3 英雄のいる街
深い森を抜けた先には広い草原が広がっていた。
青く澄んだ空から流れ込む爽やかな風は、背の低い草花を波の様に揺らしていく。
草原の真ん中には一本の茶色い砂の道が続いており、その上をリゼ達は気持ち良さそうに歩いていた。リゼが背負う鞄から下げられたエノは、リゼの歩幅に合わせてカランカランと心地の良い音を立てて揺れる。
「この後行く街ってさ、どんなところなの?」
ふとかけられたその声に、リゼは答えようとするが、言葉にならない様子で考え込み。やがて立ち止まると遠くを見つめ顎に手を当て始めた。
「…それが、正直よくわからない」
「よくわからない?ってどう言うこと」
予想外の歯切れ悪い回答にエノは聞き返す。
リゼはその後も「うーん…」と困ったように考え始めると、やがて口を開いた。
「それが、活気がなくてつまらない街だって言う話もあれば、うるさいぐらいに活気に満ち溢れすぎている街だって話しもあるんだよね…」
「まるで正反対じゃん。大丈夫なのそんなよくわからない街に向かって」
「ここから一番近い街だからね。せっかく作った売り物が悪くならないうちにってなると他に選択肢がないんだよ」
リゼはそこまで言うと、再び顎に手を当てて考え込む。
「でも確か、少し引き返して森を出てすぐ北に向かえば、他の村もあった…気がする」
彼女はそう言って腰のポーチから折り畳まれた羊皮紙の地図を取り出すが、取り出しただけで広げず、遠くを見つめまた考え込む。
「エノはどっちがいい?」しばらくの沈黙の後そう問いかけられたエノは一瞬考える素振りをするが、長考は諦めすぐに答える。
「このままでいいんじゃない?戻るのめんどくさいし。それに…」
「それに?」「それに、どうせいつも何かしら問題は起こるんだから、どっちに行っても一緒だよ」
うんざりした様に言うエノに対してリゼは「なんだそんなことか」と言うと「それがいいんだよ」と軽く笑いながら返す。
「じゃあ決まり、このまま行こう」
リゼは考えるのを中断し、地図を仕舞うと再び歩き出した。
彼女が歩き出すと、まるで背中を押すように風が吹き、顔にかかった髪をくすぐったそうに耳にかけた。
「あーあ。こんな時乗り物があれば行きたいところにすぐ行けて楽なのになー」
冗談まじりにそう言うエノに、リゼは歩きながら返す。
「私は、馬もエンジンで走る乗り物も、実はあまり好きじゃないんだよね」
「なんで?その方が楽じゃない?」
「理由はいっぱいあるけど、世話やメンテナンスが面倒だし…」
そう言うものだから仕方ないでしょ?と返すエノにリゼは続ける。
「それに、こんな心地の良い時間を楽しまずあっという間に先に進むなんて、そんなの愚か者のすることさ」
「じゃあ毎晩の野宿も賢い行動なの?」
「毎日宿に泊まってたら、経験できる事も経験できなくなってしまうよ。たとえそれが良くないことでもね。《何かを学ぶのに、自分自身で経験する以上に良い方法はない。冒険した事のない人とはとてもつまらない人だ》って言うでしょ?」
「その言葉は知らないけど、どうせ少し改変してるでしょ」
「まあね」と気持ち良さそうに笑うリゼに、エノは返す。
「でも時間を無駄にしないって意味では、乗り物に乗ることは決して悪いことじゃないと思うよ。ほら現に今も時間が無いせいで売り物が駄目になりかけてる」
「…確かに、この世の中で一番価値のあるものは時間ってのもわかるよ。時間をただただ浪費するってことは、人生の価値がわかってないってことになるしね」
振り返りながらそう答えるリゼに、エノはほれみたことかと続ける。
「じゃあやっぱり乗り物が正解?」
しかしリゼは納得していないように、遠くを見つめ「うーん」と唸る。
「まだ何かあるの?」
「正直これが一番の理由なんだけど。乗り物を外に駐めた時とか乗っていない間に、盗まれるんじゃないか?とか、邪魔になってないか?とか、色々気を使うのがめんどくさいんだよね…自分の荷物は基本的に肌身離さず持っておきたいんだよ」
「…さっきまで時間が一番価値あるとか言ってたくせに…」エノは続けて「心配性というか貧乏性というか…」と吐き捨てるように言うと、そのはっきりと聞こえてきた小言にリゼは答える。
