を腕の中に埋めて反応を示さない。

「帰る場所はないの?」

女の人はお尻をつけずに座る。パンを差し出すのをやめて皺になった包装を伸ばす。パンを包装の中に戻してきちんと中に入るようにとんとんと揺らす。僕は三角座りを崩して消防署の前で立ち上がった。女の人は立った僕に興味を持っていたがそれを一瞥もせずに歩き出す。街灯の明かりを離れて道の白線を踏む。道路としては広くないけれど人が一人歩く分には十分に広々として、暗い中でも気ままに歩けそうだった。

「私実は迷子になっちゃったの。案内してくれる人がいないとここから動けないわ。本当に行っちゃうの?」

隣の街灯の明かりの中に入る。こちらでも同様に羽虫が狂ったように光を求めて飛び交っていた。ずっと座っていたために歩きづらさを感じたけれどそこまで気にもせず住宅の間を歩いた。


 家の戸口を開く。ドアノブの音とドアの軋む音が強調される。家の中は電気一つ点いていなくて月の光がない分、外よりも暗い。足だけで靴を脱ぎつつ手探りで壁を手のひらでとんとん叩く。スイッチを切り替えると玄関の照明が点いてぼんやりと照らし出す。玄関は靴を脱ぐ場所と横に長い靴箱くらいで居間とドアで隔てられている。ドアを開くとやはり真っ暗で物音一つしなくて再び手探りで壁をとんとん叩く。照明が点くと昼間のように居間が明るくなった。大きなテレビ、距離を開けてテレビを囲うソファ、レースのかかった窓、窓の下枠まで高さのある歴史や料理などの本が入った本棚、離れたところにある台所、テーブルとテーブルを挟んで並べられた座椅子。部屋に物は少なく散らかした物や転がったごみが無く綺麗な状態だ。居間を横断すると自分の足音がひどく目立った。

隣の部屋には天井近くまで高さのある棚があり、僕はそのうちの一段を漁った。腰あたりの高さの引き出しから一冊の本を取り出すと、その下にお金の札束が乱雑に詰まっている。帯で巻かれた札束の一つから一枚を引き抜く。取り出した本で札束に蓋をして押し込み引き出しを棚の中に戻す。手にした万札を二つに折ってポケットに入れた。

玄関に座って片足ずつ靴を奥まで通す。かかととべろを持って引っ張る。靴と足がフィットしたのを確認して腰を上げる。居間へ続くドアの窓は暗くなっていて玄関がぼんやりと明るいのみだ。玄関を一望して戸口のそばに設置されたスイッチに手をやる。スイッチを切り替えると家の中から光が消える。戸口を開くと夜の微かな明かりが部屋の中に入る。閉まる頃にはその微かな光が再び無くなってしまう。鍵をかけるとドアの中身からからくりが動く音がする。

二階建ての家屋を地面から見上げる。セメントで造られた切妻屋根が覆って、二階に大窓、一階に小窓が取り付けられている。家屋の手前に庭があり、白いコンクリートに十字に芝が植えられていて、脇に車が一台停められている。月の光が家に薄い影を作っていて、近代的な家屋から寂しさが漂っている。冷たい夜風がお腹のあたりを通り抜け体が自然と縮こまる。空気が冷たくなっていて顔の肌からその気持ちよさが感じられる。歩き出す。似たような家屋が規則的に建っていて一つずつ隣の家屋を通り過ぎる。すぐに曲がり道に入る。

そこまで身体に恵まれていなくて一歩一歩が他の人に比べて短くなってしまう。そもそも歩き方がのろのろとしていて姿勢も正せない。髪型がぼさぼさになっていて無理やり手を通して梳く。服装は大衆に紛れるようなもので、白い半袖と黒い長ズボンを着ていて胸元に外国の言語でどこかの地名みたいなのが小さく書かれている。髪を梳くのに飽きて腕が生気を失ったみたいに腰まで落ちる。道を歩いて見上げる空には星らしいものは十も浮かんでいない。半分に欠けた月が光の輪っかを作って唯一輝いている。空に向かって息を細く吐き出す。息が唇の間を吹き抜けて周りの空気の中に溶ける。

食料品店は目が痛いくらいに夜闇に光を投げ飛ばしている。店の表が窓張りになっていて駐車場を調整を間違った明るさで照らし出している。

惣菜コーナーには野菜、肉、粉ものなど既に料理されたものがパックされて陳列されている。一つの箱にまとめてお弁当として売り出しているものも多い。かごを持たずに陳列された棚を眺める。ハンバーグ、唐揚げ、照り焼き、オムレツ、鮭、鯖、主食を元に、キャベツ、レタス、卵、大豆、漬物、浸し物が添えられている。他のお客の方もかごを提げて通路を行き来して食品を手に取っている。高齢の方、男女でいる方、主婦の方、それぞれが目的を持って探し物をしていて店の中は賑やかだ。隣の人が弁当箱の一つを手に取りその中身に満足して別の通路へと離れていく。僕も一つに決めて弁当箱の一つを手に取った。ご飯とオムレツが目立つその内容に満足して総菜コーナーから離れる。

ビニール袋を腕から提げて帰路につく。お弁当の重さにビニール袋がしわを寄せて三角形になってぶら下がる。歩くたびにビニールが擦れる音がする。自転車が数台固まって道を通りすぎてちかちかと赤い光を残す。白線から膨れ上がったその集まりが電信柱を避けて遠ざかっていく。夜はどんどん深まっていて周りの家屋の輪郭が後ろに流れていくことから自分が前進していることが分かる。

袋から抜いた割りばしを二つに割ると片方が短く、片方がでっぱりを持った不格好な形になった。袋をそばによけて割りばしを手に持つ。始めはお米から食べることにした。お米を口に運んで割りばしまで唇で咥える。自宅の居間、テーブルにお弁当を広げて食べていた。ビニール袋、弁当箱のプラスチックの蓋を割りばしの袋と同じように脇によけている。

居間には照明が二つあって、テレビやソファを照らす照明は真っ暗なままで、食卓側の照明のみが光を落とした。特に見たいテレビも思いつかなかったし食べることを楽しめばそれでいいと思った。お弁当をレンジで温めることもしなかったけれど、温める必要もなくオムレツのお弁当は美味しかった。他に思うこともなくてお米とオムレツを交互に口に運ぶ。一人で食事をするのには家庭用のテーブルはどうにも広くて半分も使っていない。お弁当は彩りを持った内容になっていて食欲をそそる。半分以上残っていてまだまだ食べられる分が残っている。

食べ終わった弁当箱をビニール袋や割りばしと一緒にしてゴミ箱に捨てる。ゴミ箱の底に落ちていき蓋を閉じる。台所の流し台に置いてあったグラスを持つ。蛇口を捻り細いシルエットの水が流し台の底にぶつかる。一筋に落ちる水流の中にグラスを移動させるとグラスの中で水流が波打つ。グラスを持つ指に触れた水が皮膚に張り付いて揺れる。蛇口を閉じてグラスを口に当てる。グラスに満ちた水が口の汚れを洗い流す。喉を上下させると乾いた部分に潤いが触れるのを感じる。残りの水を口の中にためて頬を動かしてもごもごさせる。十分に口を動かしてから飲み込む。

