第11話 今は昔 後編

 夏休みに入る少し前のことだった。表情が乏しいのと、参観日に親が来なかったことから、同級生から奇妙な噂を立てられた。子供の噂話など気にしていなかったが、その噂はやがて学校全体に広まり、あの事件が起こることになる。石を投げて追いかけてきた上級生を振り切ろうとけたたましく鳴る遮断器を潜り抜けた時、悪いことを思いついてしまった。

 何でこんな奴らが生きていて、自分の母親は死んでしまったのだろうか? ……と。

 自分に敵意を向ける人間には親や家族が居る事が妬ましかった。何不自由なく平和に暮らしている事に腹立たしさを覚えた。

 抑えきれなくなった感情が、溢れた呪詛に乗って黒い手になった。長い幾つもの手が、遮断器を潜る子供を地獄へ誘おうとする。汽車が迫っている事に気付いた子供が踵を返すのを黒い手が線路に押し留めた。

 ブレーキ音と、子供の体がぶつかる激しい音がした。そこここに血飛沫が舞い、子供の悲鳴と泣き声が響く。足が千切れたり腕が逆方向に曲った子供の体を見て、少し笑った。

 即死など勿体無いと思った。痛みにもだえ苦しむ姿に優越感を覚える。一人の子供の寿命が終わって動かなくなると、ふとさっきまで一緒に居た橋本 直人のことを思い出して急に冷や汗が出た。彼は大丈夫だったろうかと線路の向こう側を見ると、黒い犬が直人の足を押え、護ってくれたらしい。その黒い犬がじっとこっちを睨んでいる。

「去れ」

 残っていた子供の寿命が終ると、明神はそっとその場を後にした。

 あれは一体何だろう? あれが居なかったら、直人も汽車に轢かれてしまっていたのだろうか? あんな風に肉が裂けて、足が千切れなくて良かった。

 そう考えて、不意に自分の考えに疑問を持った。

 あの自分に石を投げてきた子供と、直人と、命に優劣を付けている自分に気付いてしまった。

 同じ命だったはずだ。噂に感化されて石を投げてきた事は理解していたはずだった。親の躾が行き届いていなかったり、日々の不満をぶつける相手に直人が自分を選ばなかったというだけで、何か一つ今と違えば直人だって同じ様な行動をとっただろう。そういった一時の子供の悪巫山戯を理由に寿命を取り上げてしまった事を今更後悔した。

 屋敷に帰って部屋に籠もると、何度も子供の死に際を思い出した。

 こんなことをしたことを母が知ったらどう思うだろう?

 そう思った時、何も知らずに転生してくれている事が救いに思えた。自分がどれだけ人を殺しても、それを諌める親がいない事に安堵し、同時に憤った。

 どうして死んだのが俺じゃなかったのだろう?

 そんな疑問が浮かんだ。母じゃなくて、自分があの時に死んでいれば良かったのに、汽車に轢かれたのが自分だったならこんなに苦しまなくて済んだだろうと思った。

 そして不意に、記憶に一切無い父親と言うものに憎悪した。

 あいつ、俺を棄てたんじゃないだろうかと……立場が違えばそうしたかもしれない。否、そうに決まっているだろう。こんな呪詛で雁字搦めにされ、力のコントロールもろくに出来ない子供を、面倒みるのが嫌になったんだ。そうに決まっている。自分が幸せになる為には邪魔になったに違いない。