「それに、今はまだエノと二人でこうしてのんびり旅しているのが楽しいからね。乗り物代わりになりうる動物はいらないよ、今はまだ。ね」
「今は…?」
エノのムッとした返事など聞こえないフリで、リゼは再び気持ちよさそうに果てしなく続く道を進んでいく。
「ねえ、今は…ってどういうこと?」
繰り返し訊ねるその声は、回答を得られ無いまま街の城壁が見えてくるまで続いていた。
―――…
遠くに見えていた城壁が近づくにつれて賑やかな音楽や歓声が聞こえてくる。
その音は街の城門に到着した頃には一層騒がしくなっており、オレンジ色に染まった穏やかな空とは裏腹に街の中はお祭りムード一色といった様子だった。
リゼは城門前の詰所で衛兵に言われるがまま入国の手続きを行うと、最後に入国書類に判を押す。
「はい、入国の手続きはこれで終わりです。そこからお入りいただいて大丈夫ですよ」
若そうな衛兵は爽やかな笑顔でにっこりと街の入り口となる両開きの扉を指す。
この時間、既に街の城門は閉まっているようで、どうやらその扉が唯一の出入り口のようだ。
「記載いただいた滞在期間内であれば出入りは自由です。ただし、この入国書は肌身離さずお持ちください。滞在中は身分を証明する物にもなりますので」
「ありがとうございます。お世話になります」
丁寧に案内してくれた衛兵に、リゼは軽くお辞儀と感謝の言葉を伝える。するとその衛兵は「しかし旅人さんもタイミングが良い、なんてったって今日は半年に一回の感謝祭の日なんですよ」と、高揚しながら言った。
案内された街の入り口に向かおうとしたリゼは足を止めて聞き返す。
「…感謝祭ですか?」
「はい今日から三日間、この国を豊かにしてくれた英雄様を祝して感謝祭を行っているのです。今日はその初日なんですよ!」
「なるほど、だからこんなに賑やかなんですね」門の反対側で起こっている騒ぎに合点がゆき、リゼがそう返した時。一層大きな歓声と金管楽器の騒音が耳に響き渡る。
「あ!凱旋パレードが始まったみたいです!さあ、早く中に。私もそろそろ見物に行かなくてはいけないので!」
衛兵は慌ててそう言うと、リゼの背中をすごい力でぐいぐい押し始める。背後でエノが「わわっ」と悲鳴をあげるが、衛兵はそんなことお構いなしにリゼを扉の反対側まで押し込んだ。
扉を潜るとそこには大通りが広がっていた。
既に数え切れないほど大勢の人々がひしめき合い、一様に歓声をあげている。
「では!我が国スタニアをどうぞごゆるりとお楽しみください!」
衛兵は早口でそれだけ言い放つと、通ってきた扉を忙しなく閉め、そのまま人混みの中へと消えていった。
リゼとエノは改めて街の中を見回す。
空には舞った風船や紙吹雪には夕焼けが反射しきらきらと輝き。複数階建ての建物の窓からは、沢山の人々が身を乗り出し歓声を上げ、街路にずらりと並んだ露店の前では子供達が楽しそうにはしゃぎ踊っていた。
何処もかしこも楽しそうな人々の光景は少し目眩がするほどであった。
騒音の中、リゼが呆然としているとエノは口を開いた。
「…なんだかとても楽しそうな街だね」
「うん、みんな眩しいぐらいに、なんというか、生き生きしてる」
「踊りに、露店に、この後はパレードだっけ?こんなの半年単位でやって疲れないかなぁ…」
エノは衛兵の《半年に一回の》と言う言葉を思い出し少し呆れた様にそう言う頃。あたりの人々がこれまでで一番大きな歓声を上げはじめた。
どうやらパレードの先頭が見えてきたらしい。
リゼは少し移動し人混みの隙間からなんとか大通りの中心を覗き見ると、大通りの先からやってくるパレードの集団が見えた。
鮮やかな衣装を着た楽隊を先頭に、ピカピカの武具に身を包んだ兵士が綺麗に足を揃えて後進してくる。そして、その集団の中列では豪華な馬車が楽隊の歩幅に合わせながらゆっくりとこちらに向かって進んできていた。
馬までも派手な装飾を施されたその馬車の上では、これまた一層派手な武具に身を包んだ男性が、手を掲げながら終始爽やかな笑顔を人々に振りまいている。
その果てしなく長い行列を見ながら、歓声に負けないようにエノが叫ぶ。
