おまけ話 300PV謝恩

 クレハは屋敷に入ると、買ってきたばかりのポラロイドカメラを見つめた。この小さな箱で、写真が撮れる仕組みが今一よく分からないが、少し楽しみだった。部屋で話し声が聞こえたので縁側を伝い、そっちへ向かう。開いた障子から顔を出してカメラのシャッターを押すと、明神と百合が視線を向けた。

「ふふっごめんなさい」

 昼間なのに部屋の中央に敷かれた布団に明神が座っている。その隣に端座した百合と何かお喋りをしていた様だが、明神はクレハの持っているカメラを見て眉を潜めた。百合はポラロイドカメラを見て目を輝かせる。ポラロイドカメラの口から写真が出て来ると、クレハはそれを見てくすりと笑った。

「クレハさん、カメラですか? 良いなぁ〜」

「ふふっ買ってみたの。撮ってあげるわね」

 クレハがそう言うと、明神は百合の様子を伺っていた。

「明神くん、一緒に撮って貰おうよ」

 百合が燥いで言うと、明神は軽く溜息を吐いた。

「……俺はいい」

 百合はそれを聞いて目を丸くした。

「どうして?」

「嫌いなんだ」

 明神がそう言うと、百合は少し俯いた。

「私、明神くんの写真欲しいな」

 明神はそれを聞いて布団に横になると、掛け布団を頭から被った。

 クレハに誘われて百合が部屋を出ると、庭の花の前で写真を撮って貰った。

「ごめんね。あの子昔から写真は苦手なの」

「……そうなんですか」

 百合は少し困った様な顔をしたが、クレハはにこりと笑う。

「これ、あげるわね」

「え?! 良いんですか?!」

 百合が興奮気味に言うと、クレハは笑っていた。二人が映った写真を見つめると、少し頬が赤らんで嬉しそうに笑う。

「二人で何の話をしていたのか聞いても良い?」

 クレハに聞かれ、百合は少し恥ずかしそうに俯いた。

「襖の開け方を指摘されました」

「ふふっ身に付いていないのね。大丈夫。何度も練習すれば苦にならなくなるから」

 クレハはそう言うと、ポラロイドカメラを百合に渡した。

「使って見る?」

「良いんですか?! あ……でも……」

 百合はポラロイドカメラを見つめて俯いた。嫌がっているのに、無理に撮ろうとするのは良くない。

「お庭のお花を撮っている時に偶然、入り込む事もあるわよねぇ」

 とクレハが言うと、百合は悪戯っぽく笑ったが、直ぐに目を伏せた。

「すみません、やっぱりいいです」

「……そう」

 百合は会釈して屋敷の中へ入った。クレハはそんな百合を見送ると、撮ったばかりの百合の写真を見つめていた。



 明神は布団から起き上がると、頭をかいた。もう少し寝ていたい気もするが、あんなものを持っているとなると、おちおち寝ていられない。百合は勝手に写真を撮ったりしないだろうが、クレハが狛辺りに渡したら、こっちに関係なく撮りに来るだろう。否、右慶も左慶も清も、皆珍しがって撮影会なんかが始まると厄介だ。

