200PV感謝記念
朝露を含んだ空気の中を駆けて来る小さな影がある。石段を登り、注連縄の掛かった鳥居を潜る。直ぐに右手へ踵を返し、本殿の前に進む。拝殿の中央にぶら下がった太い麻縄を小さな両手で掴むと、右へ左へ歩き、真鍮製の大きな鈴がゆっくりと音を鳴らした。音が鳴ると、子供は頭を二度下げ、小さな手で二拍手し、再び頭を下げた。
「……」
何か言いかけて、言葉を詰まらせた。頭の左右にぶら下がった小さな三つ編みが子供が頭を振る度に揺れている。
「えっと、えっとねー」
四歳の女の子が、必死に言葉を出そうとするが、言葉にならない。瞳が拝殿の天井を見上げ、今度は拝殿の柱へ行ったりと右往左往する。桃色のオーバーオールは古びた神社にはどうしても浮いてしまっていた。
「どうした?」
不意に、声をかけられて子供は驚いて目を丸くした。いつの間にか隣りに現れた学生服姿のお兄さんにたじろぐ。
「えっと、えっとね……」
緊張し、両手をもじもじさせながら俯く。少年がしゃがみ込むと、子供は不安そうな顔をした。
「俺は明神と言うんだ。君は自分の名前が言える?」
「……せぇ〜け ゆな」
「そう、よく言えました。他所の家に行ったら、先ずは自分から名乗らないといけないんだ。神社でもそれは同じ。
いきなり来て『こうして下さい』は失礼だからしないこと
いきなり家に来て『お金下さい』なんて言うのは泥棒や強盗のすること」
明神に言われ、ゆなは不思議そうに顔を上げ、頷いた。
「ゆなね、おさいせん持ってないの。神様、ゆなのお願い聞いてくれるかな?」
「ゆなは今何歳?」
「四つ!」
「四歳児から賽銭寄越せなんて言う心の狭い神様は居ない。そもそも、お賽銭は日頃の感謝の気持ちを表したものだから、子供に限ってはお金でなければならないということはない」
それを聞いてゆなはオーバーオールのポケットを弄った。ポケットの中からビー玉一つと、どんぐりが三つ出てくると、それを掌に並べて眺めている。
「どんぐりでも神様、怒らない?」
「怒りはしないさ。ゆなにとっての神様への感謝の気持ちが、その形をしていたというだけの話だ」
ゆなは小さなどんぐりを一つ摘むと、他のどんぐりとビー玉をポケットに戻した。
「こんな小さなので、良いのかな?」
ゆなの疑問に、少年は拝殿横に生えている樫の木を指し示した。背はゆなよりもずっと高く、神社の拝殿の屋根の上まで枝葉が伸びている。ゆなはそれを見上げて首を傾げた。
「あの木は小さいか?」
「大きいよ! ゆなよりずっと大きいよ!」
「あの木の子供を知っているか?」
問われ、ゆなは木に近付いた。木の根元には小さなどんぐりが幾つも転がっている。
「どんぐり!」
「そう。ゆなが持っている小さなどんぐりが、この大きな木になるんだ」
ゆなの瞳が光を含んだように輝いた。
「凄い!」
「そう。だからゆなが神様への感謝にと差し出すそれは決して小さなものではない。大きな可能性を秘めた種だ」
ゆなはそれを聞くと嬉しそうに笑った。拝殿へ向かうと、浄財箱の中へそっとどんぐりを一つ入れる。
「神様、いつもありがとうごまいます」
舌が回らなくて言葉を間違えてしまい、もう一度言い直す。ちゃんと言えて満足したのか、そのまま走って行ってしまうのを見送ると、明神は溜息を吐いた。
「どうかね? 可愛いじゃろう? 最近毎日来るんだがね、何も願わずにああして行ってしまうのよ。悩みがあるなら、聞いてやるのだがね」
不意に浄財箱の影から白蛇が顔を出すと、明神は瞳を宙へ泳がせた。
「神社は日頃の感謝と、目標の宣言をする所であって、便利屋ではない」
「そんな事を言っていたら毎年初詣にしか来ない人間はもっと足が遠退くんだがね。初詣や宝くじの吉日にしか来なくても、五円、十円の賽銭は投げていくだけ見上げた根性だよ。そんな態々罰当たりなことをしている暇があるなら仕事してりゃあ良いのだがね……」
