拝啓、わたしの悪役令嬢さま
吏可
第1話 ナスターシャとニルギリ
重力とは、とても厄介なものだ。
ばさばさと盛大に音を立てて落ちていく教科書達を、ナスターシャは為す術もなく見守ることしかできなかった。やってしまったと嘆く側から教科書やノートなど、手にしていた文房具類は伸ばしたナスターシャの手に逆らうように芝生の上を転がっていく。そしてついに、躓いた自身の膝も同じ道筋を辿った。
「あっ」
盛大な悲鳴と共に、ナスターシャは石畳に膝をつき、柔い皮膚は情けない音を立てて血を滲ませた。小さな悲観は誰に届くでもなく、鳥の囀ずりを映えさせたに過ぎない。
整備された裏庭。石に蹴躓いて一人転けて持ち物をぶちまける。間抜けな自身の姿にナスターシャは自嘲を浮かべ、視界一面の青々とした芝を一瞥する。
「あーあ…」
裏庭には学園の内部と裏庭を繋ぐ石畳が十字に足場を造っており、その道筋を外して芝と小さな花が敷き詰められていた。十字の中心には水瓶を掲げる天使の像が噴水を陣取っている。アーチ型にくり貫かれた渡り廊下への入り口、簡素な木製のベンチ、季節によって変わる花壇の花。学園内でも人の通りがそう多くなく、ナスターシャにとって心安らげる場所として裏庭は存在していた。
吹くそよ風に噴水の水音が穏やかな昼下がりを色づける。校舎の表側から聞こえる賑やかな生徒たちの声が、一層自身の情けなさに拍車をかけるのだ。
「…浮遊魔法、早く覚えなくちゃ」
散らばる万年筆を拾い、小さな溜め息を吐く。痛む膝もそう。浮遊魔法や回避できる術を身につけていればここまで被害が広がることもなかったはず。ナスターシャは苦手な魔法の数々を思い直してきゅうと口を引き結ぶ。
筆記用具を全てかき集め、裏庭に置かれたベンチに腰掛け赤く染まった膝を見下ろした。苦手な回復魔法だが、何もしないよりかはマシだろうと手のひらをひたりと膝に当てる。誰もいなくてよかったと安堵した刹那、こつこつと廊下から足音が響いた。
「…ナスターシャ?」
止む足音と引き換えに自身の名前を呼ぶ声が、ナスターシャの意識と顔を上げさせる。
呼ばれた先に佇んでいたのは、白銀の髪に深いバーガンディカラーの瞳を持った、ナスターシャもよく知る人物だ。
「…ウィ、ウィリアム殿下」
「こんなところで何をしているんだい?」
ウィリアム・キングストン。
その眉目秀麗な見目に反せず、柔らかな物腰や立ち振舞いからも育ちの良さが垣間見える。ナスターシャを視界に収めてゆるりと笑顔を浮かべる様は、王候貴族の人間らしからぬ気安さで溢れていた。
誰もが憧れ、誰もが彼の意識の先を気にする。いずれ近い未来、この国を率いる人物として彼は君臨する。
未来の王、ウィリアムはナスターシャに近付くと、膝から流れる血に気付き慌てて駆け寄った。
「ナスターシャ、怪我をしたのかい?」
「ちょっとそこでこけてしまいまして…えへへ」
「笑い事じゃないだろう?ほら、見せてごらん」
心配そうにナスターシャを覗き込むウィリアムの髪が、日の光に合わせて揺れる。見つかってしまったな、とナスターシャの内心はまるで悪戯が見つかった幼子だった。
「大丈夫です、これくらい。殿下のお手を煩わせるわけには」
「こら、ここでは殿下は禁止だと言ったろう?僕はみんなと同じ、一生徒だ」
「あ、申し訳ございません…えっと、ウィリアム…様…」
「ふふ、様もいらないけど、まぁ慣れるまでは仕方がないか…。それにしても両膝を擦りむくなんて、派手にこけたものだね。失礼、少しじっとして」
くしゃりと顔を綻ばせながら、ウィリアムは腰掛けるナスターシャの前に膝をつき、僅かに間を空けて怪我の部分を覆うように手をかざした。
驚くナスターシャを置いて、ウィリアムは手のひらから陽光に似た光を生み出しナスターシャの膝を癒していく。本来なら言葉を交わすことも許されない雲の上の存在が、ナスターシャのために膝を折っている。過ぎた光景にナスターシャは慌てて制止をかけた。
「ウィリアム様!自分で治癒できますからっ」
「君は治癒魔法も保護魔法も苦手だっただろう?こういうものは得意な人間に任せておくべきだよ」
「うぐぅ…どうしてウィリアム様は私の苦手なものをご存じなのですか…。お恥ずかしながらその通りなんですけど…」
「素直でよろしい。さ、軽口の間に治ったよ。服が汚れなくて良かった。何か急ぎの用でもあったのかい?」
両膝の痛みがするりと消えたのがわかる。見下ろせばナスターシャの膝を汚していたものの一切が消え去り、数分前の自嘲さえも拭われていた。
相変わらず優しい人だ。ナスターシャは感謝と喜びを噛み締めた笑みを、ゆるりとウィリアムに向ける。
「ありがとうございます。昼休みが終わる前にマンドラゴラの成長を見ておきたくて、裏庭を突っ切ろうと思ったら転んでしまったんです」
「ふふ、そんなことで?ナスターシャは危なっかしいな、本当に」
「今日はたまたまですから!いつもは植物園の前にある垣根を飛び越えても平気なんですよ」
「あははっ!あの生垣を飛び越えるの?なかなか豪快だなぁ」