 そう考えつつ、部屋を出た。台所に立つと、片手鍋を取って火にかける。今日の夕飯は何にしようかと考えながら冷蔵庫を覗いていると、百合が台所に顔を覗かせた。

「明神くん、起きてて大丈夫?」

 百合が心配そうに聞くと、明神は百合がカメラを持っていないのを確認して視線を逸らせた。

「明神くんはどうして写真が嫌いなの?」

 百合に聞かれ、瞳を宙に投げた。

「俺は自分が嫌いなんだ」

 正直にそう言うと、温めた白湯を湯呑みに移した。それを持って縁側に腰掛けると、白湯を一口飲む。百合も明神の隣に腰掛けると、明神は庭を眺めていた。

「私は明神くんの事が好きなのにな」

 明神はそれを聞くと、首を横に振った。

「お前は変わっている」

「……そうかな……」

 そうやって、誰にでも『好き』と言って、勘違いした男に何かされやしないかと少し不安だった。

「護身術を教えて無かったな……」

 不意に思い出して呟いた。百合が明神の呟きを拾い上げて首を傾げる。

「ごしんじゅつ?」

「自分を護る術の事。基本、相手に隙を見せないこと。襲われたら先ず逃げる一択」

 百合はそれを聞いて首を傾げた。

「普段から姿勢を正す。猫背になると視線がどうしても下方に向くから背筋は伸ばす」

 明神に言われ、百合は背筋を伸ばした。

「あとは逃げる」

「捕まったら?」

 百合に聞かれ、明神は百合の手首を掴んだ。

「腕を掴まれた場合、手首を支点にして肘を相手の方へ回すと外れやすい。無理に振り払おうとするのは相手も想定内だからしない事」

 百合の腕を動かしながら説明するが、百合はそんな簡単に外れるのだろうかと思った。明神が白湯を飲み干して立ち上がると、空になった湯呑みを台所に置いて直ぐ戻った。百合も立ち上がると、明神は百合の右手首を掴んだ。

「相手に手を掴まれた時、驚いて拳を握って相手から離れようとしてしまう事があるがそれはしない事。先ず手を開く。怖いだろうけど、相手に掴まれた方の足を一歩踏み込む。相手もそれは想定していない。逃げようとすると思っているのに向かって来たら混乱する。踏み込んだ足を軸にしてもう一歩相手の背後に回り込むつもりで踏み出せばさっきと同じ要領で相手の手が外れる。そのまま逃げる。欲を言えば相手の足踏んどくか、首の後ろ殴るかくらいしておいてほしいが……まあ、基本はこれ」

 明神に教えられるまま、手を開いて右足を明神の方へ向かって踏み出した。そのままもう一歩踏み出して明神の背中と自分の背中が向かい合うように踏み出すと、簡単に手が外れて驚く。けれども明神が手を離したのではないかと思った。明神がそれを察して百合と向かい合うと、左手を差し出した。百合が右手で明神の左手首を掴むと、明神が左足を踏み出し、すれ違う形で百合の後ろに回り込むと、結構強く握っていたのに簡単に手が外れて驚いた。力任せに手を振り解かれた感覚が無いことに尚更驚く。

「お前、逆上がり出来る?」

 百合はそれを聞いて首を傾げた。

「一応出来るけど……」

「後ろから抱きつかれた場合、大抵相手の腕が自分の胸より上に来る。その場合は相手の腕を掴んで逆上がりの要領で地面蹴って重心を下げれば大抵は相手が体制を崩す。体制崩さない屈強な男だったらそのまま逆上がりの要領で相手の脳天に蹴り入れとけばいい」

 百合はそれを聞いて顔が真っ青になった。

「怖っ」

「お前、自分が殺されそうになっている時に相手の心配なんかしてたら死ぬぞ」

「相手が刃物を持ってたら?」

「小手返しが一番良いんだろうけど……距離があるなら逃げて欲しい。何か手近に傘とかあればそれで相手との距離を取りながら逃げるが基本。まあ、目の前で急に刃物を出されたとなると、両手を開いて前に出し、相手の肘の内側を押さえて刃物をよけて、逃げる」

 明神が一つ一つ教えると、百合は嬉しいのと同時に少し恥ずかしかった。

「明神くんって色んな事を知ってるんだね」

 一通り教えて貰って、百合が呟いた。

「……刃物で刺されるとか襲われるのは何度かあったからな」

「ええ?! 何で?!」

 百合の質問に明神は視線を宙に投げて口籠った。

「……世の中には色んな奴が居るって事」

 少し考えてから明神が言葉を絞り出した。百合はそれを聞いて少し怖かった。

「『さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし』

 これは親鸞の言葉で、もし運命がそう導くならば、あらゆる行為に出るのも、人のさだめであると言う意味なんだ。

 人に騙された人間が復讐に走るのも、社会から疎外された人間が無闇矢鱈に何の関係も無い人間に危害を加えるのも、飢えに苦しんだ人間が盗みを犯すのも、全ては業縁によるものだから、悪い縁は近付けないに越したことはない。

 お前は特に他人に対して警戒心が薄い。先ずは疑う事を覚えてほしい。その為には知識の底上げが必要になる。だから本を読んでほしい。運悪く危ない目に遭いそうになったら先ずその場から逃げる事を覚えてほしい」

 百合はそれを聞くと頷いてみせた。

「しんらんって、日本人かな?」

 百合が質問すると、明神は視線を宙に投げた。

「……日本人だ。蔵に歎異抄があるから、興味があるなら一度読んでみると良い」

 今時の女子中学生の読み物では無いけれど……と言いかけて思い留まった。まあ、こういう本もある。くらいで留めておいたので良いだろう。

 百合が早速勝手口から外へ出て行くのを見送ると、明神は軽く溜息を吐いた。縁側から蔵の方へ視線を這わすと、彼女が蔵の戸を開けて中に入って行くのを見送る。それがなんだか切なかった。