そこまで言って、蛇は頭を下げた。
「なんてワシが言ったなんて云わんでくれよ? な? 本気で怒られるんだがね。めちゃ怖いのよ。ここの御祭神」
「神様の眷属が暇出されたらいい笑いものだな」
「勘弁してつかぁさい。まだここに雇われて日が浅いのだがね。まだ百年くらいしか勤めて無いのだがね。な? な?」
体をくねらせながら明神のご機嫌を取ろうとするが、明神は表情一つ変えずに明後日の方向を見つめている。蛇は細い舌をちろちろ出し入れしながら首を傾げた。
「ねぇ、聞いているんだがね?」
「悪い。バイトがあるんだ」
「あの子は何を願うんだがね?」
蛇が問うと、明神は溜息を吐いた。
「知らん」
明神があしらうと、蛇は浄財箱の中に頭を突っ込み、ゆなが入れたどんぐりを咥えた。
「まるで宝石のようだがね。今どきは家で小銭を洗って来ない人間の方が多い。子供ならいざ知らず、神社の目の前に来て財布を開け、手垢塗れの五円玉を投げて寄越すのだがね。何とも情けない。自分達がそんな事をされれば嫌な思いをするだろうに、神様相手であればそれこそ畏怖の念を持って丁寧に作法を修るのが礼儀だがね。口を開けばお願いします、頼んますばかり、偶には自分はこれを必ず成し遂げてみせます的な願いはないのか……そういった願いであればワシら眷属も、御祭神へ願いを届けやすいし、ワシも喜んで後押しをするのだがね」
蛇が長々と演説を繰り広げていたが、いつの間にか明神の姿は消えていた。蛇は驚いて目を丸くし、辺りを見回すが誰もいない。蛇は尻尾を荒々しく叩いて悔しがった。
「あの小憎たらしい小僧め。ワシの話を最後まで聞かずに行きおったな。ああ、もう、役立たず……」
蛇が悔しそうに尻尾を上下させると、艶々のどんぐりを眺めた。
「大きな可能性を秘めた種か……」
中々良い事を言う。あれは果たして人なのか、それとも鬼なのかと首を傾げた。
ゆなは家に帰ると、誰もいない家の中を覗いて外へ出た。畑で祖父母が野菜の収穫をしている。長い大きなビニールハウスは五つ整列していた。それを横目に見ると、つまらなそうに一番端のビニールハウスの前に蹲った。落ちていた枝を拾い、砂の地面に落書きをする。丸や点で絵を書き終わると、それを掻き消す様に枝先でなぞった。
とんとんと不意に指で肩をつつかれ、顔を上げた。十歳くらいの女の子が立って笑っている。ゆなはその子に見覚えが無くて首を傾げた。
「お姉ちゃんだ〜れ?」
にっこりと手招きされ、一緒に遊ぼうと言われている気がした。ゆなは瞳を輝かせると飛び上がって少女に駆け寄る。
「遊ぶ〜!」
千早姿の少女に手を引かれ、森の小道を歩いて行く。歩く度に少女が履いた鈴下駄の音が響いた。川に着くと、十歳くらいの男の子が二人、川岸の木陰で何かしている様だった。
「本当にあるんですか?」
青い袴姿の男の子が声をかけると、もう一人の赤い袴を履いた男の子は肩を竦めた。
「そういう話があると言うだけで、あるかどうかは……」
そう応えると、千早姿の女の子が赤い袴の少年の裾を軽く引いた。振り返った彼が、少女と幼子を見比べる。青い袴姿の少年が駆け寄って来ると、幼子と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「こんにちは。僕は左慶です」
「せぇけ ゆな!」
「うん、上手に言えたね。こっちは右慶、清は喋れないんだ」
左慶が説明すると、ゆなは少し驚いて清を見上げた。
「かわいそう」
ゆなが呟くと、清が首を傾げた。
「喋れなかったら、神様にお願い出来ないね」
「そんなことはありませんよ」
左慶が呟くと、ゆなは不思議そうに左慶を見つめた。
「ゆなは花や草の声が聞こえる?」
ゆなは当然のように首を横に振った。
「虫や鳥が何を話しているのか解る?」
「わかんない」
「ちゃんと毎日お日様は空に上るし、雨も降るでしょう?」