シャワーを頭から浴びる。耳元くらいの長さの髪が水を含んで一本一本だったのが数十本ずつに固まる。固定したシャワーヘッドからの水流を風呂椅子に腰かけて浴びる。髪の隙間に指を通して汚れを洗い落とす。筋肉の少ない細い体をしていると思う。脱衣所と浴室の二室は仕切りを挟んで隣り合っている。浴室の半分は風呂桶が占めているが桶の中は空っぽで使われていない。桶の蓋が三枚重ねられて置かれている。タイル張りに風呂椅子を置いて両腕にも水流をかける。湯気が白い霧となって天井に昇り天井に雫となって張り付く。今にも自重で落ちてしまいそうな雫が大小張り付いていて、徐々にその雫が大きくなりやがて一滴の雫となって落ちる。

薄い服に着替えて居間に戻る。熱くなった体が空気に触れて温度が逃げていく。暗い部屋で食卓の側のみ電気の点いた居間で服をつまんでぱたぱたと体に空気を通す。テレビの頭上の掛け時計が一定のリズムを刻んで長針を動かしている。長針が刻むからくりの音が耳に入る。僕は衿を前後に揺らしながらその時計を見上げる。天井付近に吊るされたそれは日にちが変わる時刻に近づいていることを示している。

靴下が丸まったものを玄関近くに落として靴下の隣に腰を下ろす。背中を丸めて玄関にある一対の靴を二本の指で挟んで足元に寄せる。丸められた靴下を手に転がして結び目を探す。風呂上がりの薄い服の上にジャンパーを羽織った。茶色の、そこまで厚手でなくて熱がこもらない滑らかな生地でできたものだ。玄関に足を着けないように宙に伸ばして靴下を引っ張る。靴下の布がしわにならないように、伸びすぎないように、三か所をそれぞれ摘まんで引っ張る。

住宅に挟まれたその道は、間隔を保って街灯が設置されていて道を照らしている。細い道だが車が通る様子もなくて端を選ぶ必要もなく広々と歩くことができる。夜の道は人のいる気配もなくてどこか遠くの方で車の走行音が通り過ぎるのが聞こえるのみだ。黒いアスファルトに街灯が落ちて明暗の模様を作っている。その明暗模様を踏む。右手に公園が開けて地面に何本かの色違いの棒を突き刺してできた建造物などがぼんやり浮かぶ。ジャンパーを着ていても夜の冷気が体を侵す。お風呂で温かくなった体がお風呂に入る前よりも冷たくなっている。両の手の指はお腹の前で組み合わせていて、冷気に直接晒されている。間もなく公園の遊具も後ろの景色になる。

 消防署のくぼみが見えた。夜ということもあってもっと距離を詰めないとはっきりと分からない。自分の行動を疑問にも思うけれど疑問に思うだけで深くは考えずに歩を進める。光を発する街灯の背面、消防署ガレージ前の隅っこはコンクリートでできた一メートルほどの入り口だった。僕が去った時の状態そのままで目につくようなものは何もなかった。通常通りの非活動状態の消防署がそこにあるだけだ。正面まで進むとその女の人は足を大きく広げて消防署の前に座り込んでいた。何か楽しいことでも想像しているのかにこやかな顔で夜の景色を眺めていた。僕とは反対側の端にいたので隣家の塀に隠れて正面に来るまでそこにいることが分からなかった。

「あらら、さっきの男の子かな。戻ってきてくれたんだ」

立ち止まった僕に気づいて女の人が声をかける。女の人の顔には幼さが残っていなくて一回り以上歳の離れた大人の人なのだと分かった。履いたスカートを大きく広げて座ったまま立ち上がろうとしない。

「どうして戻ってきてくれたの?」

女の人が尋ねる。

「別に……」

気になったから以外に特別な理由が思いつかない。彼女が期待するような好意的な理由を持っていないと思った。別にかあ、と気を悪くした様子もなく女の人は僕の言葉を繰り返す。

「私のこと心配になったから戻ってきてくれたのかと思ったけど」

「別にそういう」

体の向きを女の人からそらす。家屋が立ち並んでその間を一本の道が細くなって伸びている。しばらく先以降は闇に飲まれていて街灯の光が小さくなって連なっている。

「じゃあどうしてわざわざこんな遅い時間に戻ってきてくれたんだろうね?」

隣に座っていいのよ、とコンクリートの地面を二回叩く。足を大きく開いているからその隣は窮屈そうだ。僕は勧められたことに関心を持たず道の真ん中に立ったままでいることを選ぶ。

「少年はこの消防署の門番? 消防署を守るのに少年みたいにやわじゃ務まらないんじゃないかな?」

「そんな変な仕事はしてない……」

「少年より消防車に門番させた方がいいもんね」

「外に出したらガレージの意味ない」

女の人は両手を股の内側に下ろして楽にしている。背中を後ろに倒すとガレージにぶつかりがしゃがしゃとやけに響く音でガレージが揺れた。それを嫌がって背中を離すときにもガレージが揺れた。

「長い間ここにいたからもう寒くなっちゃって。こんなことなら毛布でも携帯するべきだった。ここに座っていたらお尻痛くない?」

「別に」

「眠たいし寒いしお尻痛いし、虫が近づいてきたと思ったらすぐ飛んで行っちゃうし。手招きしたら離れていくの酷いわ」

「虫に何を求めてるの」

「じっと話を聞いてくれるくらい期待してもいいじゃない」

道の前方からも後方からも自転車や歩行者が来る様子はない。周辺の住宅でも人が生活している気配がない。夜の深い中、一つの街灯で切り取られた空間に僕たち二人が浮き出されている。

「ここにいる間、お魚のことを考えていたわ」

どこかに視線をやってにこやかな顔で話す。夜の景色の中を魚が泳いでもいるのかと想像した。

「お魚の一部は海中のプランクトンを食べるじゃない。えら呼吸するついでに食欲を満たせるわけ。もしそうだったら、こうやってぼーっと時間を過ごす時でも、食べる幸せを味わえるのかな。いつでもどこでも。それって幸せなことだと思ったの」

「米を一粒ずつ食べても味分からないから何も感じない」

羽虫は変わらず街灯に執着して我先に光を得んと体当たりを繰り返している。女の人は信じられないという顔をしてまっすぐ相対しない僕を見る。羽虫が街灯にぶつかる音が重なって小さい音であるのに気に障るまでになっている。女の人は肩を落として一つ体が小さくなってしまう。目を伏せる。

「隣の芝は青く見えるものね」

しょんぼりした様子だった。返す言葉が思いつかないし、言葉を返す必要がないことに気づく。

「夜ご飯食べた?」

「食べた」

「家が嫌いでここにいたのかな?」

なんでもない世間話みたいだ。僕は消防署の方に体を向けずに女の人の視線が一直線に僕にぶつかることを避ける。寒さもあって腕を組んで両肘を持つ。

「家族とは仲良くできている?」

「知らない……」

「知らないってことはないんじゃない」

「知らない」

無機質に答える。そっか、と実際にどう思っているのか分からない返事をする。女の人は凄く無防備に見えた。ふくらはぎとかお腹とか首とか人体の柔らかい部分を大っぴらにしている。人に奇異の視線を送られても恥ずかしくないのだろうかと思う。