 **************



 庭の落ち葉を掃いている女性が一人居た。さっきまで晴れていたのだが、ぽつぽつと雨が降り出していた。それに気付かないのか、海老色の紬を着た女はそのまま竹箒を動かしていた。

「何をやっているんだい」

 家の縁側から声がして、女はそっちへ視線を寄越した。それでやっと雨が降っている事に気付き、縁側に立っている老婆に向かって頭を下げた。

「申し訳ありません。考え事をしていました」

 女は疲れたような顔をして軒先に入った。そんな女に老婆は険しい顔をする。

「後で私の部屋に来なさい」

 老婆の言葉に女は軽く頭を下げた。老婆は女にとって姑だった。夫の母で、凄腕の実業家だ。今は夫が姑の事業を引き継ぐ様にしているが、夫は優しい人で、要は人に騙されやすいのでまだ姑が目を光らせている状況だった。

 女は風呂に入って着替えると、姑の部屋に向かった。南側の釣殿が、老婆のお気に入りの部屋だった。池に張り出した屋根付き廊を歩き、釣殿の前に立った。襖の前に膝をつくと声を掛ける。

「お祖母様、失礼します」

 引き戸に手を掛け、少しだけ開けてから襖の立縁に沿って開いた隙間に入れ、そのまま体の中心程度まで襖を開けた。反対の手に代え、体が入る程度まで襖を開けると、跪座から正座に直り一礼をしてから、軽く握った両手で体を支え、にじるようにして入室した。

 この入り方は姑から教えて貰った。夫とは恋愛結婚だった。何も知らない私に、長男の嫁として恥ずかしくないようにと教えて貰った。

「何を考えていたんだい?」

 姑の言葉に女は俯いて襖を閉めた。

「夫とは別れようと考えています」

 老婆はそれを聞いて溜息を吐いた。

「そうさね。まだ若いんだから、昔の事なんか綺麗さっぱり忘れて好きに生きるのがあんたには合っているかもねぇ」

 老婆は怒りもしないでそう言った。姑は一度だって私を責めた事は無かった。

「……すみません、もう、子供も産めませんし……」

「あたしはそんな事は気にしちゃいないさ。寧ろ感謝しているよ? あの馬鹿息子の為によく尽くしてくれている。次男坊の嫁と違いよく気が利く。まあ、あんたが居なくなると、あたしが寂しくなるかねぇ」

 姑の言葉に目を伏せた。

「子供の事は、仕方の無かった事だよ。これだけは誰にもどうにも出来ない」

 老婆の言葉に女は顔を上げた。

「またつい最近、変な電話が息子にかかって来たそうじゃないか。あんたの手前、あたしゃ何も言わなかったがね、孫の安否も分からないのにあんな電話一つでぽんと大金を振り込んでしまうなんて大馬鹿息子だよ。案の定、あれから連絡は一切途絶えているじゃないか。生きていたとしても、まともに育っちゃいないよ。十年も監禁されていたら足腰立たないだろう。親子の絆も何も無い、血が繋がっただけの子供と、信頼関係なんぞ築けるはずもない。

 もう死んだと諦めるのがお前さんの為だよ」

 老婆の話によくよく女は耳を傾けていた。

「お祖母様の仰りたい事はよく分かります」

「ただねぇ」

 老婆が呟くと、女は首を傾げた。

「予感がするんだよ」

「予感……ですか?」

 老婆は軽く頷いた。

「あの子が戻って来る気がするんだよ」

 女の瞳にぱっと光が射した。

「不思議な事に、私の予感は今まで外れた事が無いんだよ」

 女の目の端から涙が溢れると、老婆は口角を少し上げた。



 ************



 天空に月が出ていた。明神が縁側に腰掛けると、不意に庭の隅から青い袴姿の子供が顔を出した。明神が目配せすると、左慶が明神の前に出て来て頭を下げる。

「どうした」

 明神が問うと、不満気な左慶が顔を上げた。

「あんなの、どうなっても良いじゃないですか」

 明神はそれを聞いて一度空に視線を投げた。どうやら百合の事を言っているらしい。

「やきもちか」

「そんなんじゃないです!」

 左慶が叫ぶように言うと、明神はそっと左慶の頭を撫でた。

「別に崖から落ちたのが彼女じゃなくても、俺は同じ様にしただろう」

「分かっています!」

 左慶が明神の手を振り払うと、明神は軽く溜め息を吐いた。

「分かっています。主人は優しすぎるのです。お人好しです」

 そう言われて明神は視線をそらした。

「お前がそう思ったのならそれが真実なんだろうが、俺は優しいわけでは無い。守ってやれなかったと後悔したくない。何も出来ない自分が情けないと、自分が自分を嫌いにならないように取り繕っているだけだ。それは決して、純粋な善意じゃない。ただの自己満足だ」