ゆなはゆっくりと頷いてみせた。
「誰かがお願いしなくても、神様はいつも君の傍に居て、君の手助けをしてくれてるんだよ。だから、喋らなくても神様は寄り添ってくれるよ」
そういうものなのかなぁ……と不思議そうに首を傾げた。
「神様、喋らなくてもお願い叶えてくれる?」
ゆなの言葉に三人は頷いた。
「そうだ。ゆなも一緒に探さない?」
「おい、止めとけ。人間の子供じゃあ、間違えて墓石とか拾っちまう」
「僕が視ますよ」
右慶があからさまに嫌そうな顔をすると、清は笑顔で首を傾げた。
「魚石の話しを聞いたら探すって言い出して」
清はそれを聞き、目を剥いて左慶を見つめた。
「だって、本当にあったら見てみたいじゃないですか。石の中に魚が泳いでいるんですよ?」
左慶の話しにゆなも目を輝かせた。
「ゆなも見てみたい!」
ゆなが叫ぶと、右慶は呆れた様に溜息を吐いた。清はそれを聞いて笑っている。
「どんな石なの?」
「晴れた日に河原の石が乾いているのに、その石だけは水が内側から滲み出る様に濡れているんだって。その石を磨くと中の魚が透けて見えるんだそうです」
左慶の話しにゆなと清は目を丸くしていた。ゆなと左慶が嬉々として河原の石を眺め始めると、清は右慶に視線を向ける。
「魚水之歓と言って、元々は生成過程の途中で水が入り込み、そのまま結晶化が進んで出来た宝石の事なんだ。琥珀に虫が混入したものが偶に出てくるだろ? けど、生きた魚は流石に……」
右慶が話すと、清は微笑んで首を傾げた。
「石の中で生態系のバランスでも保ってれば話しは別だけど、まあ、先ずそんなものは……」
「あった!」
ゆなが叫ぶと、清が驚いて駆け寄った。右慶もまさかと思いながら歩み寄る。ゆなの掌と同じくらいの大きさの石は確かに濡れていた。少し丸みを帯びているが、ごつごつしている。左慶と清が、期待を含んだ眼差しで右慶を見つめる。右慶は訝しく思いながらも、白衣の懐から紙鑢を出した。
「磨いてみるか」
左慶が一番目の荒い紙鑢で石を包み、くしゃくしゃにして磨くと、細かい角が取れて石肌が滑らかになる。ゆなはそれを眺めながら嬉しそうに小躍りしていた。
「さかな、さかな、さ、か、な!」
無邪気に歌う姿に清は嬉しそうに目を細めた。右慶と交代で紙鑢の目を細かいものにして磨き続ける。丸くなった石の一部分が薄くなると、右慶は石を空へ翳した。まるで磨り硝子の様になった部分に魚の様な影が見えると、再び優しく磨き続ける。薄くなった所を広げる様に磨いて行くと、やがて水晶の様な透明な石の中に気泡と水が見え、メダカの様な小さな金の魚が泳いでいた。
「すごーい! かわいー!」
「……まじかよ」
右慶は自分の目が信じられなかったが、ゆなは嬉しそうにそれを見つめた。左慶と清も、水晶の中を泳ぐ小さな魚が陽の光を反射させて偶に銀に光るのを面白がって見つめている。白い砂と、所々内側に緑色の苔が生えているらしい。まるで小さな水槽に、四人は見入っていた。
「見つけた見つけたやったー!」
ゆなが河原で燥ぐと、不意に足を滑らせた。
「危ない!」
清が驚いて手を伸ばすと、右慶が地面に右手を置き、土の中に木の根を這わせてゆなの背後に小さな木を繁らせた。ゆなが枝葉に包まれる様に転がると、清が優しく抱き起こしたが、ゆなが不思議そうに清を見つめた。
「声、出たね!」
「えっ……あ……!」
清は驚いて自分の喉を押さえた。
「……本当ね」
左慶がそんな清の頭を優しく撫でると、清はにこりと笑う。
「良かったですね」
清は照れた様に軽く頷いた。右慶はゆなの手を取るとそっと魚石を掌にのせた。
「まさか本当に見つけちまうとはな……これも縁なんだろう」
「えにし?」
