第6話 全ては神の導きのままに②

 アレクサンドラの国外追放から一月半後、以前のように出歩けるまで回復したアイラは次に浄化する町へと来ていた。あの事件で予定が大きく狂ってしまい、暫くの間は過密なスケジュールが続く。疲れていないと言えば嘘になるが、国民の皆にはギリギリまで待ってもらったのだ。弱音を吐けるような状態ではないと、疲れが残る顔を化粧で隠してもらって何とかやっている。


「やはり前に報告を受けていた時より瘴気が迫っているな」


 視察の為に共に来ていたレオナルドが苦々し気にポツリと零す。瘴気など無かった世界から来たアイラには目の前の黒い靄が命さえ奪うものだという実感はいまいち湧かない。ただ靄に覆われている一帯の草木が枯れかけているから、何となく良くない物だと思えるだけで。

 大体ごく普通に高校生をやっていた自分が別の世界に召喚されて聖女だなんだと持てはやされる事自体が非現実的なのだ。出来ればすぐに違うと言って帰りたかった。

 しかしそうは問屋が卸してくれず、自分の力は本物のようで促されるままに両手を靄が漂う方向に向け、瘴気よ消えろなんて内心で陳腐な言葉を唱えるだけで、手の平から白い光が溢れて靄が綺麗さっぱりと消えてしまったのだ。

 歓喜に沸く人々の中でアイラだけは周囲から切り離されたかのような心地だった。漠然と脳裏に浮かんだのは「もう逃げられない」の一言だった。

 後で聞いたが一度召喚された人間が帰る事は出来ないそうで、結局本物の聖女であろうがなかろうが自分は一生この国で過ごして行くしかないのだ。そう確信した日の夜は枕に顔をうずめてひっそりと泣いた。

 この国にようやく慣れたのだって実は割と最近である。人間は急激な環境の変化に対応できるメンタルの持ち主とそうでないものに別れるが、アイラは後者の人間だった。

 会話や読書は問題ないが、家族や友人はおらず常識も全く違う世界で生きていけるかどうか。不安だらけの彼女の心を溶きほぐしてくれたのが今隣にいるレオナルドだった。

 彼は何かと気遣ってくれ、アイラにとっても彼と過ごす時間は楽しかった。それから侍女をはじめとした周囲の人間とも打ち解けるようになり、前向きな気持ちで日々を過ごせるようにまでになった。

 誓って言うが、彼女は決してこの時まではレオナルドに恋をしてはいなかった。確かに素敵な人だが彼には素晴らしい婚約者がいるし、アイラ自身レオナルドのことはどこか遠い所にいる人だと思っていたからだ。

 そこでまたもや誤算が生じる。レオナルドが自分と過ごす時間が明らかに増えたのだ。当然その事実は貴族達の噂になる。アイラも侍女から「お2人は密かにお付き合いしているのですか?」と聞かれて噂を知ったのだ。

 この頃には憧れのような恋のような想いを抱いていた彼女だが、アレクサンドラを押しのけてまで隣にいたいとまでは思わない。第一自分には王妃なんて荷が重すぎる。

 彼には何度か婚約者との時間を作るよう言ったことはある。あまり自分といたら彼女もやきもちを焼くかもしれないと。しかし彼は彼女だって分かっていると繰り返すばかりで、あまり取り合ってくれなかった。

 2人を思うならもっと強く言っておくべきだったのだろう。だが憧れの人が毎日のように忙しい合間をぬって会いに来てくれたら悪い気はしない。結局中途半端な対応があの日の事件を引き起こしてしまったのだろう。そう思うと罪悪感に苛まれる。

 だがどうにも疑問に残る。本当にアレクサンドラが毒を盛ったのか。

 噂はどうあれ、態度や表情から察するに自分は良くも悪くも彼女からあまり関心を向けられていなかった。常識的と言えば聞こえは良いが無難過ぎる対応しかされていなかった。まるで興味が無いとでも言うかのように。これなら自分をポッと出の癖にと嫉妬の目で見ていた他の令嬢達の方がまだ考えを読み取れる。彼女が追放されてしまった今、考えたところで詮無きことだが。