「あの手を振っているのが英雄様かな。なんか英雄って言うからもっと男臭い感じを想像してたけど、爽やかなイケメンって感じだね」
エノのいう通り、その馬車の上に立つ英雄らしき人物は、体格こそ悪いわけではないが他の兵士と比べると小柄で、その体躯に似合わない豪華な鎧は一層ひ弱さを引き立てる様であった。
リゼは小さく「そうだね」とだけ言うと、歓声に溢れる人混みを避け、路地裏の方に向かって歩き出した。
「見ていかないの?」
「というか、見えないからね」
パレード集団の周りには、彼らを近くで見ようと隙間なく人が押し寄せ。またパレードの後ろからは、既に彼らが通り過ぎた大通りを人が波のようについてきている。
その光景を見てエノが返す。
「…そうだね、ここから離れるのに賛成。人混みは好きじゃ無いから大賛成」
裏通りへの道を探すリゼに改めてエノが声を掛ける。
「で、これからどうするの?」
「とりあえず売り物を買い取ってくれる市場探しかな、そのお金で泊まる宿を探そう」
「こんな状態で市場空いてるかなぁ…祝日になってたとしてもおかしくないよね」
「露天はやってるんだし、多少なりと市場に人はいると思うよ」
二人がそんな会話をしていると、裏通りの手前の角地に店を構えていた露店の店主が声をかけてきた。
「お嬢さん旅の人かい?」
「はい、先程この街に入国してきたばかりです」
不意にかけられた声にリゼは愛想良く答えると、三十代ほどでガタイの良い店主は、硬そうな髭を釣り上げニカっと笑い、リゼに向かって綺麗な赤い果実を一つ放り投げた。
「そりゃタイミングの良いことで!良かったらこれ持ってきな」
「え、あの」
「お代はいらないよ。ただしばらく滞在するってんなら贔屓にでもしてくれれば助かるかな」
店主はそう言い今度は歓声に負けないくらい豪快に笑う。
リゼが果実を懐にしまうと、店主が再び口を開く。
「ところで英雄様はみれたかい?」
「はい、少しだけですが」
「そりゃ良かった!まあこの人混みだから、俺は見れないだろうけどな」
露店と大通りの間の厚い壁のような人々を見て悔しそうにそう言うと、その短く固い顎髭をザリザリとさする。
すると、今度は珍しくエノから店主に訊ねる
「ところで聞きたいんだけどさ、あの英雄様は何を成し遂げた人なの?」
「おや、ランタンが話すなんて珍しい」
店主は驚いたようにエノを見つめたかと思うと、エノの質問に答えるではなく、露天の天板下から小さな小瓶を取り出しリゼに差し出した。
中には少し色がついた少量の液体が入っている。
「君にはこれを上げるよ、ウチの果物で作ったオイルだ!まだまだあるから気に入ったら買いに来てくれよ!」
「ありがとう…それで…」
「ああ、すまん、えっと彼の偉業についてだったな、あの方の名前はエドレイン。数年前の遠征で誰もが考えられないほどの偉業を成し遂げて帰ってきたんだ!そのおかげで街が抱えていた不安は去り、街は救われ豊かになったのさ」
「で、偉業って何?ズバリその人は何をしたの?」
エノが改めて訊ねると、彼は一瞬悩んだ様子で返す。
「うーん詳しくは聞いてないが、悪党の一団を壊滅させたとか凶悪なドラゴンを打ち取ったとか…まあなんにせよ偉大なことをしたんだ!」
「とりあえず、この街の宝ってことだね」
エノがそう言うと、「まさにそうだ!今この街があるのは彼のおかげなのさ!」とさっきまでの悩みもない様にまた豪快な声を上げた。
リゼはそこまで聞くと店主にお礼を言い、エノに「そろそろ行くよ」と言うと、自分の売り物の小瓶を忘れずに店主に渡してから。その露店を後にした。
大通りを外れ、人一人居ない裏通りを当てもなく散策しながら二人は話す。
「エノは英雄様に随分興味あるみたいだけどどうして?」
「いや、別に…。でも随分と情報があやふやだったね」
「でもまあ皆から慕われてるのは確かみたいだよ」
未だ聴こえる歓声に耳を傾けながらリゼは続けて答える。
「とは言っても、事実がはっきりしていない以上、何をしたのか真実はわからないけどね。悪にかけても英雄は存在するように」
「どーしてそーゆうこと言うかなぁ…」
そんなことを言い合いながら、この街で唯一開いていた市場を見つけると早速リゼは商談に入った。
――…
「え?」
