オアシス奇譚

令狐冲三

オアシス奇譚 前編

 日は昇り、日は沈む。


 広大な荒地の果てを見た者はない。


 雨も降らず、岩と裂け目だらけの大地がどこまでも続いている。


 空に雲はなく、鳥の姿もない。


 風も吹かない。


 何千年、何万年と、荒地はその姿を変えてはいなかった。


 だが、中心に小さな泉が湧き、その周辺にだけわずかな人々が集まり、小さな村を作っていた。


 村には東と西にそれぞれ一つずつ門があったが、誰一人として荒地へ出ようとしなかったし、いつ頃からそこに村があるのかも知らなかった。


 知る必要がなかったからだ。


 二人の賢者が、村の酒場のカウンターで酒を酌み交わしている。


 酒場は空いていた。


 村人達はみな、酒など家でも飲めるのだからわざわざ酒場を利用することはないと考えていたし、何か話し合う時だけに酒場は使われ、故に混雑することがなかった。


 賢者の一人は老人、もう一人は若者であった。


 老人は教養を象徴する紫のマントを羽織り、羽根飾りのついた紫の帽子を被っている。


 若者は知性を示す青いマントと青い帽子。


 二人は姿なき国王のもと、民の幸せのために働いているのであった。


 老人はパイプで紫煙をくゆらせながら、おもむろに言った。


「お前の考えは間違っているよ」


「やはりそうでしょうか」と、若者は穏やかに応じた。


 その瞳は酩酊することなく澄みきっていた。


「うむ。この村に法律はないが、不文律として一つだけある。お前も知っての通り、人は多くを欲してはならぬ、とな」


「人は多くを欲してはならぬ」


 若者は復誦してから顔を上げ、老人へ問うた。


「ですが、我々の仕事は人々を幸いへと導くことなれば、より多くの幸いを求め、与えねばならぬのでは?人の幸いのために求めるのであれば、私欲とは違うと思いますが」


「同じじゃよ。我々は多くを与えようしてもいかんのだ。振り返ってもみよ。わしらは人に与えるだけの幸いを持っているかね。持っているのは今ある幸いだけじゃ。与えようとすれば、他に求めねばならぬ。これは禁じられておることじゃろう」


「なるほど」と、若者は肯いた。


 老人は続けた。


「多くを求めれば、持っている幸いをも喪ってしまうのじゃ。例えば、わしがこの紫のマントを羽織る幸いをお前達青のマントを羽織る12人に等しく分け与えたいと願ったとする。紫のマントは王が神より与えられたもので一つしかない。じゃが、わしはさらに12のマントを求めねばならなくなるのじゃ。わしはどうする?心乱れ、今ある幸い全てを失うことになるじゃろう。同様に、お前達全員がこれを欲しても叶えられぬ。紫のマントは一つしかないのじゃから」


 若者は目を伏せ、真剣に考え込んだ。


 老人は銀の盃を手に取った。


 顔を上げた若者の瞳は、明るく笑っていた。


「ええ、よくわかりました。やはり私が間違っていたようです。今のままあることが一番の幸いなのですね」


 老人も微笑んだ。


「そうだ。今のままありつづけることこそ、一番の幸いなのじゃ」


 二人は乾杯した。



 同じ頃、広大な荒地を村へ向かう二つの人影があった。


 西に傾き始めた太陽の下、一方は伸びた影に向かい、一方は長い影を引きずって。


 互いに相手の存在を知らず、果てしない荒地にうんざりしながらも、懸命に歩き続けていた。


 彼らの旅には、ある目的があったからだ。


 夕日が地平の彼方へ没し去る直前、二人は村にたどり着いた。


 一人は東の門。もう一人は西の門へと。


 彼らは思いがけず発見した村の存在に驚き、喜び勇んで門をくぐった。


 喉の渇きを潤そうと、死に物狂いで歩き続けた。


 村の辻々にはきちんと石畳が敷かれ、家々からもれる温かな灯といい、荒地の中とは思えぬ豊かな雰囲気が漂っている。


 二人の旅人は水を求めてひたすら進み、やがて泉のほとりに出た。


 彼らは馬みたいにガブガブ水を飲み、互いの立てる水音で相手の存在に初めて気づいた。


「こんばんわ」と、まずは東から来た旅人が声をかけた。


「こんばんわ」と、西から来た旅人も応える。「酒場がどこにあるか知りませんか?」


「いいえ。実は私もそれをお聞きしたかったんです。あなたも御存知ないとは、ううむ、困りました」


「ええ、ええ。いささか困りました」


 二人は並んで泉のほとりに腰を下ろした。


 人気のない暗闇の中に、二人の声だけが響いている。


「では、あなたは旅をしているのですね?」と、西からの旅人は言った。


「はい。日の沈む方へ行ったら何かあるんじゃないかと思いまして、ずっと歩いて来たのです。では、あなたも旅を?」


「ええ。私は日の出る方へ行ったら何かあるのではないかと思い……幸いあなたは私の行こうとする方角から来られたようです。よろしければお教え願えませんか。東の方には何か素晴らしいものがありましたか?」


「さあ……私は何もなかった気がしますけど。あ、でも絶対ないってことじゃないですよ。私は愚か者ですから見落としたかもしれませんし、過ぎてきた場所をいちいち憶えちゃいないんです。それより、西の方はどうです?何か素晴らしいものはありましたか?」


「いえ、見たような気もするし、見なかったような気もするし……私は愚か者でよく憶えちゃいません」


 おいおい彼らは身の上話などを始めた。


 お互い、旅のほとんどがそれぞれにとって愉快なものではなかったらしい。


 話題もさほど面白いものではなかった。


 それでも、これも何かの縁と二人連れ立って酒場を探し始めた。

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