61話:聖界
見渡す限り青しかない空と真っ白な雲しかない天は、
白龍が飛ぶなら、やはり晴天が合う。いつの間にか天を翔る怖さもなくなり、ようやく楽しめるようになってきた頃、白龍は場所は蒼翠が、否、
ここは
見上げるほど高く聳え立つ荘厳な白門には、絢爛豪華な昇り龍の彫刻が施されている。この白門は強力な結界の役割もしていて、特別に作られた玉佩を持っていないと術に阻まれ入れないのだとドラマ内で説明があったのを覚えている。
「お帰りなさいませ、皇太子殿下!」
白龍が門前の広場に降りるなり、待機していた百を超える兵たちが駈けるように集まり、一斉に膝を突いた。
数多の兵が揃って拝礼する様は圧巻そのものだった。邪界でもこれほどまでの兵列を見たことがない。圧倒され呆けていると、ほどなくして背後からコツンコツンと舗装された石の床を歩む靴の音が聞こえてきた。
蒼翠は音に反応して振り返る。
そこで時が止まった。
「無……風……?」
蒼翠を背後から守るように寄りそう美しい男は、よく知っている顔だ。だけれど思わず似た顔の別人かと戸惑うほど、形貌が様変わりしていた。
下ろすだけだった長髪はしっかりと結い上げてられており、陽の光を受けて煌めく鳳凰の彫刻の金冠が乗せられている。着ている装束も以前のような紺や濃紫の粗末な着物ではなく、上質な織物で縫われた純白の深衣に薄藍色の
しかし、どんなに
――格好よすぎる。
無風の皇太子姿はテレビで見ているはずなのに、動悸が収まらない。
「蒼翠様」
見惚れすぎて言葉を完全に失った蒼翠を見て、無風が穏やかに笑う。
「無風……」
無風の微笑みにつられ、自然と口角が上がる。そのままいつものように近づいて頬をなでようと思ったが、すぐさま背後から突き刺さる気配に気づいて、蒼翠は慌てて一歩後退した。
そうだった、今の無風は聖界で
「あ……」
ここはこちらから挨拶するのが筋だろうと、蒼翠が拱手しようとした瞬間。
「っ! おやめくださいっ。蒼翠様が私にそのようなことをする必要はありません!」
慌てた様子の無風に腕を取られ、礼を止められてしまった。
「いや、でも……」
「蒼翠様の前では、私は従者のままです」
平然と言ってのけるが、立場的にそれが許されるはずがない。無風の今の言葉を聖界の兵たちが聞いたらなんと思うか。背筋を冷やしながら視線を迷わせれば、蒼翠の気持ちを察したらしい無風が兵たちのほうに顔を向けた。
「出迎えご苦労だった。私は
「はっ! かしこまりました!」
「下がってよい」
揺らぎも躊躇いもない口調と、凜と引き締まった表情で兵に命を告げる無風の姿は、既に皇太子そのものだった。こんな短期間でここまでの威厳を身につけたなんて、さすがは覚えの早い無風である。蒼翠は師として感動を覚えたが、同時に無風が遠く感じられて切なさに胸が絞まった。
しかしそんな蒼翠の気持ちなど知らない無風は、兵がいなくなった途端にいつもの甘い笑顔をこちらに向けてくる。
「お待たせしました。もうこの場には私たち以外誰もいませんので、大丈夫ですよ」
「あ……ありがとう……」
「白のお師匠様より蒼翠様が投獄されたと聞いて、ずっと気が気でありませんでした。それと……」
蒼翠の両手を掬い取った無風が、手首に残る手枷の痕を指で柔らかく撫でる。
「ん? どうした?」
「お背中の傷も……」
「ああ……痛みは多少あるが、
本当は少し背中を動かすだけでも激痛が走るが、無風に余計な心配はかけたくないと笑みを返す。
「傷は痕がなくなるまで、私が責任をもって必ず治してみせます。たとえ国中の薬を探してでも」
「別に
「蒼翠様……」
「それより。俺をここに連れてきてよかったのか?」
自分は無風の元主人で師でもあるが、白龍族の宮殿に
「大丈夫です。ちゃんと聖君より許可は得ているのでご安心ください」
「え、嘘だろ?」
「本当です。そのことも含めて、いろいろお話したいことがありますので、一度場所を移しませんか?」
この場所は先ほども言ったように誰もいないが、蒼翠が寛げる長椅子も茶もない。
無風としては一刻も早く主に休息を贈りたいらしい。
「場所を変えるのは構わないが、行くのは……」
「東宮殿です」
だよな、やっぱり。さっきそこに行くって言ってたもんな。
東宮殿とは皇太子となった者が住む特別な場所。聖界の中枢だ。
ちなみに蒼翠は邪界でも炎禍の宮殿に入ったことがない。それだけ東宮殿は尊き場所なのだ。
「では、行きましょうか」
「あ、うん……」
こういう時、どんな顔をするのが正解なのか分からない。無風と再会できて嬉しい気持ちは多分にあるけれど、あまり居たたまれなさに逃げ出したい気持ちも確かだった。
もっとも、罪人となった自分に行く場所などもうないけれど。
――とりあえず、東宮殿に辿り着くまで空気になろう。
なるべく無風も周囲の景色も見ない。心に固く誓った蒼翠は目を細めて視界を狭めると、悟りを開いた仏のごとく無となることに徹した。
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