「繋がりって意味かな。そもそもその石は、河原に転がっていても誰にも見つからなければただの石のままなんだけど、ゆなが見つけて、皆で磨いたから、魚石だって解ったでしょう? もし、今日清にゆなが会わなかったり、僕が魚石を探そうって誘わなかったり、右慶が紙鑢を持ってなかったりしたらその石には出会えなかったんだよ。そのどれか一つが欠けてしまうと、その魚石を見ることは出来なかったんだ」
ゆなは不思議そうに石を握って聞いていた。
「もっと言うと、その石が長い年月をかけて雨風に晒されて土の中から出てこないといけないし、長い旅を経ていろんな石にぶつかりながら川を転がって来なければならない。タイミングが悪ければそのまま海まで流されてしまう。海に落ちたらそれこそ見つけるのは難しいね。だから本当に、それに出会うことが出来るのは奇跡の中の奇跡なんだよ」
ゆなの瞳が、宝石を吸い込んだ様に輝いていた。
「お日様が照らしてくれたからその石を見つける事が出来たし、ゆなが元気だから河原で遊べたね。水が綺麗なのは山が豊かな証拠なんだ。だから神様がゆなに寄り添って、それをゆなに届けてくれたんだよ」
ゆなは嬉しそうににっこりと笑った。
「ママにも見せる! ママがゆなを産んでくれたからゆながこれ発見した!」
「そうですね。お母さんはお家?」
清が問うと、ゆなは首を横に振った。
「びょーいん、がんってびょーきなんだって。薬のふくさよーで、髪の毛全部無くなっちゃったの。おじいちゃんよりもつるつるだからね。いつも帽子被ってる」
ゆなの話しに、右慶と左慶は顔を見合わせた。
「早くびょーき治ってかえって来る様に神様にお願いに行ったけど、ゆな、おさいせん持ってなくてなかなか言えなくて、でも今日、お兄さんからお金じゃなくても良いって聞いたからね、ゆな、沢山どんぐり拾って、神様にお願いするの!」
無邪気に話す様子に清の笑顔が若干曇った。右慶と左慶も目語で頷きあっている。
「お母さんの中にも神様が居るのを知ってる?」
左慶が話すと、ゆなは首を傾げた。
「そうなの?」
「霊は元々天から授かる神の意志という意味で……」
右慶が説明しようとすると、左慶が小突いた。
「ゆなの中にも神様が居てね。ゆなが元気なのはゆなの中の神様も元気な証拠なんだ。お母さんが病気なのは、体の中の神様も少ししんどくなってて、お休みしているんだよ」
「えー、そうなの? なんでお休み?」
「色んな事情があるんだけどね。一つはゆなの事が心配だとお母さんの神様は疲れちゃうんだ」
ゆなはそれを聞いて首を傾げた。
「そーなの?」
「そう。だから先ずはお母さんに安心してもらう事が大切なんだ」
「どうしたらママ、あんしん?」
「清に初めて会った時、ゆなはどう思った?」
ゆなは清を見つめると、清はにこりと笑ってみせた。
「かわいくて、優しそう」
「そう、怒ってる人には怖くて近付けないよね。だからゆなもお母さんの前ではにこにこ笑っていると良いよ。泣いたり、我儘を言ってしまうと、お母さんが心配してまたお母さんの中の神様がお休みしちゃうからね」
驚いた様にゆなは話しを聞いていた。
「うん! ゆな、笑うことにする!」
「それが出来たら次は言葉だね。人に会ったらちゃんと元気良く挨拶をすること。これも笑顔でね。何かしてもらったらありがとうございます」
「あいさつ……」
「親はちゃんと社会性身に付いてるなって安心するから、恥ずかしくても挨拶はしといた方が良い」
右慶が口を挟むと、
「だから難しい言葉はやめて下さい」
と左慶が再び小突いた。
「あとは、身の回りを綺麗にすることね」
清はそういうと、ゆなの髪についた葉っぱをそっと取った。
「脱いだ靴は揃えるとか、出した玩具は元の場所に片付けるとかね」
ゆなは自分の部屋を思い浮かべて俯いた。積み木もらくがき帳もクレヨンも出しっぱなしだ。
「それが出来たら、ママ、ゆなの心配しなくて済んで、元気になる?」
「病気は一つの要因で顕現するものじゃない。主因、副因、素因の三つが合わさって……」