「お願いします聖女様。どうか我らに奇跡を」


 町長の懇願にアイラはハッと現実に戻る。いけない、今は仕事に集中しないと。

 アイラは両手を翳していつもより気合を入れる。ブランクがあるのが懸念だったが、問題無く白い光が辺り一帯を包み込み本来の土地の姿が現れた。


「おぉ!あんなにあった瘴気が……っ」

「流石聖女様だぁ!」


 離れた場所で見守っていた町人達から一斉に歓声が挙がる。今回も上手くいって良かった。隣にいる彼も「よくやった」と褒めてくれている。

 後は王都へ帰るだけだ。その前に町長が前に出て是非祝いの宴を受けるようにと勧められたが辞退した。王宮の豪華な食事よりも平民達の素朴な料理の方が口に合っていたアイラにとっては地味に辛い事だった。

 ただでさえ厳しいスケジュールの中、歓待まで受けてしまえば余計時間を食ってしまう。それにもし余裕が出来たとしても今後は出来立ての食事にはありつけない。あの事件がきっかけでアイラが口にする飲食物は例外なく毒見を通してからになったからだ。

 以前は自分達を救ってくれる聖女を害すはずがないとアイラだけは例外的に他の者よりも早く食事にありつけていた。そのおかげで多少なりとも温かさを感じられていたのだが、毒を盛った者が実際に現れた事で今ではすっかり冷めた食事が普通だ。

 この後も予定があると表向きの言い訳を伝えれば町長はあっさりと退く。その代わりにせめてもと渡されたのは、魚と香草をパン生地で包んで焼いたこの辺りの家庭料理だった。

 包装代わりの木の皮からじんわりと伝わる温かさと鼻腔を擽る良い香りに、ここのところ無かった食欲が呼び起こされる。だが即座に侍女に取り上げられてしまう。荷物持ちは使用人の役目で主人が持つべきではないからだ。

 折角渡された料理も食べられる頃には冷めているのだろう。日本にいた頃は友達と一緒に買い食いしていたというのに。

 正直ストレスは溜まる一方でホームシックにかかった事もある。だが文句を言ってはいけない、不平や不満を態度に表してはいけないのだ。

 連れて来られた世界によっては実験用のモルモットや性的な労働をさせられていたかもしれないし、場合によっては生贄行きだったかもしれない。優しい国に召喚された自分は幸運である。

 小さな頃に憧れていたお姫様のような暮らしを送れて、国中の土地を浄化した後も用済みと追い出される事無く王宮に置いてもらえる。王妃に就くのはプレッシャーでしかないが、憧れの彼とも結婚出来るのだ。

 帰りたいと言ってしまえば優しい彼等を困らせてしまう。これで良い、自分の人生はこれで良い。

 本当の気持ちを無理矢理押し込んだアイラは、自分と同じくらいの少女が両親らしき男女と喜び合っている姿をから視線を逸らした。

 あの後宿泊施設の中で無理を言って食べさせてもらった家庭料理はやはり冷め切っていた。

 



 だがこの時点では彼女の心にはまだ余裕はあった。決して満たされないがこれ以上失うものも無い。良くも悪くも彼女の環境は安定していた。

 事態が急変したのは王宮に戻って1週間ほど経ってからだった。慌てて駆け込んで来た側近の言葉を聞けば、浄化した筈のあの村からまた瘴気が溢れ出したそうだ。このような事は初めてで何かの間違いを疑うレオナルドに、例の村とその周辺を取り仕切っている貴族が憔悴した様子で首を振る。

 その後も続々とアイラが浄化済みの土地から再度瘴気が噴出した報告が舞い込み王宮は混乱に陥った。

 瘴気の噴出は不定期だが一度浄化すれば最低でも20年は保つのが今までの定説である。ところがここに来て起こった謎の再発に原因も解明出来ぬまま貴族達は対応に追われる事となった。

 被害状況や各地の報告の確認で慌ただしくなる周囲を見たアイラの背中に冷や汗が流れる。

 

「もしかしたら私の浄化が不完全だったんじゃ……」

 

 震えながら零された言葉を聞き取ったレオナルドは、彼女を正気に戻すように真正面から両肩に手を添えて目を合わせる。


「いやそれは違う!僕も君が召喚されるのをこの目で見たんだ。君は間違いなく聖女だし、神から与えられた力が不完全なんて事ありえない。君は悪くないんだ!」


 そうは言われても安心は出来なかった。今や国のあちこちで瘴気は再発しているし、この世界は自動車なんて高性能な移動手段は誕生していない。

 不眠不休で動いたって再度浄化し直して他の土地にも行くなんてとても無理だ。必ず何処かで犠牲者が出る。

 罪悪感と糾弾されるかもしれない未来にアイラは顔を蒼褪めさせる。


「仕方ない。門の作成を許可する」

「よろしいのですか?」

「構わない。緊急事態だ、出し惜しみしていられないだろう」


 そんな時、レオナルドと最高神官であるアダムが彼女には理解出来ない会話をした。門とは一体何なのだろうか、そう内心で首を傾げていると神妙な顔のレオナルドは彼女の手を引き付いて来るよう囁いた。

