46話:妖討伐⑤



 大きく深呼吸してからゆっくりと両手を前方に伸ばし、重ねた両手の平に意識を集中させる。

 手の中心に温かな気が集まるのを感じ取ると蒼翠そうすいはすかさず防壁術を発動し、全力であやかしと戦う将軍たちへと放った。



 ――くそっ、やっぱり隊全体に術をかけるとなると、霊力の消費量が半端ないな。

 

 

 まだ術を放って数拍も経っていないにもかかわらず、まるでブラックホールに吸収されるかのように霊力が奪われる感覚に襲われた。全身の力がゆるゆると抜けていき、四肢も重くなっていく。少し強めの風が吹くだけで膝が大きく震えてしまうため、立っているのがやっとだった。



 ――きつい。一瞬でも気を抜いた途端に意識が飛びそうだ。



 内耳から脳の全体響く高い耳鳴りを頭を振って飛ばしながらもしっかりと前を見据え、蒼翠は一心に術に霊力を注ぎ続ける。

 その間、最前線で剣を振るう将軍率いる黒邪軍こくじゃぐんも奮闘した。妖の懐近くまで飛び込み、深傷を負いながらも幾度も鋭い斬り込みを入れていく。

 さすがは精鋭部隊。この世界に来て、ここまで本格的な戦闘を目の当たりにしたのは初めてだが、迫力はテレビ画面で見るドラマなんて比にならないほどだった。

 妖の鱗に当たる剣の音が、雄叫びが、少しは離れた場所にいる蒼翠の身体にも振動のように響いてくる。



 ――頑張れ……頑張ってくれ……。



 現状が有利なのか、不利なのか、戦闘においてずぶの素人に等しい蒼翠が見ても分からなかったが、それでも必死に祈る。

 そのままどのぐらいの時間を過ごしただろうか。半刻か、一刻か、疲労のせいでどれほど経過したのか、わずかも分からない。分かるのは体内の霊力がほぼ底を尽き、意識を保つのがやっとの状態だということだけ。だがそれでも懸命に術を放ち続けていたその時。


「ぐぅぁぁぁぁぁ!」


 離れた場所でもはっきり聞こえた叫び声に蒼翠が驚いて顔を上げると、妖の攻撃に吹き飛ばされる将軍の姿が見えた。



「将軍!」



 蒼翠は術を一旦止め、兵たちの様子を観察する。すると蒼翠が来た時には大勢いた兵のほとんどが倒されていて。



 ――まずい……このままでは……。

 

 

 まだ将軍や他の兵たちも生きてはいるが、これ以上戦えば全滅は避けられない。


 ――どうする……どうすればいい。

 

  

 きっと将軍は、自分たちを置いて蒼翠だけでも逃げろと言うだろう。邪君じゃくんへの報告義務がある指揮官という立場から見ても、それが一番真っ当な選択だとも思う。けれど。



 ――やっぱり部下を、一緒に戦っている仲間を見捨てたくない。



 あの巨悪な妖を、中国ドラマのヒーローみたいに一人で倒せるとは微塵も思ってはいない。けれど、どうにか頑張れば将軍たちがあの場から脱出できるだけの時間ぐらいは稼げるかもしれない。

 

 

 ――妖を倒せずに帰って邪君に怒られようが、何を言われようが、将軍たちの命を守るためなら何日だって外でひざまづいて謝り倒してやる。



 中国の後宮モノドラマで、皇帝を怒らせた配下や妃嬪たちも許しを得るために昼夜構わず跪拝きはい――頭を膝を着いて謝る――をしていたが、自分もそれをやってみよう。

 もう、なるようになれだ。

 そう覚悟を決め、蒼翠は震える手で剣の柄を握りしめる。そして妖に向けて一歩を踏み出した時、不意に背後から伸びてきた何者かの腕に蒼翠は抱きしめられた。



「蒼翠様」


 突然のことに酷く驚かされたが、声を聞いて腕の主が誰かを悟る。



「無風っ? お前、どうしてここに……」

「ご命令に背き、申し訳ありません」



 無風は背後から静かに謝った。その声はやけに冷静で、まるで場にそぐわない。いつもの無風ならこういう時、緊張で声が強張っていたり、焦っていたりと感情の揺らぎがはっきりとわかるのに、今は本人の名のような無風の静寂に包まれている。

 きっと声を聞かなければ別人と勘違いしていただろう。



「お前、今がどんな状況か分かってるのかっ! ここは危ないから、すぐに天幕に戻れ!」

「蒼翠様、こちらをお借りしてもよろしいですか?」



 蒼翠を留める腕とは反対の手で無風が触れたのは、握っている蒼翠の剣だった。

 


「……俺の剣で何をするつもりだ」

「私があの妖を倒してまいります」

「なっ……バカかっ! 邪黒軍の将軍ですら敵わない相手だぞ。お前一人で倒せるわけがない!」

「大丈夫です。お任せください」



 自信があるように言われても、はいそうですかと頷けるはずがない。確かに無風はこの邪界で自分の身を守れるぐらいにまで強くなったが、それでもまだ覚醒前。どう考えても将軍に勝るとは思えない。