「あの、いい?」

女の人が話す許可を得るために手を挙げる。改まった言い方に注意を引かれる。

「私実は迷子になってて、良かったら家まで案内してくれないかしら」

危機感のない緩んだ表情で、どうしたらいいか分からなくて困っているといった不安が伝わらない。

「本当に帰れないの?」

「帰れるならこんなところでお尻痛くしたりしないわ」

「帰りたいならここに残ることもないと思うけど……」

「だってもしかしたら戻ってきてくれるかもしれないじゃない」

いまいち納得しかねる問答だ。疑問に思うことは多々あるがそれ以上突っ込んで質問するのも億劫に感じた。女の人は僕がどう答えるのかに興味を持っているらしかった。緩んだ表情でじっと僕の様子を伺っている。

「どこ? 家」

考えるのも馬鹿らしくて、このくらいなら付き合ってもいいと思い直した。

「わあ、送ってくれるんだ」

よし、と立とうとする。広げていた足を折って、体重を左右に揺らしてのんきに立ち上がる。片方の腕にかばんを提げて、もう片方でお尻の汚れを落とす。どうしてそんなに嬉しそうな調子になるのだろう。

「どこに案内すればいいの」

「ああ、たぶんあっちだと思う。とりあえずこの方向に進みましょう」

「あっちって」

案内のしようがない。女の人は手のひらで僕が先導するよう誘導する。他に仕方も分からないので女の人が指し示した方向に歩き出す。僕が歩き出すのに合わせてその後ろを女の人が付いてくる。消防署のガレージ前から離れる。ガレージ前を明るくする街灯がちかちかと配線の調子を悪くして僕たちの後に残る。

 小学校のそばを通る。小学校の運動場に高い柵が張られている。柵には目線の高さに看板が吊るされていて、飼い犬のフンは持ち帰ろうと黒いペンキで書かれてある。運動場には人っ子一人いなくて暗がりの中に埋められたタイヤとかシーソーとかの遊具が無人になっている。奥に建つ大きな校舎がその運動場を見下ろしていて不気味さがある。僕は言われた道をただ進み続けて、女の人は小学校に興味を持ちながらその後に続いている。

 車が行き交う程度には広い道に出て、進んできた道が道路を前に途切れる。僕が立ち止まると、女の人はどうして立ち止まったのか分からないという顔をする。

「どこに連れて行けばいいの。何か目印になる場所とか」

女の人は得心して、顔の近くで指を振ってどうしようかと考える。

「じゃあ右に行きましょうか」

肘を脇に当てて右の方向に指をさす。再び、僕が先導するように手のひらで誘導する。女の人は僕を使って遊んでいるのだろうか、不審な目をしてしまう。僕が気を悪くするのに関わらず女の人は裏を感じさせないにこやかな態度を取る。不審を言葉にすることをせずに示された道を進むと、同様に女の人が後ろに付く。

「家に子供たちがいるの。帰るのが遅くなって心配しているかもしれない」

「……」

「心配なんかせずにさっさと寝ちゃっているかもしれないけど」

脈絡のない身の上話だ。僕がその話を聞いて何かになるものなのだろうか。興味を持つのが難しい。

「みんな元気があってやんちゃで自分のことばっかり。でもいい子たちなの。そんなことしてて楽しいのかな? て思うようなことばかりしてるけど、毎日楽しそうにしている。子供ってやっぱり大人とは違って変な子が多いの。変な子たちが自分以外の何考えているか分からない子のことを分かろうとしている。分からないなりに一緒に遊んで一緒に楽しんでる。自分の子供たちが仲良くしてくれていて嬉しいの」

「兄弟いないから楽しそうかどうか分からない」

「きっと楽しいものよ」

無根拠のはずなのに自信ありげに言う。

青信号の横断歩道を渡って白線の手前に止まる車の眼前を横切る。車のライトが直接僕を照らして夜に慣れた目に強い刺激を与える。歩行者にライトを向ける車にイライラした。青信号が点滅する。横断歩道を渡って振り返ると、女の人は車にお辞儀をして急いた様子なく歩いている。

「ここの路地を進めば家に着くような気がするわ。もう少しお願いね」

「結局何もしなくても到着しそうだね」

「そんなことない。少年がいなかったらこんなに安心して道を進めなかったわ。少年がいたから間違っていても大丈夫と思って道を選べたの。そこを勘違いしてはいけない」

「違いが分からない……」

女の人が示した方向を先導する。小さい賃貸や料理店が土地を占めている。道の舗装が年月を経て欠けたり膨らんだりしていて、歩いているとつま先を引っかけてリズムを崩される。

「晩御飯ちゃんと食べれたかな。インスタントラーメン置いているの知ってるはずだから何も食べていないことはないと思うけど。みんなずぼらだから料理できないの。私もそんなに得意じゃないんだけど」

「そうなんだ」

「箱入り娘たちだから初めての挫折を味わっているかもしれないわ。誰がお湯沸かすかでもめているかもしれない」

半分に欠けた月は軌道の頂上に近いところにまで昇っていた。月の表面には黒い染みみたいなものが浮かんでいて、きっと月のでこぼこが光を反射し損ねて暗くなっているのだろう。他の星が見えにくい分、はっきりと力強く輝きを持っていて、周りに浮かぶ雲に陰影を与えている。

「ここよ。私のおうち」

女の人が一つの家の前で立ち止まる。僕は少し先で立ち止まって、女の人があごでさすそれを一緒になって見上げた。コンクリートブロックが組み合わさって、人より高い塀で道と仕切られている。車が通ることのできる上り坂が塀を分けて通っていて、家の土台が道路よりも高くなっている。瓦屋根の家はどっしりと幅を利かせ古いお屋敷の装いをしていた。曲がりくねった松の植えられた庭がありそうに想像された。

「良かったね。家に帰ることができて」

「少年のおかげだよ」

「何もしてない」

「そんなことない」

家の明かりが点いていてカーテンを介してぼんやりと光っていて人の生活を感じさせる。彼女の家族でまだ起きている人がいるらしい。女の人は足を揃えて浅いお辞儀をする。大人が子供に対してするものとは思えない丁寧なお辞儀だった。

「本当にありがとう。戻ってきてくれて嬉しかった」

「別に」

「ではこれから私の家で遊んでいくといいわ。しばらくゆっくりしていっていいのよ」

女の人は一歩前に踏み出して僕の二の腕をぐっと掴む。はぁ? と口に出たのも意に介されず細い腕をしっかり掴んで力強く引っ張られる。女の人のペースでぐんぐん引っ張られて足がほつれ、足取りを正すことで精いっぱいになる。僕は突然の奇行に困惑があふれて仕方なかったけれど女の人はにこやかな顔で振り返る。抵抗が弱いのをいいことにぐんぐん引っ張ってやめようとしない。