 

 連れられて来た場所は神殿の地下だった。聖女として様々な儀式に出ていたアイラにとってはそれなりに馴染み深い所だが、こんな場所があるなんてと辺りを頻りに見回す。

 アダムが壁の燭台に火を灯して明るくなるにつれて、古いが長年良く整えられている事に気付く。埃っぽくも無い事から普段から手入れを欠かしていないのだろう。

 何故こんな場所に連れて来たのだろうか、不思議に思っているとレオナルドが独り言のように謎めいた言葉を呟く。すると驚くべきことに一瞬で彼女の眼前に大きな門が現れたのだ。

 成人男性の背丈を優に超える門を見逃すなどありえない。だが本当に一瞬で出現したのだ。目の前で起こった信じられない出来事に呆然と扉に触れる。指先から確かに伝わる冷たく固い感触がこれが幻覚などではない事を物語っていた。


 「びっくりした?これは僕達タラスティナの人間にしか使えない秘術、魔術と呼ばれるものだよ」

 

 驚きを隠せない様子のアイラにレオナルドは悪戯が成功した子どものように目を細めた。

 

 それから彼やアダムの口からこの国の真の歴史について語られた。彼等の祖先は元を辿れば他国から迫害を受けて当時瘴気渦巻くこの地へと追いやられた民族だったそうだ。

 瘴気は土地を不毛にさせるだけではなく、長く留まっていれば健康に支障をきたし、屈強な人間でも数年と経たずに衰弱して息絶える。その為かつての此処は温暖な地域にも関わらず追放先にうってつけの場所であった。

 このような土地にはとても住めず、かといって戻れば殺される。元々差別され抵抗する力の無かった祖先達は全てを諦めて死を覚悟したそうだ。その時に神が降臨し、この地に蔓延っていた瘴気をいともたやすく浄化しつくしたらしい。

 また神はそれだけではなく、祖先達に魔術を教えた事で彼等は急速に開拓を進め発展していった。その中でレオナルドの祖先が初代国王に就き、1番魔術に秀でた者が救世神を祀るナイアト教の司祭となり、この国は益々活気に溢れるようになった。

 漸く安住の地を手に入れられたと安堵していた途端に水を差すように、かつて自分達を追いやった国がこの土地を寄越せと命令して来た。当然先祖達はそんな虫の良い話に頷く訳もなく拒否すると、今度は兵を差し向けて来たのだ。

 しかし恐怖と圧制の象徴であったかつての祖国も、神と魔術を味方に付けた先祖の敵では無かった。先祖達は敵を圧倒し周辺国に力を知らしめると共に、二度と手出しをさせないよう恐怖を存分に植え付けたのだ。

 その後彼の国は手の平を返すようにへりくだり、他の国もそれに追従した。これが700年前の出来事だそうだ。それ以降周辺国は盛衰を繰り返したのに対し、魔術があるタラスティナは常にどの国よりも優位を保っている。

 神はと言うと戦争に勝利した後は「今後は自分達の力で切り開け」とだけ告げると消えてしまった。いつも降り立っていた場所に魔方陣だけを残して。その魔方陣こそが聖女を呼び込む魔方陣である。

 瘴気を祓う使者を遣わしてくださる事から、神は今もこの地を見守り続けてくれている。それがナイアトを崇めるこの国の教えなのだそうだ。

 全てが終わった先祖達は魔術の知識と技術が他国に漏れないよう、魔方陣を囲うように大規模な教会を建てて更にこの地下を造った。神官達の中でも魔力の高い者はここで日夜魔術の研究をしているとのことだ。

 

 この国の成り立ちを最後まで聞いたアイラの正直な感想は「まるでファンタジーのよう」だった。古い話と言い、神が建国に関わっていると言い、何処かのRPGゲームの設定にしか思えない。