 左慶は苦虫を噛み潰したような顔をして明神を睨んだが、明神はそんな左慶の表情を見て、再び視線を空へ投げた。

「……見つけたか」

 左慶の顔が辛そうに歪んで俯いた。

「何も見つけていません」

 左慶がそっぽを向いて言うと、明神はそんな左慶の姿に目を細めた。

「彼女にここから出て行ってほしくないのか?」

「あの女を生贄にして、主人がここを出て行けば良いのです」

「俺がそうするとお前は思うのか?」

「思いません! 思えないから、報告したく無いのです!」

 左慶が怒鳴ると、明神は軽く溜め息を吐いた。

「心配かけてすまない」

「主人はこれから、どうするおつもりですか?」

 左慶に問われ、明神は視線を中空に留めた。

「何も変わらん」

 明神の言葉に左慶はゆっくりと瞬きをした。

「彼女の両親が見つかったなら、親元へ帰すだけだ。まあ、身体があんな状態だから、清を着いて行かせる他無いだろう。追々、彼女を人間に戻す方法はまた探せば良い。屋敷の事も、俺の呪詛の事も調べる事は今までと変わらない。全部煩わしい事が済んだら、この家を畳んで何処かへ行こうか。左慶は何処に行きたい?」

 左慶は眉根を寄せて明神を見つめた。

「主人と一緒でしたら、何処へでも」

「そうか。それは楽しみだ」

 楽しみ。そう言いながらも、明神の表情は相変わらずだったが、それは今に始まった事では無かった。

「お二人ともご顕在でした。ただ気になるのは、彼女の祖母に当たる方が幅を利かせているみたいです。相当な鬼婆ですよ」

「そうか」

「父親は人に騙されて大金をせしめられたそうです。母親も、気の弱い頼りない女でした」

 明神はそれを聞きながらそっと目を細めた。

「でも二人とも未だに自分の子供の事を思っているのですよ。私には分かりませんね。十年も前に生き別れた子供の事を……」

 左慶がそう話していると、明神がじっと左慶の様子を見つめている。

「それを聞いて俺も安心した」

 左慶は明神の気持ちが分からなかった。

「子供なんてまた作るか、養子でも迎えれば良いじゃないですか」

「お前はそう思うのか」

「はい」

 明神はそれを聞くと、そっと左慶の頭を撫でた。

「……まあ、お前の場合は、そのくらいの方が良いかもしれない」

 明神はそう呟くと、月を仰いだ。

「彼女を親元に帰す準備を頼む」

「御意」

 左慶が姿を消すと、明神は再び月を仰いだ。心地良い風が短い髪を攫い、溜息が闇に溶けていく。もう夜半は過ぎていたのだが、二階から階段を下りてくる音が聞こえて来ると、そっとそちらへ視線を投げた。階段を下りてきたパジャマ姿の百合と目が合うと、そっと目を伏せて庭に視線を戻した。

「明神くんも眠れないの?」

 百合がそう問うと、明神は軽く溜息を吐いて立ち上がった。台所に立つと、片手鍋を火にかける。百合は困惑しながらも明神の様子を伺った。

「どうしたの?」

 明神は温めたものを湯呑みに注ぐと、百合に差し出した。百合は湯呑みを受け取ると、見たことのない白い液体の匂いを嗅ぐ。一口飲むと、口の中に甘みが広がった。

「美味しい! 何これ?!」

「甘酒」

「あまざけ……って、お酒? 私まだ未成年だよ?!」

「アルコールは入ってないからそこは気にしなくて良い。酒粕を原料とする甘酒には睡眠を誘う効果がある。ストレス緩和と自律神経の乱れを防止するから、寝付けない時はこれがおすすめではある」