「ただいまー」

お屋敷にお似合いの、ガラス板を格子状に木の板で囲った引き戸ががらがらと音を立てて開け放たれる。結局玄関先まで無理やり引っ張って連れてこられてしまう。間もなく家の奥から人が駆けてくるのが聞こえた。その足音が廊下の奥からどんどん近づいてくる。急に力任せに引っ張られて何が起こっているのか分からなくて怖かった。女の人の明るい表情がより不安を煽った。

「ママ! お帰りー。めっちゃ遅かったね!」

若い女の人が廊下の奥から駆け足をブレーキして現れる。小学生の男ものらしい服装で、悪そうな目つきがプリントされた上着と膝丈の短パンを着ている。手にはご飯が盛られた茶碗とお箸を持っていた。

「あれー、それ誰?」

「拾ってきた子」

「ママ人拾うの好きだねぇ。どこから見つけてくるんサ」

迎えに来た女の人は僕の顔をじろじろ見てお米を口に入れる。じっと見てくる視線に耐え切れずに視線を外す。ふと、自分がだらしなく女の人の腕に吊るされていることに気づいて、自分の足で立ってしわの寄った服を正した。

「ごめんね。無理やりみたいになっちゃって」

女の人は僕が窮屈になっていることを知って掴んでいた腕を離す。謝ってもらっても生まれた不信感を拭うことにはならない。自由になったけれど玄関から飛び出そうとも決めかねて茶碗の女の人の視線に晒され続ける。

「お帰り~ママ」

廊下の奥から僕よりも小さい男の子が現れて、同い年くらいの女の子が続く。その二人の後ろから渋々といった態度で付いてくる背の高い男の人二人。小さい男の子は知らない人がいることに気づいて怯えから身構えていた。

「仕事終わったらさっさと帰って来いよ。何時間寄り道してんだ。……ていうかそいつ誰よ」

背の高い男の一人、粗野な口調の人が不愉快な表情で僕を見下ろす。あっという間に大勢の人に囲まれてその視線の的になる。全員が自宅に急に来た部外者を不審に思って無言になる。女の人は開け放していた玄関の引き戸をがらがらと閉じる。引き戸が端までぴしっと閉まってから全員に向き直って僕の背中に腕を伸ばして手を触れる。

「家に帰りたくなさそうにしてたから連れてきた。あんまり喋ってはくれないけど根はいい子だと思うの。しばらくここで遊んで行ってもらったら楽しいんじゃないかなと思いついてね」

「名前はー?」

玄関に座る女の人がお米を咀嚼しながら箸を持つ手を挙げて質問する。

「まだ名前を聞いてなかったわ。ねぇ、少年はなんていう名前なの?」

女の人が僕の顔を覗き込む。唐突に連れてこられて、こんな閉ざされた場所で大勢の知らない人に囲まれて落ち着くことができない。名前を尋ねられてもそれに答えていいものなのか分からない。女の人の手が触れていることが背中から伝わる。

「私は宮下麗香と言うの。名乗るのが遅くなってしまったけどよろしくね」

女の人が自分に手のひらを向ける。その手のひらをあごを上下に動かしている女の人に向ける。

「この子はやな。長女ね」

「はろー」

箸を持つ手をぶんぶんと振って挨拶にする。箸にくっついた米粒が飛んで行ってしまいそうだ。

「この子は入梅。ちょっと変な名前だけど可愛いでしょ」

つゆいりと紹介されたその女の子は不思議そうにしながら頭を浅く下げる。僕と同じくらいの歳で、大人しそうな可愛らしい女の子だった。茶碗を持った女の人の隣に正座して手を揃えて座っている。

「未聡、自分で挨拶しなさい」

名前を呼ばれたのは小さい男の子で、おどおどしつつ言葉を探している。なかなか言葉を見つけられない様子だ。

「……初めまして! 宮下未聡と言います。末っ子です。急に連れてこられて驚いているかもしれないけど、全然怖くない場所だからくつろいでいって、ね!」

小さい男の子はぶきっちょな笑みを作って挨拶の区切りとした。僕がじっと見ていることに気づくと幽霊でも見たように怖がって隣の男の人の腰を掴む。腰を掴まれたのは顔の怖い人で、女の人から手のひらで促されて眉をひそめる。不愉快になったのを遠慮なく視線に乗せる。

「真貴。あんまり話すこともないだろうけどな」

「居候の真貴だよ。だめだめすぎて実家追い出されたからここに逃げ込んでるの」

「お前は喋んな」

茶碗の女の人が男の人を箸でさして馬鹿にする。表情のない目で睨み返されているのに、いつまでここにいるの~? と冗談を続ける。

「最後は僕だね。一馬って言います。どのくらいの付き合いになるか分からないけど、しばらくはよろしく」

一番背の高い男の人が胸に手を当てて親しみを込めて挨拶をする。おそらく長男なのだろう、真面目で頼りになりそうな人だと思った。

 ここにいる全員が自己紹介をしてぼんやりだけどどんな人たちなのか伝わった。いきなり引っ張られて閉じ込められた恐怖は和らいで、ひとまず落ち着いて呼吸することができる。女の人が僕を見守っていて他の人たちも待っている。

「堂本善彦と、……言います」

いざ言おうとすると消え入りそうな声になってしまった。言い終えても玄関は静かなままで、それで終わり? という空気が流れているのだと気づく。でもそれ以上何かを加えようとも思わない。無言の時間が長く感じられて僕の中で気持ちが沈んでいく。

「善彦って」

ぽつりと言ったのは僕と同い年くらいの可愛らしい女の子だった。こらえきれずにふふっ、と可笑しさが漏れる。

「思いっきり笑ってるシ。まーまー分からんではない」

茶碗の女の人もそれに釣られてくすくす笑う。開けっぴろげなものではないけど小さな笑い声が波紋のように広がる。

「なんていう名前なのかなーと思って聞いてたら善彦だもんな」

「そう! それ、思った!」

怖い顔の男の人が言ったことに同い年くらいの女の子が賛同する。抑えないといけない、けど抑えないといけないことがよりいっそう可笑しさを誘う。堰を切ったように憚ることも忘れて玄関に笑い声が響く。

「もー私まで笑っちゃうじゃんか」

茶碗の女の人が楽しそうに体を捻って食べることを中断している。

「あーだめだめ! だって善彦は予想してなかったんだもん。私悪くないでしょ」

「お前らごみくずかよ。善彦ていう名前、桃太郎レベルにかっこいいだろ」

桃太郎! 本当だ! 新発見を得て嬉しそうに顔を見合わせる。同い年くらいの女の子は嬉しそうに口角の上がった口を腕で覆って隠す。

「まずいって。だめだめ。そろそろやめとこ。怒られる、怒られるから」

「つゆちゃんが一人で勝手に笑い出したんだけどね」

「やな、つゆはだめな子だー」

茶碗の女の人の肩に顔を押し付けて表情を隠す。くっくっ、と喉の震える声がして背中も小刻みに震える。茶碗の女の人がつゆちゃんはいい子だよー、と箸を持つ手を頭に乗せている。

