昼夜と四季巡り / ビッグな熊

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 サクッと地面を踏みしめる音はどこか懐かしく、踏みなれた黒いコンクリートとは違い、住み慣れた家のように感じ、日々の社会での陰鬱とした暗く冷たい心をシュワシュワと炭酸飲料を飲んだ時のような瑞々しい感覚が陰鬱とした秋田 春斗の心を溶かしていく。


 


 「ハアッ、 ハアッ。」


 日々自宅でのデスクワークに追われ、半ば引きこもりのような状態となった春斗は、これはいけないと、鍛えていない体に鞭打って一歩一歩渓谷に作られた山道を頂上に向けてゆっくりと歩を進めていく。


 しばらく進めむと、岩肌が露出した傾斜の激しい小さな崖が見えてくる。


 右側には岩肌に杭が等間隔に打ち込まれており、杭には鎖が手すりのようにつながっている。


 左側は断崖絶壁となっており、冬の間に降った雪が、雪解け水となって川を成し、美しい渓谷を形成している。


 アクアマリンのような透き通った清流を背に鎖にしがみつきながらゆっくりと崖を登っていく。



 ドドドドドドッ!


 上流特有の激しい流れが春斗を恫喝するようにうねっている。登山口では緩やかに見えた清流はぼったくりキャバクラのようなギャップがある。


 見た目はきれいで接客も丁寧なのに、会計になるとボーイも嬢も豹変するのだ。


 「見た目はいいのに、中身がやばい奴みたいだ。」


 そんな春斗の悪態を不快に思ったのか、美しい清流がさらに激しくうねり何とも言えない色気を醸し出している。ある特殊な趣味を持った者たちなら喜んであの魔境にダイブするだろう。



 「俺は嫌だな…。」


 夜の世界に沈んでいった友人を思い出し、苦い笑いが顔に浮かんでくる。

まだ自分は暗い夜の世界に行きたくない。少なくとも70歳くらいになるまでは。


 


「おーい…待ってくれー!」


 崖を登り終えた春斗の耳に聞きなれた声が聞こえてくる。夜の世界から自力で這い上がった友人、明易 晩翠(あけやす ばんすい)が干からびたようなくたびれたリュックを背負い。崖をすごい勢いで登ってきていた。


 春斗とともに傾向を訪れていた明易はサクサクと歩を進める春斗に置き去りにされ急いで追ってきたのだろう、滝のような汗を流している。

 

 「そんなに急いだらまた落ちるぞ。」


  崖を登り終え、膝に手を置いて息を整えている明易に対して、彼の黒歴史を混ぜてからかう。明易はそれに気づいたのだろうキッと春斗をにらむと息が整ったのかこちらに向かってくる。


 「もう落ちないよ。それより秋田」


 「何? それとなんでいきなり名字?」


 「なんとなく。それとここから先は俺が先に行く。秋田は速すぎ。」


 「だって、お前、止まっては写真を撮ってを繰り返すから、それに俺はこれでもだいぶスピードは落としてるし…。」


 

明易はブスっとした顔で春斗を無視してずんずんと進んでいく。

 明易の態度に春斗はまずいと感じる。こうなったらしばらく口をきこうとしないのだ。

 「おい! 悪かったよ。言い過ぎた。お前はゆっくりと山を楽しみたいんだよな。だいぶ進んだからゆっくり行ってもいいから、だから機嫌を直してくれ。」


 せっかく非日常を親しい友人と体験しているんだ。少なくともぎすぎすとした関係で登山はしたくない。そう感じすぐに明易の機嫌をとる。


 すると、明易はピタッと歩みを止めるとこちらに向き直りニヤッとした表情を作る。


 「いいんだよな? ゆっくり楽しんでも。」


 明易のしてやったりとした表情、しまったと感じ自分の発言を後悔する。よくよく思い出せば明易はこういうやつだ。


 自分の意見などが通らないとブスッとした子供のような態度を良く取っていた。だから人によっては苦手という人や嫌いという人もいるが、それでも友人が多いのは彼の明るく憎めない性格があるからだろう。


 うなだれながら春斗は明易に頷くと彼は花が咲いたような笑顔になると、ルンルン気分で山道を進んでいく、その速さは美しい清流の流れとは比べ物にならないくらいくらいゆっくりとした腹がキリキリするほど遅い歩みだった。


 明易のカメのような歩みにふつふつと胃から何かが込み上げてくる。その込み上げてくるものは吐き気ではない、言葉にできない不快感はやがて熱となり、照り付ける太陽とともに春斗の体を熱していく。


 さらに先ほどまで春斗を癒していた緑豊かな渓谷では、多くの虫たちによるメタルバンドのような爆音は更に春斗の体感温度を上げていく。


 先ほどまで心地よかった春の日よりは一瞬のうちに、夏のムシムシとした、蒸し暑さへと変化していった。


 もう限界だ…。 明易に俺が先に行くと言おう。


 そう決心すると春斗は明易の方へ視線を向ける。


 憔悴しきった春斗の目の前では、明易が恍惚とした表情で、一心不乱にカメラのシャッタを切っている。


 普段リモートワークでは見ない幸せそうな顔は春斗の中にあった不快感も浄化するほどの純粋で綺麗なものだった。


 