 明神が説明すると、百合は不思議そうに明神を見つめた。

「明神くんは飲まないの?」

「俺は甘いものが苦手なんだ」

 即答すると、百合は不思議そうに明神を見つめる。

「私の為に、態々買い置きしててくれたの?」

 百合の質問に明神は目を伏せた。

「……熱中症や夏バテ予防にと思っていただけだ」

 百合は首を傾げた。

「……何か怒ってる?」

 百合はじっと明神の顔を見つめるが、何処となく不機嫌な印象を受ける。甘酒を飲み干すと、流しで湯飲みを洗って明神の手を取った。明神が直ぐに振り払うと、百合は目を伏せた。

「ごめん……私、明神くんに何かしたかな?」

 明神が何も言わずに縁側に腰掛けると、百合は少し戸惑いながら明神の隣に座り込んだ。

「どうしたの?」

 明神の視線が、月光に照らされた庭先に向いている。けれども何かを凝視しているというよりは、心ここにあらずといった感じだ。何か考え事をしているのだろう。空を見上げると、丸い月が雲一つ無い夜空で輝いていた。

「そういえば、今度里でお祭りがあるんだって。春香さんに誘われたの。明神くんも一緒に行かない?」

 明神はゆっくりと瞬きして百合に視線を向ける。

「……俺はいい」

「どうして?」

 百合が首を傾げると、明神は視線をそらせた。

「……用事がある」

「じゃあ私、その用事が終わるまで家で待ってるから、一緒に行こう? 夜、花火が上がるんだって」

「約束は出来ない」

「じゃあ来年、一緒に行こう」

 百合の言葉に、明神が一瞬少し驚いた様な顔をして百合を見たが、直ぐにいつものつまらなそうな顔になって、視線を庭先へ投げていた。

「……別に俺と一緒じゃなくても良いだろ」

「明神くんと一緒がいいの!」

 百合がごねると、明神は頭をかいて立ち上がった。勝手口の方へ行ってしまうのを見送ると、少し言い過ぎただろうかと落ち込む。暫くして庭に明神が来ると、持っていたバケツを傍らに置き、慣れた手付きでマッチを擦ると、ろうそくに火をつけた。百合もサンダルを引っ掛けて庭に出ると、明神は手持ち花火を百合に差し出した。

 百合は花火を一本手に取ると、物珍しそうにそれを見つめた。

「何してる?」

「ごめん、私、手持ち花火したことなくて……」

 この棒の、どちらが持ち手で、どちらに火を付けるのか分からずにいると、明神が百合の手に手持ち花火を持たせ、棒の先に火を点けた。パチパチと音を立てて火花が飛ぶと、百合は少し驚いて手を離しそうになったが、明神が手を離さずに居てくれた。だから少しだけ怖かったが、あっという間に火花が消えてしまうと、少し残念に思った。

 明神が火の消えた手持ち花火をバケツの水の中に放ると、新しい手持ち花火を百合に差し出した。

「これ、買ってたの?」

「商店街で貰った」

 成る程、明神のチョイスにしては少し違うと思ったが、百合は納得して今度は自分でロウソクの火に手持ち花火の先を伸ばした。中々火が点かず、ロウソクの火が消えてしまうと、明神は再びマッチで火を点けた。

「火を点ける時は、燃えている炎心じゃなくて、外炎……炎の先端目掛けて持っていくと火が点きやすい」

 明神がそう説明して再び百合の手を掴むと、ロウソクの火の先端に花火を持っていくと、直ぐに音を立てて火が点いた。明神がそっと手を離すと、百合は不安気に明神を見つめる。明神は少し眠たそうな顔をしていた。

 最後の線香花火を握り締めて百合がロウソクの火を消すと、明神は首を傾げた。

「楽しかったから、明日、またやっても良いかな?」

 明神はそれを聞くと、目を伏せた。何も言わない明神に百合が小首を傾げると、明神は少し考える素振りをした。

「……どうしたの?」

「お前が楽しめたなら良かった」

「明神くんは楽しくなかった?」

「いや……」

 そう呟くと、不意に夜空を見上げた。

「良い思い出になったと思う」

 明神はゆっくりと視線を百合に戻した。

「もう部屋に戻れ」

「もう少しだけ起きてても良いかな?」

 百合が屈託なく笑うと、明神はバケツを持って勝手口へ向かった。百合が縁側に腰掛けると、戻って来た明神が百合の手を引く。居間の隣に敷いてある布団に寝かされると、身体にタオルケットを掛けられた。部屋の電気を消し、枕元の電気スタンドの灯りを点けると、光が百合に当たらないように角度を変える。百合は隣に正座した明神を見上げた。