 どうして笑い者にされているのだろう、体が芯のほうから冷めていく気がした。馬鹿にされる怒りよりも人に対する落胆みたいなものが先に立った。自然と肩が落ちる。一番身長の高い男の人はおちゃらけた雰囲気に不快感を持っているようだった。小さい男の子は何が起こっているか分かっていない様子で、楽しそうな兄弟たちを見上げていた。

「善彦くんって言うのね。教えてくれないかもと思っていたから教えてくれて嬉しい。私の家気に入ってもらえるといいのだけど、ちょっと難しいね」

女の人は玄関のタイルの床に膝をつけたので僕の背よりも低くなる。僕の手首に女の人のそれぞれの手を繋ぐ。女の人の手の方がわずかに温かいらしい。

「でも今晩くらいはここで過ごしてみない? 普段の生活では気づかなかったことがここにいてみたら簡単に見つかることだってあるかもしれない。何も見つからなかったら、ただうるさいだけの家だったなって悪い思い出にしてくれていい。そういうお手軽な気持ちでどうだろうか」

女の人が手を握って僕を見上げる。女の人の話し方には意地悪さとか敵意とかそういうものは感じられない。けれど僕の中に沈んだ冷たい気持ちはなかなか溶けそうにない。すぐ近くに玄関の引き戸があって、その格子の間から外の景色が垣間見える。家の中の明かりが漏れ出て丸石が埋められたデザインの玄関口が照らされている。

「私の名前覚えてくれた?」

女の人が突然に質問を変える。肯定の意味で頭を縦に振る。

「麗香さん」

「……ありがとう」

女の人はにこやかな顔をして僕の体を引き寄せる。僕の背中に腕を回して頭を胸のあたりに当てる。咄嗟に腕ごとハグされるのを避けるために両腕を肩より上にした。いきなり引き寄せられたためつまずいてバランスを崩すところだった。

女の人は僕より小さくなって頭頂部だけになってしまった。きちんと梳かれた滑らかな髪が頭の形に沿って流れている。何をどうしたらそこまで嬉しいと感じるのだろうか。本当に嬉しいと感じているのだろうか。僕は両腕を頭まで上げながらどう対応すればいいか困惑する。

 家族の人たちは自分たちのお母さんのことで話していた。そういう人を見つけるセンサーを搭載しているんじゃないか、攫える子供をいつも探しているんじゃないか、目につくと気になってしまうだけじゃないか。何人かは僕と女の人の会話に聞き耳を立てて成り行きに関心を持っている。女の人は回していた腕の力を緩めてくっつけていた頭を引く。顔についた汚れを払う。

「ごめんね。だめね」

ハグから解放されたので一歩下がって自然な体勢で立つことができる。避難させていた両腕も腰の脇に下げる。女の人は手持ち無沙汰になった手を合わせて伸ばしたり縮めたりしてもてあそんでいる。膝を床について顔を下げているためその表情は分からない。

「今晩だけなら……」

女の人の頭がぴくりと動く。もてあそんでいた手指を止めて顔を上げると目が合って、僕は元から目が合っていないふりをして目をそらす。

「そうしましょうか」

女の人は僕の返事に満足したらしい。ついていた膝を上げると僕の背よりも高くなり、みんなに呼び掛ける。

「解散解散。ご飯食べるなら食べる。寝るなら寝る。ほらほら」

ぱんぱんと手で叩くのを合図にして玄関で雑談していた人たちはそれに注目する。

「善彦くん帰っちゃうのー?」

「今晩はいようと」

「あそうなんだ、じゃあ台所にみんな行くから来ればいいよ」

茶碗の女の人は寄りかかっている隣の女の子の頭を掴んでぐらぐら揺らして、女の子の反応を待たずに立ち上がる。頭を揺らされている女の子はうめき声をあげて両手で頭を支える。

「今ごろ晩ご飯食べているのはどうして? 何食べてるの」

「いやあ、もっと早く食べているはずだったんだケド。いかんせん誰も自炊できないもんで」

「インスタント食品幾つか置いてあったの気づかなかった?」

「うちらはお米を食べたかったわけなんすよ。けど炊飯器どうするんだろう問題がありまして。つゆ坊と未聡坊がやらかしまして」

ふと気が付くと茶碗の中身は無くなっていた。茶碗と箸を一つの手に持っていて落としそうで危ない。茶碗を持つ手を座っている女の子の頭に、もう一つの手を男の子の頭に乗せる。顔の怖い男の人と長男らしい男の人はこちらを気にしつつ玄関から離れていた。

「あんたたち米を炊くこともできないの」

「だってあんなんトラップじゃん。五合って線まで書いてるんだからそこまで米入れたらいいのかなって思うって。ねぇ」

女の子が口を尖らせて、同じく頭を押さえられた男の子に同意を求める。男の子は炊飯器の話になってから急におどおどし始めて、女の子に話しかけられた瞬間泣いてしまいそうだった。

「カップの目盛りと全然合わなかったから……、おかしい気はしたんだけど。でも間違っているとも思わなくて。先に調べれば……、よかったんだけど」

「一回目は誰だって間違うもんじゃん。つゆたちが悪いことしたみたいに」

「そういうつもりはなくてっ……」

女の子は正座をして動揺するでもなく言い訳がましくなるでもなく言う。男の子は怖がってきょろきょろと視線が忙しい。

 女の人は片方の靴を脱いでいて、もう片方の靴からかかとをするりと抜く。玄関にかがんで脱いだ靴に手を伸ばす。

「善彦くんも」

「うん」

女の人の隣、段差の手前に移動して靴のかかとの位置に手を持っていく。足に力を入れると押さえている靴からするりと抜ける。

「よっしゃ食べようってなったときにびっくり。お米カピカピのカチカチで食べられるかっていう。食べられるっちゃ食べられるけどニ、三口食べたら胸悪くなった。それで結局、もう一回炊き直すことになったカンジ。ちょっと前にご飯炊けたから今みんなでそれ食べてる」

「おかずもなしで食べてるの?」

「私は塩で食べてるぜ! うめぇよ。真貴くんはマヨネーズで食べてた。さととつゆちゃんは牛乳合わせてたっケ。美味しいんか?」

「遊び心があるわ」

まぁまぁ食べれるよ、と女の子が言う。女の子は頭を押さえていた手から解放されて自分の母のそばに立っていた。家族一同の後ろに付いて家の中に進む。カピカピのお米数キログラムをゴミ箱に捨てたことや水の量は適当にお米が浸る程度に入れたことを話している。隣を歩く男の子は小学生の低学年くらいに見える。さっきまでのおどおどした様子は無くなって今は笑顔になって話を聞いている。僕の視線に気づくとはっとなって目をそらす。僕としても接し方が分からない。お互いにかける言葉がない。同い年くらいの女の子の隣を歩く女の人の後ろ姿は柔らかそうな白いシャツで覆われている。今しがた覚えた名前を心の中で繰り返す。

