20話 欠けた揺り籠 《宙間移民船ノア》
「おう着替えに向かった割にずいぶんと遅かったじゃん? ってかなんでそんなにずぶ濡れなんだ?」
ミナトが狭苦しい船室に戻ると、ジュンが屈託ない笑みで迎えた。
全員の視線も声に吊られるようこちらへ向く。
一方でミナトはずぶ濡れだった。しかも初めて見た異物に戸惑いを隠せないでいる。
「あのトイレって蓋開けて座るタイプなのか? 足に力が入らないから滅茶苦茶使いづらそうだったんだけど?」
着替えてこいと言われ席を立ち手洗い場に向かったまでは良かった。
しかし手洗い場に入って未知との遭遇を果たすことになるとは夢にも思わない。しゃがまず座るタイプのトイレを肉眼で視認してもなお正気を疑い続けている。
マテリアルの面々は僅かに沈黙し、もう1度ずぶ濡れのミナトを見た。
「一瞬何事かと心配しちゃって損したわ。確かにあの辺境の地で洋式トイレなんてあるわけないものね」
「でもノアにいけば洋式和式のどっちも使えっから心配しなくていいぜ」
「トイレのタイプって人によるよね。お尻が触れる場所が嫌って言う潔癖な人もいるし」
途端にトイレ談義が始まってしまう。
辺境の星しか知らぬ
しかも傍らには装置のようなものまでついているし、近づくだけで蓋が開くし、ボタンを押してみたらユニットのようなものまで飛び出す。
唐突に水を浴びせられたのだからミナトにとっては恐怖でしかない。たかが排泄するだけの物体がまさか人類に反撃を企てているとは……。
――ひどい目に遭ったな。これがジェネレーションギャップってやつか。
ミナトは首を振って髪についた水滴を犬のように散らす。
それから着替えの際に着直したジャケットのジッパーを首元まで引き上げた。
「おや? 着替えに行った割りには元の服装か? 先ほど渡した最先端科学技術の《パラスーツ》はお気に召さなかったかな?」
「いやインナーとして着させてもらっているよ。着心地もまあ……それほど元と変わらないから違和感はない」
そう言って明人は不思議そうに首を傾げる東へ黒いボールを差し向ける。
このバスケットボールほどの黒い球体は先ほどまで着ていた流動生体繊維のスーツだ。今現在は先ほど渡された流動生体繊維Ver.2という《パラスーツ》とやらに着替え直している。
Ver.2は、
ミナトにとってはなんてことはない着替え。しかし他の面々は不満を顕にする。
「少しくらいお披露目をしてみては如何かな。その通称パラスーツはキミの着ていたオールドタイプのスーツよりもデザイン性に富んだ技術を組み込んでいる」
「俺らはミナトがどんなデザインをALECナノコンピューターに打ち込んだのか見たくて待ってたんだぜ」
ジュンと東の男連中は、遠回しにジャケットを脱げと言っている。
杏とウィロメナの女子側も、口に出さぬが好奇心を瞳の中に閉じ込めていた。
ミナトはしばし考え、面々から視線を逃がす。
「元の黒いやつと同じデザインだよ。どうせ見てもがっかりするだけだぞ」
しょうがないから真実を告げる。
するとジュンを含めて船内の空気が僅かに白けた。
「えーまじかよつまんねーなぁ! クッソどぎつい色合いとかででてくるのを笑う準備してたってのによぉ!」
「パラスーツが支給された翌日あたりからそういう遊び流行ったわよね。わざとダサいデザインにして周囲を笑わせてみたりとか」
杏は興味を失ったとばかりに髪を掬って手を振った。
ジュンほどではないにしろ笑う準備をしていたのかもしれない。
「フム。とはいえそのジャケットを着るというスタイルもまたノアで掲げる自由の1つだ。それはそれで悪いというわけではない」
意外だったのは東がとくにこれ以上前のめりになってこないことだった。