リゼは取引相手から帰ってきた言葉に珍しく表情に出して驚く。
「うん、ごめんね、でもこれは買い取れないんだ」
この市場の取締役と紹介してくれた、優しそうな表情の小太りの中年男性は、そう言うといくつかの小瓶をリゼに突き返す。小瓶の中には、先日山の頂上で採取したあの寄生植物の種が入っていた。
「この種は単体では確かに危険なものですが、ちゃんとした使い方をすれば薬にも―…」「あぁ違う、そうじゃなくて」
リゼが言い終わる前に、割り込む様にしてその小太りの男性が口を挟む。
「この街の決まりでね、この種の実と、それらから作られる薬の類は禁止されているんだよ」
「それはどういう…結構一般的な物だと思うのですが」
リゼが食い付くと、男性はハンカチで額を拭ってからリゼに説明する。
「えーと、そうだね。この植物のことは知っているよ、確かにそのまま体内に入れたら危険だけど、煎じて飲んだり、お茶などに入れれば大丈夫。成分にはヒペルフォリンを多く含んでいるから精神症状の回復につながる。要するに抗うつ薬の材料だよね」
「はい、その通りです」
リゼが真面目な表情で答えると、男性は呆れた様子でさらに続ける。
「だからさ。これが精神症状に効く薬だから要らないんだよ、そんなのこの街の人には必要無いからね。必要ないものは買わないし売らない」
「でもこれだけ大きな街だと、必要としている人も居るのではないんですか?」
その後もリゼは、精神症状に苦しむ人間は統計的に百人いれば四〜五名はいるはずだ。と詰め寄るが、全く聞き入ってくれなかった。
やがて男性は、その重そうな体を腰掛けから起こすと窓際まで歩いて行く。彼が窓を開けると外からは相変わらず賑やかな街の声が入ってきた。
「この街の様子を見なかったのかい?」
「はい、それはここにくる前に拝見してきました」
「じゃあわかるだろう?街人誰もが彼をみている。彼の存在が私たちの心を支えてくれてるんだよ」
窓の外を見ながらそう言うと、改めて自分のデスクへと腰を下ろした。
「少し昔はこの国も毎日不安や不信にかられていたよ。何も取り柄もない街だったからね。広い平原に囲まれのどかではあるが、これといって特産品があるわけでもないし、危機がくることもない。平和と言ったら聞こえはいいが、なんというか面白みのないつまらない街だったんだ」
男性は頬杖をつき虚空を見つめると、当時を思い出すかのように続ける。
「毎日同じように目覚め、毎日同じ様に一日を過ごし、同じ様な明日を想像して眠りにつく、この街の人は今までそんな生活をしていたんだよ。そしていつの日からか変化のない生活に街の人は皆精神を病み、薬を愛用する様になっていた。今回持ってきてもらったそんな感じの薬をね…」
少しの沈黙の後リゼが訊ねる。
「変化を求めようとはしなかったんですか?」
「そりゃしたさ、でも気持ちを変えただけで変われるほど、私たち人間は上手くできてないからね。結局何も変われなかったよ」
男性はそこまで言うと体をデスクの上に乗り出しリゼの方に目を向けると、さっきまでの表情とは打って変わって明るく言う。
「でもそんな時彼が現れた。彼は英雄となり私たちのいくべき道を示してくれている。明かりを照らし刺激をくれる、だからわたし達はもう悩まずにいられるのさ」
男性はリゼの目の前に以前置いてある小瓶を指差す。
「そう言うわけで、その薬はもうこの街には要らないんだよ、あの頃に戻らない様にね」
そこまで聞くと、リゼは諦めて市場を去ることにした。
――…
太陽は遠くに沈み、空には大きな月が浮かんでいた。
リゼは暗い路地裏で座り込み、売れ残った寄生植物の種をじっと眺める。
辺りに人は居らず、夜も老けてきたと言うのに遠くでは相変わらず賑やかな声が聞こえてくる。
「どこも買い取ってくれなかったね」
エノが呟く。
「皆んな口を揃えたように英雄様だったね」
エノが続けて呟くとリゼは軽く頷く。
先程の市場以外に、薬剤を扱っている店や類似の露店にも交渉を持ちかけてみたが、結果は全滅で、リゼの手元にはこの小瓶だけがいつまでも残っていた。
「…どこも買い取ってくれないのは流石に予想外だ、他の街ならこんなことないのに」
「まあ、国王の命令だしね」