 台所は定食屋かと思うほど広々としていて、何十人が囲めるのかと思うほど長いテーブルが中央を陣取っていた。一緒に台所に来た面子が調理場に迷いなく移動する。台所の四隅のうち三か所には大きな食器棚が置いてあり、たくさんの食器を収納している。少しの間呆けて遅れて調理場へ続く。先に戻った男の人二人が調理場の近くのテーブルに席を取っていた。お米のみの茶碗にマヨネーズなり振りかけなりを乗せて食べている。

「ママは何で食べる?」

同い年くらいの女の子は自分の母に陽気に話しかける。体が前のめりになって顔と顔の距離が近い。

「私も牛乳で食べてみようかな。美味しそう」

麗香さんは食器棚の取っ手を引っ張って磁石と磁石を外す。開いた間に手を差し入れる。

「これ使ってね」

取り出した茶碗を僕の胸元に差し出す。茶碗は小振りなものでピンクの花柄が一本通ってその縁を彩っている。僕が受け取らないので麗香さんが茶碗を持つ手をより伸ばして近づける。その空の茶碗を両手で抱えると、麗香さんの手が離れて茶碗の重さが手に伝わる。麗香さんは別の茶碗を取り出してガラス戸を閉じる。ガラス戸の下の引き戸を開くと箸が無造作に敷き詰められていて、そこから箸を二本選んで僕の持つ茶碗に乗せる。箸を寄り分けて同じ柄の箸を選び出して自分のものとして引き戸を押し戻す。

「善彦くんは何で食べる? 他にもマヨネーズとか振りかけとか、ちょっと面倒だけどお茶漬けもできるよ」

同い年くらいの女の子が調理場近くの冷蔵庫を開けている。手には牛乳パックを持っている。善彦くん、と小さく繰り返してくすっと嫌な笑い方をする。茶碗の女の人がばしぃっ、と女の子の頭にチョップを置く。あまり痛くなさそうだ。

「食べたばかりだから食欲ない……」

「え、その返答は期待してなかった」

女の子は冷蔵庫を開けたままにしている。

「そう言わずにせっかくだから私たちに付き合ってよ。特にお好みは無さそうだから牛乳で食べてみてワ?」

茶碗の女の人が知らない間に傍らに立っていて炊飯器を指でさす。彼女が持つ茶碗には既におかわりの分が盛られている。茶碗の女の人はにこにこして、僕が同意して一緒に食卓を囲むことを当然と考えているみたいだ。

「牛乳と合わせたくないから振りかけがいい……。あと、そんなに食べられないから」

「がってんだ」

誘導に従って、棚の一つの段に収まっている炊飯器の前に立つ。炊飯器の隣に白い四角の容器があってその中にしゃもじが立てかけられている。炊飯器の蓋を開けると一人では到底食べきれないたくさんのお米が入っていた。

 振りかけどこにあるー? と呼びかけて茶碗の女の人はテーブルに移動する。同い年くらいの女の子も一緒にテーブルに移動して自分の茶碗がある席に座る。麗香さんと席から茶碗を持ってきた男の子は僕がよそうのを待っている。

「ママ、席どうしよう」

「そうね……、一つ席を空けないといけないわ。善彦くんちょっと待ってて」

食べられる量をよそい終わるとテーブルに座らないように指示を受ける。テーブルは数十人が座れるサイズで半分以上の椅子が余っている。しかし家族の人たちはテーブルの端に固まって座っている。

 お米をよそい終わって男の子が自分の席に座る。麗香さんが同い年くらいの女の子に提案する。

「今日はその席に善彦くん座ってほしいから一つ隣に移ってもらっていいかしら」

「その席って、つゆが座ってる席ってこと?」

「そうね」

「えーいいけど」

「一馬も一つ寄ってもらっていいかしら」

「いいよ」

テーブルの端に固まって座っていたのを一つずらしている。長男らしい男の人は気にせず移動しているけど女の子は気を悪くしていた。他に空いている席はたくさんあるからそこで構わないと考えたが口にはしない。しかしそもそも、テーブルの一番端の席が一対空いていて、片方に麗香さんが座るとしても一つ席が余っている。新しく席を空けてそこに僕が座るとしても、やはり端の席が余ったままになる。気になったが口にはしない。

「ここに座ってね」

「失礼します……」

木製の椅子を引いて座ると座布団が敷かれていて腰を柔らかく受け入れる。反対側の端の席に麗香さんが座る。

「これあげるね」

茶碗の女の人が振りかけを渡して僕の茶碗の隣に落とした。簡単に頭を下げる。かつお風味のもので魚のイラストが描かれている。拾ってチャックに手をかける。

テーブルクロスがかかっていてテーブルの脇から布が垂れている。白色の布生地に細い黒線を連ねた一本の線がチェック模様に引かれている。人が集まっている中心のあたり、テーブルにプレートが置かれていて、その中に醤油や塩が用意されている。冷たい水が数リットル入ったポッドがあってテーブルクロスを暗く濡らしている。

僕を取り囲んで座る麗香さん、小さい男の子、同い年くらいの女の子はご飯と牛乳を合わせて食べている。ご飯を口に含んでから牛乳を飲んで味を組み合わせている。僕はこげ茶色の振りかけが乗ったお米を食べる。おやつとして十分に美味しい。

「涼子の指が長いっていう話になって手合わせてたから、私もその流れで涼子と手を合わせたんだけど、指細くて長いの。指の関節一つ分くらい長さ違ってなんか虚しくなっちゃった」

同い年くらいの女の子が話して麗香さんと小さい男の子がうんうん相槌を打っている。

「友達の机に集まってみんなで手合わせてはやいのやいの言ってたんだけど、今までこういうことしたことなかったかもしれない。あと爪の形もきゅっと細くて普通に羨ましい。手の形が綺麗な人が魅力的に見えるっていう話あるけど、初めてそれ実感したわ……。肌きめ細やかで、手のひらと比べて指が細くて長いと綺麗な手に見えるね。手が綺麗だって分かった途端、その人全体が綺麗に思えてくるのびっくり」

「高校生のうちから肌が綺麗汚いとかないと思うけど。みんな綺麗でしょう」

「いやいや、生活習慣悪い人は肌も汚いよ。間違いない。高校生だから逆にはっきり差出てるって。やばいやつはやばい」

「つゆの手は綺麗じゃないの?」

小さい男の子が突っ込む。

「私の手が綺麗じゃないわけないと思うんだけどな。今はあんまり自信ないや」

女の子は箸を持つ手をくるくるして手のひら、手の甲を自分に向ける。手の形を変えて同じように表裏を観察する。血色のいい滑らかな手だと思った。しわのない滑らかな皮膚、手自体が小さめで子供らしさがあるが、指も手も細長くて脆そうでか弱さを思わせる。爪が尖っていて鋭そうだ。

 茶碗の女の人はこちらとは関係のない話を男の人二人に披露していた。怖い顔の男の人が退屈そうにしていて、長男らしい男の人が朗らかに聞いている。

「友達が服選ぶのに付き合って手伝ったりしてたんだけどモ、色んな服見れて気分良かったんよ。友達も気分良く服試着してこれ可愛い~、とか言って。今日来てくれてありがとうねって言われたから、いえいえこちらこそ誘ってくれてありがとうございます、という話になって、」