右慶が指を一本ずつ立てて説明しようとすると、左慶は目尻を引くつかせた。
「だからっ」
左慶が口をへの字に曲げると、清が話した。
「病気は、色んな原因が重なって現れるものなの。頑張りすぎて体が疲れていたり、心配することが沢山あったりね。でも、逆にその原因の一つを取り除けば、元気になることが多いの。それで、先ずはゆなが、ママに心配しなくて大丈夫だって解って貰えたら、ママの中の神様も、もう少し頑張ろうかなって起きてくれるの」
ゆなは不思議そうに清を見つめた。
「ふーん……」
と鼻を鳴らすと、何処か納得がいかないような表情になる。清はそれに気付いてゆなの持っている魚石を指し示した。
「その魚は綺麗よね?」
「うん」
「その魚はかわいいね?」
「うん」
「その魚はそこから逃げて行くと思う?」
ゆなは首を横に振った。
「石の中に居るから逃げたりしないよ」
「そう。でも石に穴が開いていたら?」
清の言葉にゆなは驚いていた。
「お魚逃げちゃう」
「そう。逃げちゃうから心配よね? 穴が開いてないから、魚が逃げる心配が無くて持っていられるわよね。でももし中の魚が暴れて穴が開いて、魚が川に逃げてしまったら、他の大きな魚に食べられてしまうかもしれない。帰り道が分からなくて海へ行ってしまうかもしれない」
ゆなの顔がどんどん青褪めていた。
「でも、ゆなに安心してもらう為にこの魚はここに居るのね。石の中で暴れて怪我をしないようにちゃんとゆっくり泳いでる。石にぶつからない様に水が魚を包み、その水を石が守ってる」
ゆなは掌の中の石を見つめた。
「ゆなが魚だとしたら、石はゆなの周りの人ね。ゆなが我儘勝手に振る舞うと、周りからそっぽを向かれてしまう。周りの大人だって毎日自分達の生活で一生懸命なのに、顔を合わせても挨拶もしない。話せば自慢話や文句ばかり、我儘勝手に振る舞う子供に手を差し伸べてくれるかしら? ゆなだったらどう? いつも怒って我儘を言う子と、笑って話しを聞いてくれる子、どっちと遊びたい?」
「笑ってる子の方が良い」
「そうでしょう? 周りの大人も、そういう子の方が手を差し伸べやすいし、声をかけやすいの。守ってあげたいなって気にかけてくれるの。そういう子に育つと、お母さんはゆなが困った時には周りに助けてくれる人がちゃんといるなって安心するの」
ゆなはそれを聞くとこくりと頷いた。
「ゆな、良い子になる!」
ゆなはガッツポーズをして宣言すると、清は優しく微笑んで頷いた。日が傾き始めたのでゆなの手を取ると家まで送って行った。
月光が草木を濡らしている。右慶と左慶は病室の窓からベッドで眠っている女を見つめていた。頭には髪の代わりのニット帽を被っている。
「ありゃもう駄目だぞ」
右慶が呟くと、左慶は目を伏せた。黒い靄が病室の中に立ち込めている。女はゆなの母親だった。
「なんとかしてあげられませんかね?」
「精々二、三日生き長らえたら良い方だろ」
右慶が応えると、左慶は俯いた。こればかりは仕方のないことではある。
「帰るぞ」
右慶の声に左慶が踵を返すと、不意に目の端に白蛇が映って視線を戻した。
「もし、せぇ〜け ゆなの母君を知らんのだがね?」
首に紅白の注連縄を巻いていて、いかにも神様の使いですと言わんばかりに鎌首をもたげた。右慶と左慶は驚いていたが、左慶は三階へぴょんと飛び上がると、音が出ないようにそっと窓を開けた。白蛇が下で右往左往していると、右慶が溜息を吐いて蛇を掴み、三階の窓へ飛び上がった。
「鈍臭い神使だな」
「失敬だがね!」
右慶が窓の隙間から蛇を押し込むと、蛇は冷たい床に落ち、病室の中を見回す。
「空気が悪いのだがね」
蛇が大きく息を吸ってお腹を膨らませると、ふーと勢い良く息を吐いた。病室に立ち込めていた黒い靄が窓の隙間やドアの隙間から出て行くと、窓から月の光が差込み、ゆなの母親の額を照らした。それを窓から見ていた左慶は空に浮かぶ満月へ視線を向けた。