この男のことだから面白がってくると、想定して構えていたミナトは軽い肩透かしを食らう。
どうやら多少の野次は飛んだが、いちおう面々は脱がすことを止めてくれた。
一瞬肝を冷やす場面だった。が、なんとか場を凌ぎきったらしい。
――ふぅ……あぶねぇあぶねぇ。このことはディゲルとチャチャさんにも教えてないんだから隠し通さなとな。
ジャケットをおいそれと脱ぐわけにはいかない。
ミナトはなんとか事態を回避できたことを髪から水滴を垂らしつつ安堵した。
「……っ!」
唐突にウィロメナが肩をぴくっ、と揺らす。
心の音が聞こえてしまう彼女に隠し通せるはずもないのだ。
近くにいた杏が異変を察して「どしたの?」、彼女を覗き込みながら尋ねる。
「の、ノアまで後どれくらいでつくんだろうね! 向こうに着いたら色々やることがいっぱーいあるから今のうちに確認して置いたほうがいいかも!」
「確かにそうね。堂々とミナトを連れて乗船するのは自殺行為に等しいわ。あのバカアホすかぽんたん女ったらしがきちゃったせいで面倒ごとにならなければいいんだけど」
杏はいつにも増して貫くような責め立てる視線で東を睨みつけた。
睨み肩が尋常ではない。まるでゴミクズでも見るかの如き辛辣な目つき。
そしてどうやらウィロメナはミナトに気を効かせてくれたのだ。考えを察して場の話題を変えくれたとしか考えられぬ流れだった。
「……」
あ・り・が・と・う。周囲に悟られぬよう声を発さず口の形で伝える。
「……」
対して、お気になさらず。ウィロメナは口角を僅かに上げてちょん、と愛らしく上半身を傾けるのだった。
彼女の機転の甲斐あって、すっかり話題が東を責めるという段階へとシフトしている。
「いくら総司令の東だからって今回の失態はいただけねぇぞ。革命の矢が見つかったなんて暴露するとかなに考えてやがんだよ」
「不用意、不用心。信頼の失墜に足る堕落的な責任問題へと発展しかねない事態だわ」
やや険悪なムードが漂う。
それもそのはず部下が気を遣ったにもかかわらず上官がおめおめと敵に内情を漏らしてしまったのだから。
ジュンと杏は相手が年上だろうと手を抜かず、粛々と反省を促していく。
しかし東はどこ吹く風とばかりで、にやけ顔のまま佇んでいる。
「フムフム。お前たちはまだまだ青く成熟からはほど遠いな。聞け若人たちよ」
凜々しい顔立ちで羽織の襟を正した。
同時ににやけ顔を引き締める。
「このアザーと行き来する船に穏健派が常駐して潜り込んでいたとしたらどうする?」
追い立てられる側だったはずの戦況がたったのひとことで一変した。
優勢だったはずの杏とジュンは瞬く間に「……っ!」「そ、それは……」たじろいでしまう。
「もし革命派総司令であるこの俺が突飛な行動をとって敵の隙を突かなかったとしたら。穏健派連中を無理矢理にでも警戒させなかったとしたら。お前たちはアザーの地から離れることすら叶わなかったかもしれないな」
トドメとばかりに東は己の首筋に指を突き立てる。
「それどころか7年に渡って探し出せた鍵は1本限りだ。穏健派に先手をとらせていたら革命の矢の可能性を臭わせる少年へ、確実に《ALECナノマシン》を打ち込んでいたことだろう」
プシッ、と。銃の形にした指で首を突きながら空気の音を漏らす。
遊びを入れる所作にさえ大人の風格があった。
つまり東が穏健派とやらの行動をその身と身分で強引に妨害する。そうすることで穏健派を一時的に混乱させ
聞くだけでは賭けのようではあるが、よく考えてみれば方法は簡潔かつ巧妙。アザーへ向かった杏たちをミナトごと回収するには最適解なのかもしれない。