吐き捨てるように呟くリゼにエノが返すと、彼女は俯き頭を抱える。
「別にこれは日持ちしないわけじゃないし…果実の方が売れたからお金には困ってないけど」
「けど?」
「売れる当てが外れたのがムカつく」
その後もぶつぶつと文句を垂れるリゼに向かって、人影が一つ歩いてきた。
その人影に、エノが先に気づき、彼の合図でリゼも顔をあげる。
フードを深く被ったその人影は二人の目の前までくると、立ち止まり止まり声をかけた。
「旅商人の方、ですよね」
声からして二十から三十歳ほどの男性の様であったが、口以外を覆ったフードのせいで容姿は認識できない。
リゼはその顔の見えない不審な人物に警戒すると、エノと小声で言い合う。
「怪しいよね」「うん。怪しいね」
依然と立ち尽くす彼に、リゼはいつでも逃げられるように身構えつつ、しかし警戒心は表情には出さず笑顔で返す。
「何か御用でしょうか?とは言え、今の私にこの街で売れる様な品物も、高価な品物持ち合わせてないですよ?」
「…いえ大丈夫です、さっき市場のやり取りを見させてもらっていたので…」
後をつけてきたことを事もなげに言う彼に、流石のリゼも強い警戒の表情を送る。しかし、彼はそんな彼女の表情に気づいた様子で慌てて口を開いた。
「ああ、ごめんなさいこんな格好で急に話しかけて怪しまれるのもわけないですね」
そういうと彼はゆっくりとフードをおろした。
闇に包まれた路地裏、フードの下の顔が月あたりに浮かぶと「あ!」っとエノが大声で叫ぶ。
「英雄の人!」
エノの声に、彼は口に人差し指を当て「静かに」とジェスチャーするとあたりを見回す。幸いに裏通りに依然人はおらず、エノの声は通りの騒ぎ声にかき消された。
周囲の誰にもバレていない事にほっとした様子の彼は改めて紹介する。
「初めまして。既にご存知かもしれませんが私の名前はエドレインと申します。エドで大丈夫です」
その英雄は少し申し訳なさそうに笑顔を浮かべながらそう言うと「挨拶が遅れてすみません」と付け加え、手を差し出す。
リゼは立ち上がり、彼の手を取り握手を交わす。その表情に先程までの警戒心はなく、今度はこちらから挨拶を返す。
「私はライゼです。リゼで大丈夫です。あっちこち旅をしながら商人をしています」
そして、そこまで挨拶をすると、ランタンの方に目線を移しエノを紹介をする。
「でこっちはエノ」
「エノと言います、エノで大丈夫です。よろしく」
エノがそんなふうに自己紹介をすると、彼は驚いた顔をして返す。
「他に人が見えないので、誰と話しているのかと思ったら…そう言う事でしたか。よろしくエノ」
エノは火の粉を軽く散らすと再び「よろしく」と返した。
「先程は申し訳ございません、英雄様とは知らず失礼な態度をとってしまって」
リゼは先程酷く警戒してしまったことに対しの謝罪を言うが。彼は「いや大丈夫ですよ」と軽く返すと続ける。
「私は英雄なんてそんな器じゃないですから」
終始笑顔でそう言う彼の表情は、路地裏より薄暗く陰っており、笑顔こそは浮かべているがその奥では疲労が溜まっている様であった。
リゼが彼の表情を伺っていると、珍しくエノの方から口を開く。
「でも、随分様々な偉業を成し遂げたんですよね?よくわからないけど」
「…そう、なっているみたいですね」
エノの質問に彼は少し間を置いて、ため息のように言葉を吐き出す。
そんな彼にリゼは優しく問いかける。
「…なんだかとても疲れているみたいですね」
「はは、やっぱそう見えます?やっと人の前から降りられたので緊張が解けたのかな、まあ適当言って抜け出してきたんですけどね」
相変わらず疲れ切った笑顔で返すと、エノが続けて質問する。
「それで、その英雄様が僕達旅人になんの様ですか?」
「実は、先程の市場で売れ残った商品をあるだけ売って欲しいのです」
彼はリゼの左手に握られている小瓶を指しながら答えた。
「これですか?でしたらちょうど在庫を抱えているところですが…」
「そうですよね、これが必要ないのはこの街ぐらいですから」
彼がそう言うと、リゼは少し悩んでから小瓶を彼の前に差し出す。
「ええ、いいですよ。こちらとしてはとても助かりますので。ただ、決して不用意そのままに飲み込んだり、誰かに飲ませたりしないでくださいね?」