 それに。

 将来の聖君せいくんである無風に万が一のことがあったら、聖界せいかいの歴史が大きく変わってしまう。それだけは未来を知る人間として避けなければ。

 蒼翠は無風に剣を絶対に渡すまいと、握る手に力を込める。



「ダメだ、お前は今すぐ帰れ!」

「蒼翠様」

「うるさいっ! お前の言葉は聞かない!」



 今すぐ俺を離せ、と無風の腕から抜け出そうともがいたが、なかなか振り解くことができない。だがそれでも今、この瞬間だけは負けるわけにはいかないと、無風の腕の中でなんとか身体だけを翻し、蒼翠は肺に空気を目一杯吸い込む。

 もうこうなったら主として厳命するしかない。

 


「命令だ、無風! 今すぐ天幕に――――」



 しかし、その命令は最後まで紡がれることはなかった。なぜなら。


「んっ……っ!」



 途中で唇を塞がれたからだ。

 そう、無風の唇に。


「ンンッ……」


 唇に触れた柔らかな体温。見開いた視界いっぱいに映る無風の長い睫毛と肌色。様々な情報が一気に脳内に入ってきたせいで一瞬放心していたが、それも数秒も話だった。少し湿った、それでいて弾力のあるもので唇の表面をなぞられると、彼方に飛んでいた我が慌てて駆け戻ってきた。


 なんだ、これは。

 なんなのだ、これは。

 

 混乱が絶頂期の中、そろりと撫でられるくすぐったさに負けて唇の重なりを開いてしまうと、その小さな隙間から弾力のあるそれが、一気に内側に押し入ってきた。

 

 

「んんっっ!」



 口腔内に触れた途端、生温かくて肉厚の塊が唇の裏や歯列をぐるりと一周するようになぞる。

 ここまできて、さすがの蒼翠も自分が今、何をされているのか悟った。

 キスされている。無風に。

 予想もしなかった事態に飛び上がりそうになったが、なぜか四肢はまったく動かなかった。

 

「は、ぁ……んっ、……」

 

 

 呆然としている間に互いの舌先が触れると、そのタイミングで思いきり舌全体を吸われ、そのまま食べられるかの勢いで舐め解された。

 頭の角度を変えながら何度も甘噛みを繰り返される。すると唇の感触がより直接的に伝わってきて、脳がクラクラと酸欠不足を起こしたかのように揺れた。

 口腔内のどこもかしも、余すところなく貪られている。こんな性急で自分本位ともとれることを、無風がするはずがない。半ば信じられない気持ちが湧いたが、今目の前にいるのは偽りなく無風本人。だから余計に頭が混乱した。  


 

「んっ、ンンッ、ぁっ……は、ぁ……」 

 

 

 これはだめだ。このまま続けてはいけない。おかしな気分の高まりを感じ取った蒼翠が無風に止めさせようと声を出すが、切なげな吐息しか出ない。

 舌を吸われる度に、身体の力が勝手に抜けていく。なのに不思議と気持ちよさも感じた。とくに上あごを重点的に責められると腰の辺りが震えて、妙にそわそわと気が急く。


 そんな時だった。

 不意に右腕から握っていた剣の重みが消える。

 

「ん……」


 蒼翠が気づくと同時に、無風が身体を離す。その手には蒼翠の剣が握られていて。


「無風、お前っ……っ、く……」


 驚いて剣を取り戻そうと踏み出したが、その一歩を踏み込むと同時に足の力が抜け、蒼翠は膝から崩れ落ちてしまう。


「な……」


 すぐに立ち上がろうとしたが、両足に力が入らない。



「蒼翠様、申し訳ございません」

「お前、何を……」

「少しだけ待っていてください。すぐに終わらせます」



 その言葉で蒼翠はすべてを悟った。無風は蒼翠から剣を奪うため不意を突き、そして口づけの間に拘束術をかけたのだと。

 

「待て、無風、だめだ……」


 蒼翠は自由にならない身体で小刻みに首を振りながら、必死に無風を止める。けれど無風は淡い笑みを見せただけで、そのまま蒼翠に背を向けてしまった。



「戻れ……戻ってこい……無風」



 頼むから。蒼翠は蚊が鳴くような声で懇願するが、妖に向かう歩みは止まらない。

 どんどん小さくなっていく無風の背に、涙が溢れ出した。どうしてこんな時、自分は何もできないのだ。こんな時ドラマの蒼翠のような強い力があれば、無風を一人で行かせることにはならなかったのに。

 無風が覚醒して聖界に帰るまで、息を潜めてことなかれ主義を貫けば平穏に暮らせると胡座をかいていたツケがこんなところで回ってくるなんて思わなかった。

 いまさら後悔しても遅い。



「だ……れか……」



 神様でも悪魔でもなんでもいい。誰か無風を止めてくれ。

 無風を失うわけにはいかない。

 いや、失いたくない。

 だって無風は俺の大切な。大切な……。

 心臓を恐怖で引き裂かれそうになる中、蒼翠は震える指先で何度も地を掻きながら必死に願う。

 けれどその声は激しさを増した妖の雄叫びに掻き消され、誰にも届くことはなかった。


 

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