年若きマテリアルの面々と比べてこの男は度胸と思慮の底が深すぎる。これではもう異論を唱えられる者はいない。
「なにより俺の愛する我が子たちをアザーに向かわせたことさえ強行したようなものだ。ならば総司令として成すべき責務は部下を安全にノアへ帰らせることのみ」
東は、シワひとつない白い羽織のポケットに手を突っ込みながら面々をぐるりと見渡した。
そして大人の時間は終わりとばかりに「はぁーはっはっはァ!」天を仰いで歓喜を歌う。
――信用……してもいいか。いちおう。
ミナトは不思議と、この東という男にディゲルの影を見ていた。
己の権威を盾としたいわば自己犠牲。飄々としているようで一概にそれが男のすべてとは言い難い。どこか不器用だがキャンプを取り仕切る屈強な背によく似た行動理念だった。
ひとしきり笑い終えた東は、熱が冷めるようなゆったりとした早さで振り返る。
「ともあれ長々と話をするのにここでは無粋だな! せめて紅茶と茶菓子と給仕の女の子くらいなければ口が渇いて仕方がないぞ!」
そう言って今度は自分の耳をとんとん、と指で叩くような動作をした。
同時に全員が意図を汲んで口を閉ざす。おそらく盗聴器の可能性を示唆している表現である。
もし仕掛けられていないにしても余計な無駄話はしない方が身のため。少なくともミナトはどこが安全な場面なのかがわかっていない。選択の余地はなく従うべきとした。
話が進むにつれて薄明のようにどこか他人事めいていた現実感が鮮明となっていく。
――そうか。今からオレが乗り込むのは大勢の敵がひしめく新天地。
緩んでいた緊張感が溶岩の如くふつふつとせり上がってくるのがわかった。
呼吸は浅く、決意とともに拳が固められる。瞳からもすぅ、と色が褪せて手や足先が冷えていく。
「フフン。実に良い仕上がりだ」
唐突に吐息が集中力を乱す。
我に返るとミナトの眼前に、東の顔があった。
女物の香水の匂いだろうか。鼻先にある中年の頬辺りから甘ったるい花の香が漂ってくる。
「……いちいち顔が近いんだよ。気持ち悪い」
「男との距離はきちんと測っている。肌を重ねるようなことにはならないから安心するといい」
真意はともかく、東は鼻につくにやけ顔のまま離れていく。
そして窓辺へと移動するとダンスに誘う紳士のように一礼してミナトをそちらへ誘う。
「さあご到着の時間だこちらへくると良い。我々人類の叡智へとご案内させていただこうじゃないか」
「っ!? こ、これが、宙間移民船だっていうのか!?」
窓辺に立つと思わず手で防ぐほどの光があふれていた。
ミナトは視界が潰されそうになったが、好奇心が勝って目を細めつつ調光を試みる。
徐々に視界が回復すると、手で防いだ白光の元は光源ではなく白き船からの反射光だった。
「宇宙って……こんなにも明るいんだな」
「ほう。なかなかに詩的で素敵な表現じゃないか。人類初の宇宙飛行士がお前のように純粋無垢な少年ならば教科書に載ったことだろうさ」
空ではなく果てを透かす窓の向こう側には1隻の船が存在していた。
選ばれし者とすべての動物のつがいのみが乗ることを許される聖書に語られる船――それが《ノアの方舟》。そして真の名は、《宙間移民船ノア》。
その姿は神罰の災害さえも恐れぬほど神々しく、偉大で、広大で、巨大。小さな人の手がちっぽけとさえ錯覚させられるほどにあらゆる感情と感慨が満ちていた。
暗黒の中央には白き科学の船が漂う。叡智の結晶であり、なお人類の脳では未解明とされる
――もしかしたら……いや、今はどうでもいいことだ。
旧人類の死神は、揺れる瞳で偉大なる功績を確かに捉えていた。
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