 しかしそれで片付けるには先程レオナルドがやった魔術がどうしても邪魔をしていた。自分が地球からこの世界に飛ばされた事からして何か大きな力を持った存在が絡んでいるのは間違いない。神は流石にないだろうが、人智を超えた技術を持つ宇宙人がタラスティナ王国の前身に干渉した可能性はある。


「この扉は景色を頭に思い描がけばその場所へと繋がる魔術だよ。今後はこれも使って移動しよう」

 

 アイラの脳裏に未来の道具を使う青いネコ型ロボットの姿が思い浮かぶ。地球ではまだ実現していない技術を経験出来るとは思わなかった。これならきっと浄化巡りも間に合うだろう。打開策に漸く緊張の糸が緩む。

 しかしそれと同時に1つの疑問が浮かび上がる。何故今までこの方法を使わなかったのかと。


「でもアイラ、これだけは覚えていてほしい。魔術は便利だけど万能ではないんだ」

「私が門の使用を躊躇したのも今からお話しするデメリットが関係しております」


 2人の神妙な顔に興奮していた気持ちが静まる。青い猫型ロボットの話だと、遠くへ行く為に普通に使っていたからデメリットがあるなんて思いもしなかった。

 デメリットはなんと使用者の精神が削られるというもので、当時の戦争でも乱用して気が触れた者も少なくなかったらしい。

 今回使用する門の魔術も例外ではなく、起動はともかくとして作成には多くの精神が消費される。しかも1つの門で繋げられる場所は1箇所のみ。計算しないと人がどんどん使い潰される事になる。便利だが恐ろしい、まさに諸刃の剣だ。


「これは1番古い門で交通の要の街に繋がっている。なるべく既存の門と馬車を併用して、新規の門と繋げる先は効率的になるよう調整しよう」

「調整は私共で行いましょう」


 アダムが調整の担い役に手を上げてこれで一先ずは移動時間の問題は何とかなった。そうと決まれば出発に向けて準備をしなければ。アイラは彼等に促され門から背を向け階段を上がろうとしたその時、壁一面に描かれている壁画のある一箇所が目に入った。

 豪華な衣装に身を包んだ黒い肌の女性の前に跪き首を垂れる、これまた豪華な衣装を着た女性。左に視線を移せば跪いていた女性は今度は台座の上に寝転んでいて、腹部には翼の生えた大蛇が鎮座している。更に左には大蛇が敵兵らしき人間をその巨体と牙で大勢葬っている絵だ。

 彼女はその中である1点に違和感を抱いた。翼の生えた大蛇の絵だけが周りに比べて色が若干鮮やかだ。本来の絵の上に書き直したかのような、そんな印象を受ける。


「アイラ?」

「いかがされましたか?アイラ様」


 2人の訝し気な声にアイラはハッとして「何でもない」と返事をすると今度こそ階段に脚をかける。きっと劣化でそこの部分が剥がれて修復をしたんだ、そう結論付けて。




 瘴気の再発に慌てふためく者が多い中で、アレクサンドラを見送っていた者達はとある屋敷で集まり何度目かの会議を開いていた。

 

「まさか瘴気の再発など……」

「このような事は前代未聞ですぞ」


 あまり睡眠を取れていないのか隈が目立つ顔の伯爵が首を横に振り、前例の無い事態に王族でもある公爵は憔悴した声を出す。

 彼等はアレクサンドラが追放された日のあの顔にどうにも不安が拭えず、これまでに頻繁に手紙のやり取りをしたり会議を開いて周辺地域の変化など情報交換していたのだ。

 同時に万が一を考え食料や住民の避難などの備えも急ごしらえだが並行している。ここまでやって国に報告しないのは、どうせ報告したところで真面目に取り合ってくれないと分かりきっているからだ。

 自分達もあの時の彼女の顔と魔術の技量を見ていなければ大袈裟だと一蹴していただろう。それほどこの国は魔術の優位性を疑わず平和ボケに染まってしまっているのだ。それでもどうにか他者の危機感を煽ろうと、彼女の話題が出た時にさりげなくこのまま彼女が黙っているだろうかなどの発言をしてみせた。結局成果は得られなかったが。

 国や周囲が頼れないなら自分達でやるしかない。当時の彼らは彼女が追放先の上層部を扇動して戦争を仕掛けてくるのだと予測していた。彼女は王太子妃だった立場上国家機密も把握している。その中には勿論魔術の知識の数々だって。国家機密と魔術と彼女自身の知能、これが他国に渡れば大国のタラスティナでも付け入られる隙は充分ある。