「近道なんですもの。あの生垣がなければもっと早くつけると思うんですけど」
軽快なウィリアムの笑いが響く。下がり気味の眦が喜色をのせていっそう下がっていくのは、今目の前の相手への想いが隠しきれなくなったからだ。
愛しいと楽しいが合わさって、ひたひたとウィリアムの中身を浸していく。ウィリアムからナスターシャへの好意は、ほんの微かに滲む淡さで生まれていた。
「そんな君だから…僕は目が離せなくなってしまうんだろうね」
優しく微笑むウィリアムをナスターシャは不思議そうに見つめる。滲む淡さはだんだんと、濃く強く広がっていく。
「さ、マンドラゴラを見るなら早くしないと、授業が始まってしまうよ。一緒に行こう、ナスターシャ」
うっすらと頬を染めてウィリアムは立ち上がり、そっとナスターシャに手を差し出す。まるでダンスに誘っているかのようだった。
ナスターシャは戸惑いがちにウィリアムを見上げる。合わせた目は、上に立つ者の色。未来の王は確かにナスターシャの返すものを待っていた。いっそ健気なほどの気遣いに躊躇いながらも、おずおずとナスターシャは差し出された手に自身の手を重ねるべく指先を動かした。
「ここにいらっしゃったのですね」
また新たに足された声に、ナスターシャはびくりと肩を震わせる。差し出された手とナスターシャの指は絡むことのないまま、二人は声の持ち主へと視線を変えた。
穏やかな昼下がり。ウィリアムとナスターシャの視線の先には、日の入りを連想させる苛烈な女性が佇んでいた。
結われた腰まで伸ばされた赤毛を靡かせ、真っ直ぐに背を伸ばして歩みを向ける。纏う空気はまるで研磨された針だ。長い睫毛は猫のようにつり上がる瞳を飾り立て、眼光をより鋭く見せる。神秘的なニルギリの紅茶色の瞳と、揃いの艶やかな髪。唯一人工的に色付かせた唇は、毒々しく見えるほどその美しさを際立たせていた。清廉で美しい。それだけのことが、喉を鳴らすほどに恐ろしくもある。
「…ダリア」
「ごきげんようウィリアム様。…ナスターシャ・べルヴェイン」
ウィリアムはナスターシャに浮かべていた笑顔を閉じて整った眉を寄せる。ダリアと呼ばれた少女は、そのやり取りだけでも充分上の階級を思わせる気品を漂わせていた。
鮮烈で、視線を交わすだけで緊張と静寂を呼ぶ、絶対的な存在。
ダリア・フローレン。
彼女もまた、人の上に立つことが許された公爵令嬢であり、ウィリアム・キングストンの正式な婚約者だ。同じ制服を纏ってもナスターシャにとっては雲の上の住人に変わりない。他人にも自分にも厳しいことで学園内では有名である。その気迫と気品は未来の王の隣に並ぶにふさわしく、視線一つで確かな説得力を他者に植え付けた。
ナスターシャは立ち上がることさえも忘れてダリアを見つめ返す。見下ろす双眼に、威圧された子猫の如く萎縮し、溢れるように名前を呼ぶ。それだけが、唯一ナスターシャにできることだった。
「…ダリア、様」
「立てるのなら自身の力でお立ちなさい」
ダリアの突き放す態度に眉を歪めたのは、その場ではウィリアムただ一人だ。ひりついた空気を裂いてダリアは続ける。
「自分にとって都合のいい手を待つのはおよし。差し出された手をすぐ取ることも、安易に他者の手を借りることも自分の甘えを助長させるものです。自分の力でお立ちなさい。親の手が必要な幼子でもないでしょう。それとも、貴方の故郷では男性をかしずかせるのが当然だったのかしら?」
耳の底を擽る可愛らしい声に反し、出てくるものは辛辣で手厳しい。眉間にシワを寄せたウィリアムがナスターシャを庇うために間に入るが、冷えた空気は変わらない。
「ダリア、そんな言い方はないだろう。怪我をしていたんだ。それにナスターシャが甘えたわけではないよ、僕が勝手にしたことだ」
「そうですか、ではウィリアム様も自重くださいまし。いくらナスターシャが聖女候補であろうとも、丁重にもてなす客人ではございませんことよ」
聖女候補。ダリアの言葉にナスターシャのこめかみが引くついた。厳格な物言いを嗜めるウィリアムもぐっと反論を飲み込む。
母親よりも厳格に、教師よりかは近い距離でダリアはナスターシャを叱咤する。しかし冷たい態度に堪えきれず苦言を漏らしたのは、ナスターシャ本人ではなくウィリアムの方だった。
「…また"聖女たるもの自戒あれ"、か。僕は、…友人として彼女を心配していただけだ。それに、言い方というものがあるだろう」
「ウィリアム様、いいんです。…ダリア様の仰る通りです。不甲斐ないところをお見せして申し訳ございません、ウィリアム様、ダリア様」
「ナスターシャ…」
気遣わしげなウィリアムを振りきり、ナスターシャは立ち上がる。制服についた砂埃をぱんぱんと払い、持ち物を手早くかき集めた。精一杯の笑みを浮かべて淑女らしく頭を下げる。
「ありがとうございました。それでは、失礼致します」
立ち去る足音を、ウィリアムの悲しげな瞳だけが見送っていた。
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