「お前が寝るまで、本読んでやるから」

「え!? 本当に?! 嬉しいな。何の本?」

 百合が嬉しそうにすると、明神は傍らに置いていた本を取った。

「鑑草」

「かがみぐさ?」

 百合は薬草か何かの本だろうかと少しがっかりした。こう言う時、御伽話とか、童話が定番では無いだろうかと思いつつ、まあ、彼の性格上、多分勉強の本なのだろう。

「中江藤樹」

 聞いたことのない名前に百合は首を傾げた。

「有名な人?」

「内村鑑三の代表的日本人に出てくるから有名人ではあるだろうが……滋賀の人間なら馴染み深いだろうが、この辺りではそこまで知っている人は居ないかな。愛媛の大洲に居た頃もあったらしいが、自分で調べなければ知る事も無いだろう。

 知っているだけで行動しないのであれば、それは本当に知っていることにはならないという意味の『知行合一』を掲げていた人だ」

 知らないワードばかりが出て来て百合は冷や汗が流れた。

「興味が無ければ無理して覚えなくて良い」

 明神が呟くと、百合はゆっくりと瞬きした。

「何だか難しそう」

「お前にはまだ早いだろうから、重要な所だけ噛み砕いて読んでやる」

「早い?」

「妹が嫁ぐ折に藤樹が妹に持たせたものだと言われている。嫁いだ先での心得が書かれている」

 『嫁ぐ』と聞いて百合は目を見開いた。成る程、結婚するにもそんな教科書が存在するのかと感心する。明神が頁を開くと、百合はその様子をじっと見つめていた。

「……幸福の種を播いて育てる畑は、人々との日常の付き合いの中にある。

 いつも明るく、どんなことにも執着せず、怒らず、頑固にならず、不機嫌になることが無いようにすること……」

 百合は静かに聞いていたが、直ぐに眠ってしまった。明神は序章だけ読み終わると、軽く溜め息を吐いて百合の頭を撫でた。

「……真心を込めて、親孝行する事……俺には出来なかったから、お前はこれから、沢山親孝行するんだ。これは決して、理不尽に従えと言う意味じゃない。親でも相手は人間なんだから、機嫌の悪い時は当然ある。その時、親が悪い方へ向かない様に教え諭すのが孝行だ。親の言っていることが仁に適っているか、義であるかが判断基準になる。もし不義だったなら、一旦相手の言っている事を受け入れて、それから正しい道を教えてやりなさい。最初は聞き入れられなくても、根気強く……そうだな……お前が大人になる頃まで言って聞かせて、それでも駄目なら、自分の幸せの為に一度親と距離を置くと良い。

 親が亡くなったら孝行が出来ないと言うわけではない。お前の身体は、間違いなく親から貰ったものだから、その自分の身体を親の遺体と思って大事にしなさい。食べるものにはよく気を付けて、夜更かしは程々に。酒は嗜む程度に。

 子が生まれたら、その子を大事にしてやりなさい。忙しかったり、自分の時間が無いとその時は思うかもしれないが、その子の手本となる大人になる様、心掛けてほしい。

 身体が老い衰えても、心まで衰える必要はない。長患いさえしなければ健康だし、飢えなければ富んでいる。早死にさえしなければ長生きだ。多くを望まず、足ることを知ればいつでも幸せで居られる。

 最期を迎える日が来た時、後悔のないような生き方が出来れば良いと思う」

 一頻り呟いて、明神はそっと目を伏せた。

「お前がここに残ってくれたら、俺は退屈しないんだろうけど……本来ならあったはずの幸せをお前から取り上げてしまったと後悔するんだろう」

 そう呟いて電気スタンドの光を消した。部屋を出て障子を閉めると、再び縁側に腰掛ける。さっきまで庭でしていた手持ち花火の光が脳裏を過ると、そっと目を伏せた。

 俺は一体、本当はどうしたいのだろう?

 自分が子供だったなら、寂しいと言って、泣いて縋って彼女を引き止めただろうか? 自分の我儘に付き合わせる事に何の疑問も抱かずに済んだだろうか?

 彼女の本来あるはずの幸せを踏み潰す事に後ろめたさを覚えたりしなかったろうか?

 そんなありもしないどうでもいい事を考えながら、東の空が白んで来るのを眺めていた。

 何れ訪れると解っていたはずの別れを前にして、揺れる自分の心にどう折り合いをつければ良いのか分からなかった。

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