右慶が窓をもう少しだけ開けると、夜風に乗って花の香りが微かに病室を包んだ。蛇は満足そうに窓辺にいる二人の元へ歩み寄る。
「おい、そこの童、苦しゅうない。ワシを家まで送るんだがね」
「なんか腹立つ」
左慶が窘めつつ、白蛇を頭に乗せて地面に降り立った。
「わざわざ神様の眷属が出向くだなんて、珍しい事もあるのですね」
「ふふん。ワシすごいんだがね?」
「邪気を祓っただけでご満悦かよ。病気が治るわけでもあるまいし……」
右慶が呆れていると、蛇は右慶を睨んだ。
「そりゃの、ワシには病気を治す力なんぞ持ち合わせておらんのだがね」
「右慶が言ってた主因、副因、素因の中の素因くらいは消せたんじゃないですかね?」
左慶が聞くと、右慶は溜息を吐いた。
「今更一つ取り除いた所で、末期癌が治るかよ」
右慶の言葉に蛇は鼻で笑った。
「蟻の穴から堤も崩れる。どんな小さな種もちゃんと手入れをすれば大きな木になる。その手入れはその人の縁なんだがね」
蛇がそう言うと、右慶と左慶は視線を交わした。
「霊的な邪気を祓うことで良い気が流れ込むのは確かだ。悪い気の流れを治す為に月や星や太陽の光、草木が浄化した風、綺麗な水、その土地で育った作物や魚を食べることでその土地神の神徳を体に取り込み、少しずつ改善するのは確かだけど、それだけの時間は無い」
「時間は人が伸ばすのだがね」
蛇が応えると、左慶は首を傾げた。
「人が?」
「そもそも一日二十四時間なんぞ、人間の決めた時間だがね。それを短いと思うか長いと思うかも人間だがね。その一時をどう生きるのかも人間だがね。この国の患者を思って働いた医者の努力や、何年も試行錯誤した薬の成果は人間にしか成せない御業なのだがね。そこにはもうワシらの出る幕なんぞ無いのだがね。
本人の縁の問題なんだがね。周りの話しによく耳を傾けて、本を読んで、良い医者に巡り合って、その医者の言う事をちゃんと聞いて、養生すればどんな病も治るのだがね。ただ医者任せで本人が努力しなければそれは功を奏さないのだがね。悪い医者に当たってしまえば本人がどんなに努力した所で意味を成さないのだがね。その為の縁を呼び込むのは今までの自分達の答え合わせのようなものだがね。
自分がしっかりしていれば悪い縁なんぞ来ないし、これくらい……と思ってゴミクズ一つ道に捨てたり、他人の悪口ばかり言って周りの話しに耳を傾けない愚か者の所へは良い縁なんぞ来ても気付きもしない」
「悪因悪果、因果応報というやつですか」
「そういうことだがね。じゃからワシらは、人間の目に見えない霊的な要因を祓ってやったり、応援くらいはするのじゃ。そこから先は、人間の領域なのだがね」
蛇の話しに右慶と左慶は顔を見合わせた。薄暗い夜の山を二人は登って行った。
お日様が天中に登っていた。ゆなは病室の前でじっと佇んでいる。手術中の赤ランプを睨みながら涙を目に溜めていた。
朝方、容態が急変したと病院から電話が掛かって来た時、ゆなはまだ寝ていた。父が慌ただしく、仕事の引き継ぎの電話をしている。会社でハウス管理をしているから、日が昇る前に現場に出てハウスの中の空気を入れ替えたり、苗に水やりをする仕事だと聞いたことがあった。どのハウスのどの苗に肥料をやり、ダコニール剤の散布は何号のハウスで、空きのハウスは雲煙防虫処理をするように父が話していた。
子供ながらに、こんな時でも仕事が大事なのかと悔しかった。ハウス苗の管理だから滅多に連休なんて取れない。朝早く出て、夜も遅くまで帰って来ない。夏休みは最盛期だから、近所の子が遊園地に行く頃に休みなど取れなかった。祖父母も、稲刈りや畑仕事で忙しそう。母も元気な頃はずっと手伝っていたが、偶に二人だけで公園へ連れて行ってくれた。そんな母が病院へ行ってしまって、寂しさと言いしれない恐怖で胸がいっぱいだった。