「楽しそうでいいね」

「実際面白かったよ。ところで、て友達が言うのサ」

茶碗の女の人はおかわりの分を食べて口を膨らませながら話している。長男らしい男の人は食べるのもそこそこにして女の人の話に興味を持っている。怖い顔の男の人は両肘をテーブルに乗せて怠そうに食べている。マヨネーズをかけたご飯が思っていたより不味いのを我慢して食べているのかもしれない。

「前日に遊ぶ約束をしてたんだけど、その時に私が、いいね! 普通に遊びたい、というような返事をしたらしいネ。その時は友達が、よっしゃじゃあ決まりね! ていい返事してくれたんだよ。でも改めて、普通に遊ぶとは何? て言われた。私と遊びたいと思う気持ちが普通にあるという意味? それとも、普通にいつも通りみんなと集まって遊びたいってコト? 私と二人で、てことではなく。いい意味なのか悪い意味なのか分からない。て言われた。距離感間違えるの怖いから深読みしてしまうしいい意味に捉えるの難しいんだけど、みたいな感じだったカモ」

「普通に、という言葉が相手を嫌な気持ちにさせたってことか?」

「そうなんだろうねぇ。日本語難しいねぇ」

長男らしい男の人が疑問に思って考え込んでいる。不味い飯を食べている男の人が一笑にふす。

「つまり何も分からんけどなんか怒られちゃったウケる、てことだろ」

「要するにそう」

茶碗の女の人が同意する。テーブルの中央に手を伸ばして塩の瓶を持ってくる。逆さにした瓶を持って、別の手を宙に固定して数回手首と手をぶつける。

「もっと真面目に取り合うべきことなんじゃないのか。相手嫌だったんだろう?」

長男らしい男の人は疑問を解消できない様子で手を口元に当てている。茶碗の女の人は虫でも払っているのかと思うほど大振りに手を振る。

「いいのいいの。別に本気で怒られたわけでもなシ。やなちゃんはこれからも普通に遊びにいくよ。いや、普通にを使うのはやめた方がいいか」

なぜそこまで大振りに振る必要があったのか分からない。

 台所はそれだけで一般家庭の居間よりも広いだろう。中央には長いテーブルが構え、使っていない場所には扇風機や保健室で見かける体重計、さびれた卓球台がまとめられている。半分の空間も使わずに七人でテーブルの端に固まって白米のみの夕ご飯を食べる。それぞれが適当に話したり話さなかったりしている。

ごちゃ混ぜになってある種の調和がある中で自分だけが異物であることを感じる。他の人たちが何かしらの糸で繋がって輪を作る一方で、自分だけその糸が繋がっていない。当然のことだから特別何かを思うわけでもないが心に巣食うものはある。茶碗の中には食べかけのお米が残っていて三口で食べきれそうだ。お米を彩るこげ茶色の欠片が食欲をそそる香りを漂わせている。手に抱えた茶碗に箸を入れて一口分のお米を取り頬張る。茶碗の中に残っているのは二口分になった。口を上下に動かして中のお米を飲み込める大きさになるまで分断する。

「善彦は中学生……、なの?」

目の前に座る男の子は肩より下がテーブルに隠れてしまっている。目を丸くして不思議に思って尋ねる。男の子に話しかけられたのをきっかけに麗香さんと隣の女の子も注意を向ける。

「高校生」

「えっと……、ごめん。中学生みたいだと思ったわけじゃないからね?」

「別に」

男の子が委縮して体を小さくするけど笑顔を作って話を続ける。

「善彦は何年生?」

「一年生」

「つゆの一つ下だ。このあたりに住んでるんだったら……、菊環高校?」

「うん」

「つゆと同じ高校だ。二人は同じ高校なんだ」

「へぇ」

男の子は嬉しそうにする。両の手の手首より先だけをテーブルの上に乗せている。男の子が腰かける背もたれが男の子より幅があって、仏像の背中に広がっている構造物が想起される。

「学年違ったら同じ高校でも全然関わりないからなー、善彦くんみたいな人知らないや。善彦くんも見たことも聞いたこともないでしょ、つゆのこと」

女の子は言い終わるとご飯を口の中に入れる。グラスを口に当てて斜めに傾けてグラスの中身が平らに伸びる。

「知らなかった」

うんうん。女の子は口を開けないで相槌を打って頭を縦に振る。口に手をやってあごを動かし中のものを食べることに意識を注ぐ。麗香さんも牛乳の入ったグラスを傾けている。グラスを口から離して目を落として味わっている。静かに幸せそうな顔をして美味しそうにご飯と牛乳の組み合わせを楽しんでいる。隣の女の子がふと疑問に思うことがあったらしく、んん? と意味を持たない言葉を発して僕に対して小首をかしげる。

「何か聞きたいことないの?」

「聞きたいこと……」

「同じ高校だって分かったわけだし、つゆが先輩なわけだし、善彦くんは高校に入ってまだ一月くらいだし。何か聞いてくれるもんかと思ったけど」

女の子は純粋に気になったという様子で僕を覗き込む。女の子の背後では、茶碗の女の人と怖い顔の男の人がくつくつと笑って盛り上がっている。怖い顔の男の人は人を馬鹿にするような嫌味な笑い方をしている。

「夏くらいには大体分かってるだろうから人に聞くだけの必要があることはないよ」

「部活はどうしてるの」

「特にするつもりもない……」

「友達はできた?」

「どっちでもいい」

「いないんだ」

目の前の男の子は言葉が交わされるにつれて不安げな表情に変わっていき、何か言いたそうにきょろきょろする。女の子は気を害したみたいで話すことをやめて食べることに意識を向ける。不愉快になったというよりは理解に苦しむ、という雰囲気だった。

 茶碗が空になった。他の人がまだ食べている中で先に食べきってしまい、箸を揃えて茶碗の上に重ねる。食べてしまった後はどうしたらいいのだろうか。この家の中では僕は全くの部外者で、どこに何があるかも分からないし勝手に動くことも悪い。麗香さん共々は会話もなく黙々とご飯を食べていて食べ終わるまでにはもうしばらく時間がかかりそうだ。退屈が居心地の悪さを増幅させる。座ったまま肩を後ろに引いて背筋を軽く伸ばして体をほぐす。食べている最中の麗香さんとぱっちり目が合う。麗香さんは数瞬の間はっとしてやがてやんわりと表情を崩してにこやかな顔をする。よく知りもしない他人に見せる社交辞令の愛想笑いだ。目が合っているのが窮屈になって空の茶碗に視線を落とす。


 長男らしい男の人に先導してもらい、襖を開けて通された先は仏壇の部屋だった。男の人に続いて部屋に入る。畳を詰めた床、襖で囲まれた壁、一角は白無地の和紙が張られた障子で仕切られている。入口から向かって正面に冷蔵庫ほどの大きさの仏壇が備え付けられている。黒い漆塗りを施されて金色の金具で装飾されており、中央には木彫りの小さな仏像が安置されている。そこにあるだけで自分の邪な性質が表在化させられるのではないかという非現実的な不安が生まれる。

