Novelber day 27 『外套』

 それは、私がまだ小学生だった頃の話。


 ◆


 その日、私は家の中で暇を持て余していた。学校は休みだったが、遊びに行く予定もなく、一緒に過ごせる友だちも捕まらず、だらだらと寝そべって、漫画を読んで過ごしていた。

「ちょっと、お父さんの外套を取りにクリーニング屋さんに行ってくるから、お留守番しててね」

「はぁい」

 昼食を食べ終わって食休みをしていたら、母にそう声を掛けられた。別段珍しい用事でもなかったので、二つ返事で快諾する。晩ご飯にカニクリームコロッケ買ってきてあげるからね、というおまけも嬉しくて、少々退屈でも我慢しよう、と思った。

(ガイトウ、ガイトウ……って何だって、コートとかだっけ? もうすぐ冬だもんね)

 私の他に誰もいない、シンと静まり返った室内で、再び床に寝そべって漫画の続きを読み進めていた私は、そんな取り留めのないことを考えていた。当時の私は、母の言う「外套」が、どんな字なのかも知らなかった。ただ、それまでの両親の会話から用途を推測して、きっとアレだ、と当たりを付けていた。

(ガイトウ、ガイトウ……お父さんのガイトウ、どんなのだっだかなぁ――あぁ、そうだ。ちょうどこういう、灰色の……)

 ふと、読んでいた漫画本の先で、一着の外套が揺れているいるのが見えた。安っぽい黒いハンガーで壁に掛けられたそれは、厚ぼったく、やたらと古めかしいデザインだった。しかし皺もなく綺麗で、まさに、ついさっきクリーニング屋から取ってきた、という様子だった。

 そうだ、これこれ。これがお父さんのガイトウだ――と、納得した気持ちで、漫画の続きに戻ろうとした。けれど……。

(……? あれ……お母さん、まだ帰ってきてないよね……?)

 そうだ。母が出かけてから、まだ何の音沙汰もない。鍵の掛かった扉を誰かが開けた気配も、来客のチャイムすら聞こえない。

 そもそも、こんな服、さっきまであったっけ……?

 嫌な気配で全身がゾワゾワした。何か、あってはならないことが起きているような違和感に、変な汗が出てきた。私はまた、そうっと、その壁に掛けられた外套の方を見た。

 足があった。

 外套の、裾の下から――二本の裸足の足が、生えていた。

 私は硬直し、息も止まった。それは、見覚えのない足だったから。お父さんの足でも、お母さんの足でもない。爪先には黒い汚れがこびり付いているし、肌もやつれたように皺だらけで、けれど血管がボコボコと浮き出ていて。そして、

(あ、あ、あ。足、だけ、だ)

 小学生の私にも、大人の身長というものの見当は付くようになっていた。このくらいの身長なら、腰はこの辺にあって、膝はこの辺りで――と、子供の視線だからこそ、下半身はよく見えた。だけど。なら。

 ……この人の首は、どこにあるのだろう。

 膝は見えているから、曲げていないことはわかる。真っ直ぐに立っている。なのに、その先が無い。腰も腹も首も。裾の先から、足だけが。

 黒い汚れがこびりついた、分厚い爪だけが、目の前に並んで――


 …………バタバタと、玄関が騒がしくなる気配に飛び起きた。いつしか私は眠っていたらしい。ドッドッと鳴る心臓を抑え、頬を撫でる。熟睡していたのか、気を失っていたのか、頬にはカーペットの痕が残っていた。

「ごめんねぇ、遅くなって! すぐに晩ご飯にするからね」

 母の声だ。凄まじい安堵感に、殆ど腰を抜かしていた。母は慌ただしく部屋に入ってきて、クリーニング屋から持ち帰った、父の外套を壁に掛けた。……さっきと同じ場所に。

 ビクッと肩を揺らして青ざめたが、その外套は黒く、清潔感のあるこざっぱりしたもので、あの灰色の外套とは似ても似つかなかった。そして、去年も何度も見たことがあるのを思い出し、どうして一瞬でも、あの灰色の外套を父のものと勘違いしてしまったのか分からなかった。そもそも、全て気味の悪い夢だったのかもしれない。

「大丈夫? 調子悪いの?」

「あ、あ、う、ううん……」

 顔を白くさせる私に、母は心配そうに声を掛けてくれた。私は、曖昧に首を横に振ることしか出来なかった。


 後日、それとなく母や父に、灰色の外套を見たことはないかと尋ねてみたけれど、二人ともそんな服は手持ちには無いと言っていた。

「あぁ、でも俺の叔母さんが昔、そういうのを着てたような……もう、暫く会ってないけど」

「そ、それって、い、生きてる人?」

「? そうだけど……?」

 父が晩酌の最中、そう言っていたことがあった。けれど酔っていた為に要領を得ず、そういう服が欲しいのか? 渋好みだなぁ、等とからかわれたので、すぐに席を外してしまった。

 結局、アレが何だったのか、今でもよく分かっていない。

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