 「もう少し、好きにさせるか…。」


 そんな言葉が、出てくる。日々多くの問題にさいなまれながら、多くのストレスを抱えているのだ、そんな中でもいろいろと助けてくれたんだ、たまには自分が明易のわがままに付き合ってゆっくり進むのもまた一つの楽しみ方だろう。


 そう納得し、満足そうに写真を撮る友人の後ろをゆっくりと歩んでいくのだった。


 が、春斗は2時間前にした自分の選択を後悔した。キリキリとした不快感にさいなまれながら、できるだけ楽しんでもらおうと我慢した。


 だが、写真撮影に没頭する明易の歩みがあまりにも遅いのだ。明易が前を歩き始めて3時間、明易が春斗に追いついた場所である小さな崖が100メートルほど後ろに見えている。


 1時間で約33メートル‥‥。さすがにまずい、山の夜は危険だ。年間何人もの登山者が

下山にする前に夜になり遭難している。

 

 このままでは自分たちも山頂の山小屋に到達する前に遭難してしまう。


 そう感じた春斗はすぐに写真にふける明易の肩をつかみ説得を試みる。

 

 「おい、さすがにまずいから早くいくぞ!」


 「お前さっき俺が前でいいって言ったじゃんか。」


 春斗の必死の説得に明易はふてくされたような顔になり、顔をそらす。


 こ、この野郎。さっきまではある程度我慢した。だが今は置かれている状況が違うのだ。

写真撮影にふけり、再び夜の世界に落ちようとしている友人と同じ道をたどりたくない。



 「もういい! 好きにしろ。」


 そういうと春斗は明易を押しのけると山道をずんずんと進んでいく。


 「お、おいっ。待てよ。」


 明易の少し焦ったような声が聞こえるが、構うものか! そう心の中で悪態をつき、湿った岩肌が露出した山道を急ぎ足で進んでいく。


 あたりは日が傾き、空は紅に模様替えをし、渓谷全体を赤茶色に染め上げている。

ついさっきまで爆音を響かせていた虫たちの合唱は、なくその代わりに、クラシック音楽のような鳥や渓流のせせらぎが自分の荒れた心を静めてくれる。


 先ほどまでの不快に感じた厚さは無くなり水源地特有のひんやりと頭を冷やしてくれる心地の良い風が自らを包むように吹いている。


 そうだこの心地よさを味わいに来たんだ。歩を足早に進めながらも、普段できない自然の心地良さに触れ、先ほどまでの荒れた心はいつの間にかなくなっていた。


 自分の目に入るすべてが素晴らしい、夕日に照らされ姿を変えた渓谷が、そこに生きる動物たちが、豊かに実る植物、そして木の実たちが、普段どれだけ自分が満たされていないかがよくわかる。


 だがここからだ、ここから急いで山小屋に到着しなければ自分は遅れてくるであろうあいつのように暗い夜の世界を生きられないのだから、這い上がれないのだから。


 結局、山頂の山小屋についたのは日が完全に隠れまだ回りの景色が辛うじて見れる時間帯だった。

 山頂付近にはまだ多くの雪が残っており、積もった雪は膝が完全に隠れるほどの深さだった。

 無人の山小屋に一人心細さはなかったが、何となく置き去りにしたあいつのことが、何となく心配になる。なんだかんだ大丈夫だとは思うが、一応は親しい友人だ、季節の変わり目には必ずと言っていいほど顔を合わせている。


 心配になり、小さな懐中電灯を手にそっと戸口を開ける。外は暗闇に包まれ一歩でも出れば遭難しそうな怖さがあった。


 恐る恐る外に出てみる。自分が来た方向に光はない、激しい後悔とともにもう彼には会えないのかという恐怖が自らを包む。

 


 「晩翠―!」


 あらん限りの声で彼のことを叫ぶ、だが返事はない、真っ暗な暗闇が続きこれ以上行けば自分の遭難することになるだろう。心をえぐるような後悔、じぶんの半身を失ったのかを失ったかのような喪失感が身を覆いだんだんと自分の瞳の光が亡くなっていくようなそんな感じがする。


 一先ず山小屋で体を休め明日朝早くに創作に向かうことを決心し、すぐに用意に入るそんな時だった。


 ゴトッという音とともに勝手口のドアが開き、雪だらけになった晩翠が顔をのぞかせる。


 「ば、晩翠…?」


 「ひでえな、おいていくなんて。まあ俺も人のこと言える立場じゃないけど。」


 死者でもよみがえったような顔をされた彼の表情はどこか困惑しており、それでいていつもの人を引き付ける笑った顔だった。


 「すまない。おれはお前を置き去りに…」


 「いいよ。俺も好きにやってたし、それでおいていかれるなら仕方ない。」


 許しを請う自分に晩翠は人の好い笑みで返す。そうだった自分の目の前にいるやつは暑く、そして時には冷たいそれが自分の一番の親友、そして俺たち二人を周りの人たちはこう呼ぶのだ。春夏秋冬と。



 小説を読んでいただきありがとうございます。

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