「今日はここで寝てもらったらいいよ。一人で寝てもらうことになるけど、何かあったら誰か呼んでくれたら誰かは来るんじゃないかな」

長男らしい男の人は障子を開けて奥にある箪笥を開いているようだ。大きな布と大きな布が抵抗するのを引っ張り出そうとしている。仏壇のある部屋は広々としていて、仏壇前の座布団以外には何も転がっていなくて綺麗だ。布団を一式敷いたところでこの広さを損なうことはない。

「明日は何時に出発する予定なんだ? 平日だし学校もあるんじゃないか」

「学校は行ってない……」

「高校生だって言ってなかったか。あぁ不登校しているんだ」

男の人は大きな布の塊を抱えて戻ってくる。腕いっぱいに抱えていてお腹から顔まで全部隠れてしまっている。男の人は体を弾ませて腕の上で大きな布をちょうどいいバランスに調節する。足取りも軽く部屋の真ん中まで持ち運ぶ。

「お母さんが連れてくるくらいだから、善彦くんにも色々あるんだろう」

大きな布を畳に下ろして、ぐちゃぐちゃになっていた掛け布団を広げて、折りたたまれていた敷布団を広げる。丁寧に解いているのを僕は隣で眺める。

「善彦くんはどうして無口な子になってしまったのだろうと思うよ。きっと想像もできないようなひどい目に会ったんだろう。善彦くんくらいの子なら普通もっと元気で活発なはずだ」

「はあ」

「そっち、シーツに入れてもらっていいか?」

曼荼羅のような模様が入った掛け布団に真っ白の薄いシーツが重なっている。男の人はシーツの端と掛け布団の端を糸で結んでいる。僕は指示された側を掴んで、シーツの端と掛け布団の端をそれぞれ探す。

「社会って怖いんだよな。自分は悪いこと何もしていないつもりなのに周りから勝手にレッテル貼られるんだ。良いようにも悪いようにも。そういう苦しみ、僕にも分かるから。善彦くんがどんなことで苦しんでいるのか知らないけど、どのくらい苦しんでいるかっていうのは少しくらい分かるつもりだから。社会の中で生きるって辛いよな」

シーツをひっくり返してその中に掛け布団を収めると曼荼羅模様のほとんどが隠れてしまう。もう一か所で端と端を糸で結ぶ。

長男らしい男の人は話しているうちに感情が高まって声が震えていた。気持ちを落ち着かせるために深く息を吐くと喉の震えが吐息にも伝染する。ゆったりした服を着ているからかもしれないが、筋肉がバランスよくついていて体が大きい。座っている姿でさえその存在感の強さに自分にないものを感じる。顔の輪郭が滑らかで鼻からあごにかけて一筋の線が通っている。髪型は自然に乱れたままだったが似合っていると思った。

男の人がジッパーを引っ張って掛け布団を完全にシーツの中に収める。布を巻き込んでジッパーが止まったのを後退させて、再び引っ張る。

「そうだ。明日もここにいるんだろう。お母さんも入梅も未聡も朝から外に出ていないはず。僕もいないし。やなと真貴だけ家にいるから、その二人と仲良くするといいよ。真貴は気難しいけどやなは遊びに連れてったりしてくれそうだ。やなっていうのは喋るのが好きな長女だ」

「明日もここにいるかは分からない……」

「帰りたいなら帰った方がいいよ。僕も賛成。……でも満足するまでここにいてもいいし僕の家族は感覚麻痺しているから誰も迷惑に思わないから。もし帰るのだったら挨拶はしてほしいな」

「……」

男の人が完成した掛け布団を勢いよく引っ張り上げると空気に抵抗して布の塊がはためく。ゆったり落下して敷布団に重なり、ちょこんと枕が頭を覗かせる。一組の布団が仏壇の部屋の中央に用意された。

「パジャマのサイズ大丈夫?」

「ちょっと大きい気もするけど」

僕は両腕を持ち上げて着ている服の大きさを確認する。長袖、長ズボンでもこもこした茶色の素材で包まれている。腕のところで皺が寄って明暗の影ができている。

「中高生だったころが今はっと思い出させられたよ。昔の自分を見ているようで凄く何とも言えない気持ちになった。そうか、これが懐かしいという気持ちなんだ」

「鳩に豆鉄砲当てたみたいな顔」

「豆鉄砲当てた側がびっくりしているの愛らしいね。鳩のほうがびっくりしそうだ」

良い顔でやんわりと言われて眉をひそめる。不愉快な気持ちになって言葉を返す気にもならない。男の人は畳に素足で立っていて付いた埃を払うために二回ほど膝を叩く。ぺしぺしと規律的な音がする。

「じゃあ僕は自分の部屋に戻るよ。もう夜も遅いからさっさと寝よう。トイレとか場所分かる? 水飲む場所とか」

肯定の意味で頭を縦に振る。

「それなら大丈夫だ。じゃあ、おやすみ」

男の人は簡単に手を振って背中を向ける。布団を避けて大人の男の人特有の余裕を感じさせる歩き方をする。一人の人間が歩く重さに押されて畳がたゆんでいる。襖を開くとこちらを振り返り近くにあるスイッチに手を伸ばす。

「電気消す?」

「真っ暗で」

「この部屋ちょっと明るいやつないんじゃないか。おやすみ」

スイッチを切り替える音がして電気が一瞬にして消える。四角い光の中にいる男の人も襖を閉めて光と一緒にいなくなる。

 電気を消したと言っても真っ暗になるわけではなかった。襖の隙間がわずかに存在して細い光が差し込んでいる。また、仏壇に設置された一対の燈篭がぼんやりと袂を照らしている。電気を消したばかりであるのに部屋の中が見て取れる程度に明るさが残る。足を折ってしゃがむと用意された布団に触れることができる。肌触りのいいシーツが手のひらと軽い摩擦を起こして吸い付いては離れていく。

 空には半分に欠けた月が浮かんでいて残りは暗い空間が広がっているばかりだ。星の小さな存在は今日の夜には隠れてしまっている。空には、電信柱とそれらを繋ぐ無数の電線が張り巡らされている。束になってたゆんだ電線は道に沿ってずっと先まで続き街を繋いでいる。電信柱の中ほどに取り付けられた街灯が交差点を照らし黒いアスファルトのごつごつしさを明瞭にする。白い横断歩道の縞模様がぽつんと切り出される。経年によって擦れ落ちて穴が空き、また地面のひび割れで黒い亀裂の線が入っている。大小のマンホールがアスファルトに埋め込まれて光を反射して艶を出している。

 家屋のほとんどで明かりが消えている中、一部では明かりが点いている。立ち並ぶ街灯に紛れて幾つかの家屋の窓から光が漏れる。その明かりも時間が経つにつれて、一つまた一つと消えていく。最初から中身がなかったかのような家屋が連なる。街から生き物の気配がかすれて霧散していき夜の静かな空気に包まれる。

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