リゼは一言だけ忠告してから、手に持っていたものも含め、いくつかの小瓶を手渡す。
「…この植物のことは知ってるから大丈夫だよ」
彼はそれを受け取ると、一つを月に照らすように掲げ、中を覗きながら再度「大丈夫」と自分に言い聞かせるように呟くと、リゼに向かって話はじめる。
「人間は誰しも悩みを抱えてるものです、ですから、他の国でこの種の商品はほぼ売れ残ることはないと思います。でも、この国では全く売れません。そもそも禁じられていますからね。だから初めてこの国にそれを持ってくる商人は毎回余らせているのです」
「その度にこうして?」
「はい、こっそりと分けてもらっているんです」
リゼの問いに相変わらず暗い笑顔で返すと、小瓶を懐の奥の方へとしまう。
その後ズボンのポケットを探り、数枚の銀貨を取り出すとリゼに差し出した。
「お代はこれで足りるかな」
「少し多い様ですが、両替しましょうか?」
「余った分は取っといてくれ、今日この街に来てくれたお礼だよ」
彼はリゼが銀貨を受け取るのと見届けると、背を向ける。
「ありがとう、じゃあ私はもう行くよ。早く戻らないと余計な心配させてしまうからね」
背中越しにそれだけ言うと、そそくさと歩き始めてしまった。
その背中に「最後に一つだけ」とリゼは声を掛ける。
「貴方は何をしたのですか?」
彼はその場で立ち止まると、顔だけで振り返り答える。
「何もしていないよ。ただ、偶然そこにいて、選ばれてしまっただけさ、偉業なんて何もしてないよ」
「どう言うこと?」
小声で聞くエノにリゼは答える
「与えられた生活を安穏に送っていると人は次第に無味乾燥になるんだよ。普通はそこで何か刺激となるようなものを見つけるんだけど、それが何も無いこの街の人はそれができず、ついには勝手に彼を英雄に仕立て上げて自分達の理想像を作り上げたんだ、信仰できる対象をね…そう言う事ですよね?」
英雄は沈黙のまま否定しない。その肯定と取れる彼の反応に、エノは何も言わず、リゼは静かに語りかける。
「あまりお勧めしませんが、もし、あなたがさっきの種をそのまま口にすれば、きっと祀りあげられている今の苦しみから解放され。また、街の人が道を見失うこともないでしょう」
彼が命を落とせば、この街の人は再び目標を見失うか、別の英雄を作り上げるだけで何も解決はしないが、もし彼がその種を飲み込んだならば、たちまち植物に寄生され、やがてはあのドラゴンのように樹木となり、彼の代わりに信仰の対象として永遠に崇められることになるだろう。
その英雄は、無言のまま前を向く。そして背中越しに返す。
「私はたとえ利用されていようと、この産まれ育った街が好きだから。自分から今の役目を投げ出したりはしないよ。…でも、心配してくれてありがとう」それだけ言うと彼は歩き出し、そのまま見えなくなるまで振り向くことはなかった。
見えなくなった彼の背中を見つめながら、リゼが誰に言うでもなく呟く。
「子供が闇を恐れるのは無理もない、大人達が光を恐れる時本当の悲劇が訪れる」
「それは誰の言葉?」「忘れた」エノの質問に軽く返すと、リゼ達も大通りに向かって歩き始めた。
大通りに出ると、英雄は既に、宮殿のように大きな建物のバルコニーから下の民衆に向かって手を振っている。その表面に、先程までの疲れ切った表情はなく、爽やかな笑顔が張り付いていた。
その光景を見ながらエノが口を開く。
「なんか街を上げての偶像崇拝って感じ。あれで英雄って言っていいのかな?」
リゼは首をふりながら答える。
「完璧な英雄なんてどこにもいないよ。でも、彼の様に苦しくても弱みを見せず人を導く姿は英雄そのものだよ」
依然と、毅然に手を振る英雄を見上げるリゼに再度エノが訊ねる。
「彼はこのままでいいのかな?」
「それは彼が決めることで、それに私たちが解決できる問題じゃないからね」
リゼはそう答えると、優しく手を振る英雄に背を向け歩き始める。
「さあ、今晩泊まる宿を探しに行こう」
「空いているところがあればいいけどね」
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