廊下で佇んでいると、父が病院の公衆電話から戻って来た。病院へ来てからも何度か仕事場に電話している様だった。
「ゆな、ごめんな。お父さんちょっと……」
ゆなは眉間に皺を寄せ、振り向きもしなかった。どうせ仕事なんでしょ。ゆなやママのことなんてどうでもいいんでしょ! と叫びたくなった。
「本州の……海の向こうで地震があって、流通が止まったらしいんだ。今朝出荷した苗が戻ってくるから、それの対応はお父さんしか出来ないんだ」
そんなの知らない。難しいことわかんない。苗が駄目になったら負債になるとか、他のお客さんへの苗の出荷調整とか、給料に響くとか、お父さんの給料が減ったら生活が苦しくなるとか、そんなの全く解らなかった。
「行ってくれば」そう突っぱねたかったが、ゆなは必死に笑顔を作って振り返った。
「パパ、行ってらっしゃい。お仕事頑張ってね!」
昨日、清に教えてもらった事を必死に思い出した。お父さんは申し訳無さそうにゆなの頭を撫でた。
「ごめんな。直ぐにお父さん、戻って来るから」
父が行ってしまうと、ゆなは堪えていた涙が一気に吹き出した。声を上げて泣くと、不意に清が現れて抱き締める。
「よく出来ました」
清が呟くとゆなは清の千早を握り締めた。
「ゆなの頑張りはちゃんと神様が見ていてくれていますよ」
ゆなは首を横に振ると唇を噛み締めた。
「神様、ママを守ってくれないのかな?」
「守られていないと思うか?」
不意に少年の声がして顔を上げると、明神が傍に立っていた。
「だって……」
「ただ息だけしていれば良いというものでも無いだろうし、これ以上苦しまなくて済むのだと思えば、楽にしてやる事も神の御業とは思わないか?」
「主人!」
清が諫めると、明神はしゃがみ込んでゆなと視線を合わせた。
「ゆなはお母さんにどうなってほしい?」
「びょーきなおって、元気になって、ずっと一緒に遊びたい!」
ゆなの言葉に明神は瞳を宙に泳がせた。
「中々贅沢な願いだな」
「当然でしょう」
子供なんですから……と言いかけて思い留めた。
「贅沢な願いにはそれに見合う報酬が必要になってくる」
「ゆな、お金持ってないよ?」
ゆなの問いかけに明神は頷いた。
「神社で教えてやっただろう?」
明神に言われてポケットを弄ると、あの魚石だけが一つ入っていた。
「どんぐりない」
「その手に持ってるものは?」
明神に言われてゆなは眉根を寄せた。
「これね、昨日見つけたの。大事なものなの……」
「お母さんよりも?」
その問いかけにゆなは悩ましそうに魚石を見つめた。透明な水晶の中で金の魚が泳いでいる。
「沢山の奇跡で出来た宝物なの」
「それはゆなも、ゆなの母親も同じだろう」
ゆなは不思議そうに明神を見上げた。
「ゆなも、ゆなのママも、この石と一緒?」
「そう。ゆなのお母さんがお父さんと結婚しなければゆなは産まれて来なかったし、お祖父さんとお祖母さんのどちらかが人生を諦めていれば、ゆなのお母さんもお父さんも産まれてこなかっただろう。ご先祖様の誰か一人欠ければその途端にゆなは居なかった事になってしまう。そういった奇跡の連続で産まれた命が、その掌の石に勝る奇跡だと思う?」
ゆなは驚いて目を丸くし、ゆっくりと首を横に振った。
「お母さんを治してくれる?」
ゆなはそう問いかけながら石を差し出した。
「病気を取り除くことは可能だが、お母さんに心配をかけ続ければまた再発するだろうし、偏食ばかりを繰り返したり、忙しさにかまけて何も食べなければ元気にはならないだろう。六才になれば学校へ行かなければならなくなるからいつまでも一緒と言うわけにもいかなくなる。それでも構わなければ……という話にはなるが」
ゆなの瞳が不安そうに揺れた。
「まあそこは他の神々が手助けしてくれるだろう。ゆなにも、お母さんが元気になる手助けをお願い出来ないだろうか?」