 だからこそ各々で出来るだけの準備はしてきたのだ。せめて自領の民だけは助けようと。だが現実に起こったのは瘴気の再発、しかも原因は不明のまま。完全に想定外の出来事に全員頭を抱えるしかない。

 

「もしや彼女はこれを予想していたのでは……?」


 カイゼル髭が特徴のアイゼン伯爵が呟いた言葉は決して大きくなかったが皆の耳にやけに大きく響く。一様にまさかと思う気持ちといや彼女であればという気持ちがせめぎ合う。

 聖女が一度浄化すれば数十年は安泰、これがこの国の常識で誰も疑おうとはしなかった。

 だからこそ今は国中が混乱しているのだが、彼女は有体に言えば天才であった。彼女の両親はあまり我が子に目を掛けていなかったが、違う家庭に生まれてさえいれば間違いなく何かしらの爵位を与えられるよう苦心していたであろう。

 女と言う理由でその才覚を振るえない彼女を不憫に思い、男名を使って政務が出来るように取り計らってくれた貴族さえいた。そのくらい彼女の知性は輝いていた。

 彼女ならば地方の視察の際に瘴気の再発を見抜いていてもおかしくはない。だからこそ自分を捨てた国にあのような嘲笑をしてみせたのだろう。近いうちに滅ぶと分かっていたから。そして自分は安全な場所でタラスティナの滅びを見届ける。こんなに彼女にとって痛烈な復讐は無い。

 王宮では再び聖女を派遣する話があるが彼女の事だ、それだけで収束する可能性は低い。三度四度と再発したら確実に食糧事情は厳しくなり経済は傾く一方だ。まずは一刻も早く安全な場所へと領民を避難させなければならない。

 アイゼン伯爵は机上に国の地図を広げる。大半が瘴気の脅威に晒されるタラスティナの国土だが瘴気の及ばない安全な土地も一部存在している。北の大陸に繋がる場所と南の王都を含めた土地だ。

 その中でもそこを治める領主とのパイプがあり、他国の侵略の危険性が少ない土地は3つに絞られた。王都より更に南の最大の貿易都市アンガと近隣の諸島群、並びにウンディ山脈の麓のレストラ領と王家所有の城塞都市フォルトムーアである。

 3箇所とも移民を受け入れられる面積と職の需要、防御性能に優れ自領からの移動距離も現実的な範囲内だ。現状はこれ以上に良い案は思い浮かばない。

 そうと決まれば避難計画の詳細なスケジュールと避難候補地の領主への根回しだ。領民の中には子どもや老人だけでなく妊婦や病人もいる。失敗は許されない。あの領主への見返りはどうしようか


「すまない。軍備はそれなりなのだが正直食料が足りないのだ。誰か分けてくれないだろうか」

「うちが少し分けてやろう。その代わりに兵を貸してもらいたい」


 各々自領からの安全なルートを割り出し、それにかかる食料や金銭などを計算する。国が乱れれば治安は必然と悪化し、増えた野盗が避難中の領民達の食料や家畜、金銭を狙って襲撃する可能性は大いにあり得る。防ぐ為には護衛の兵士が必須だし兵を稼働させる為に更に金や食料が要る。

 金が足りなければ家財道具を売る算段をつけ、互いの領地を近道として利用出来るよう話し合い、物資や人員の貸し出しを纏め、漸く全員のスケジュールが形になる頃には真上にあった太陽が月へと変わっていた。

 領地に帰った彼等はスケジュール通り準備を進めつつ、領民には『ここ最近の瘴気の再発で治安が悪化している。その為いつでも避難出来るよう荷造りをしておくように』と言い含める事にした。生まれ育った土地を捨てる覚悟を持てるまでは、こういった現実味のある注意を流した方がかえって動いてくれやすいからだ。

 そうして全ての準備が整い次第彼等は避難を開始した。事前に瘴気が再発した地域での作物の生育状況の噂を流したお陰か、避難に不安な顔をする者こそいたが誰も反対はしなかった。

 多くの貴族達は時期尚早では疑問を呈したり聖書への不敬だと憤る者もいたが、彼等はそのような声には毅然とした態度を貫いた。

 後に彼らはあの時の自分達の判断は正しかったと知る事になる。

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