不安そうだった瞳に光が差し、大きく頷いた。
「ゆな、ママが元気になるようにお手伝いする!」
明神はそれを聞いて頷くと、そっと魚石を取った。
「良い心掛けだ」
明神の両眼が碧く光ると、石が割れて中から金の魚が中空に躍り出た。右へ左へ宙を舞い、扉をすり抜けて手術室へ入って行くのを見送ると、ゆなは今、自分の目の前で起こった事が理解出来ずに目を白黒させる。不意に手術中の赤ランプの灯が消えると、ゆなは周りを見回した。学生服の少年も、千早姿の少女も居ない。
ゆなは今、起こった出来事が夢なのか現実なのか解らなかった。
神社の拝殿に腰掛けて話しをしている幼子の姿が三つあった。木漏れ日が降り注ぎ、そこここに白い花を咲かせている様に光っている。三人のその隣に白い蛇が蜷局を巻いていた。
「魚石?! はぁ〜、それはワシも見てみたかったのだがね」
蛇が羨ましそうに言うと、右慶と左慶は顔を見合わせ、清は微笑んでいた。
「あれ、僕思うんですけど、主人の作り物ですよね? どうやって作ったかは分かりませんが……水晶の中をくり抜いて水と魚を放り込んで蓋を閉めた所で魚は死んでしまいますよね? 普通……」
「彦から魚石の話しを聞いてきた時点で怪しいとは思ってたから、そこまで驚きはしなかったが。またどうせいつものお得意の秘術というやつで造ったんだろう」
左慶と右慶が言い合うと、清はにっこりと笑っていた。
「あれを河原でゆなが見つけなかったら、お母さんの病気を治すつもりはなかったのでしょうか?」
「さあ? どうでしょう?」
左慶の呟きに清は微笑んで応えた。
「また艶々のどんぐりを持って来てくれれば、ワシが邪気を祓ってやるのだがね」
「もう回復して、今日にも退院するそうですよ。そうなるともうここへは来なくなるんじゃないです?」
喉元過ぎればなんとやらと言うくらいだし、病が治れば、もうここへ来る必要など無いと思っていた。あれから一週間は経っていたし……それなのに、石段を駆け上がるけたたましい音が近付いてくると、慌てて三人と一匹は浄財箱の裏に身を隠した。箱の裏からそっと顔を覗かせると、息を切らせたゆなと、頭にニット帽を被った女の人が手を繋いで歩いて来た。麻縄を掴み、鐘を鳴らすと二人は並んで頭を下げ、手を叩いた。
「えっと、せぇけ ゆなです。ママを助けてくれて、あいまとうごまいまった」
舌が上手く回らず、今度は落ち着いて言い直す。
「ありがとうございます」
母親がにっこりと笑ってそう言うと、白いぽち袋を出してゆなに差し出した。ゆなが浄財箱へそれを入れると、蛇が嬉しそうに尻尾を振っている。ゆなはポケットからどんぐりを一つ取り出すと、そっと浄財箱へ入れた。
親子が手を繋いで帰って行くと、三人と一匹は不思議そうに顔を出した。
「珍しい」
蛇は鎌首をもたげて呟いた。
「ちゃんとお家でお金を洗ってから新品の封に入れて来たんですね」
「封に入れるのは少し過剰だろ。浄財集める神主の手間が増える」
左慶の言葉に右慶が反論した。
「気持ちの問題です。神様への浄財を裸で差し出す方が間違いです。神主の手間など関係ありません」
清が少し怒った様に言うと、右慶は驚いた様に目を丸くしていた。
「ちゃんとお礼参りに来たのじゃから、これからも見守ってやらねばならんのだがね」
蛇が呟くと、三人は顔を見合わせた。三人はほくそ笑むと拝殿から降りて白蛇に軽く頭を下げる。
「俺達は忙しいから、そっちに任せる」
「ははっ言われなくともだがね」
蛇が尻尾をばたつかせると、拝殿の奥へ入って行った。三人も嬉しそうに石段を駆け下りて行く。暖かい陽の光がまるで世の中の全てを祝福するように降り注いでいた。
隱神 其の壱 餅雅 @motimiyabi
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