 徐ろにカッターナイフを取り出した。もう何も考えるのが嫌だった。こんな所に産み落としてさっさと死んでいった母親が許せない。自分を棄てていった父親が憎かった。

 手首にカッターナイフの刃を押し付けると、不意に部屋の向こうから声がした。多分、清と右慶が居るのだろう。クレハの声もする。

「ひふみよいむなやこと……」

 右慶のその言葉が、とっくに忘れ去っていた記憶を思い出させた。

 一歳だった自分が押入れに隠れていた時、その歌が聞こえて襖を開けた。

 顔も姿も思い出せないが、抱き締められた感覚があった。

 それで、思い止まった。

 部屋のドアを開けると、クレハと右慶が楽しそうに話をしている。明神は心配そうな顔をしてこっちを見ている清と目が合うと、そっと目を伏せた。

「何?」

「清が心配していますよ」

「気にしなくていい」

「食事くらい摂って下さいな」

 明神は溜息を吐いた。

「疲れたから少し休む」

「後で食事をお持ちしますね」

「いらん」

 明神の言葉にクレハが目を丸くした。清が手を差し出すと、明神の掌に山桜桃の赤い実をいつくかのせた。明神が清の顔色を伺う様に見つめると、清は微笑んだ。

「気持ちだけ貰っておく」

 明神が清の掌に山桜桃を返すと、清が悲しそうな顔をした。クレハがそれを見て誂った。

「女の子からの贈り物を突き返すなんて……」

「その言い方はどうにかならないのか!」

 珍しく怒った事にクレハも右慶も驚いていた。黒い手がドアの隙間から出ようとするのに気付くと咄嗟にドアを閉めた。何も知らないあいつらにあたってしまった事でまた自暴自棄になる。あいつらまで自分が手にかけてしまうことを想像して恐怖した。自ら命を絶つことも憚られ、かと言ってこのままここで一人きりで居るのも恐ろしかった。あの誰も居なかった三年間を思い出すだけで身震いする。否、今はあの頃よりももっと怖ろしかった。外の世界を知ってしまったばかりに、隔離されることが嫌だった。外には嫌なことも有るが、春香や直人の様に気の良い人間も居る。ここでは知り得なかった沢山の事が恋しかった。もっと沢山、外の事を知りたいと思った。その代償で自分の身近な誰かが傷つく事になるのだと考えると、仕方のないことなのかとも思った。自分一人が我慢することで、他の誰かが幸せになるのを指を咥えて眺めていることしか出来ないのが悔しかった。

「……殺せ」

 自分が殺した子供の寿命を一つに纏めると、ゆるゆると人の形になった。安定しない姿なのは使い捨てにするつもりだったからだ。自分が死んだらそれで御役御免にするつもりだった。けれどもそれは、自分の父親が自分にしたことと同じなのではないかと思った。自分も使い捨てだったのだと……そう思うとまるで自分を見ている様だった。

「左慶」

 名前を付けると右慶とそっくりな男の子の姿になった。青い袴に、白い衣を纏った十歳くらいの子供が静かに微笑んだ。

「お前は人の為に尽くす式神になってくれ。人を生かす為に……」

 ひーふーみーよーいー

 俺を殺せと命じる前に、不意に頭の中で子供の声がした。母親の真似をして口遊む幼かった頃の自分の声が、頭の中に響く。不思議な感覚だった。

 むーなーやーこーとー

 意味も知らないで無邪気に唱える声に鬱陶しさを覚えた。

 知ってるよ

 ふと、眼の前に幼かった頃の自分の姿が映った。秋津柄の甚平を着た三歳程の子供がにこりと笑う。

 降り掛かる厄災が幸福に変わりますようにという歌だよ。お母さんが僕の為に歌ってくれたから、僕はお母さんの為に歌ったんだよ。

 子供の声が頭の中に浮かんだ。瞬きと同時に子供の姿が消え、声も聞こえなくなった。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおえにさりへてのますあせゑほれけ」

 不思議と体が軽くなるのが解った。さっきまであれこれと考えていたことが掻き消され、行き場を失った黒い手が消えていく。呪詛が治まると、ゆっくりと深呼吸した。

 不意にドアを叩く音が響いた。左慶がドアを開けると、清が左慶を見て驚いている。

「左慶と申します」

 左慶がそう自己紹介すると、清は持っていたお盆を握り締めて部屋の中を覗き込んだ。明神は溜息を吐くと、左慶の隣へ歩み寄る。

「清だ。事情があって口がきけない」

「左様でしたか」

 清が恐る恐る水の入った湯呑を差し出すと、明神はそれをとった。清がそれを見て嬉しそうに笑う。

「左慶、頭痛がするから痛み止めを作って貰いたい」

「大分気が乱れていますから、何かお召し上がりになった方が良いと思います」

「食欲がない」

「では、補中益気湯をお作りします」

 左慶の言葉に肩を落とした。気虚に使う漢方薬の事だったと思う。

「……頼む」

「了解しました」

 左慶が丁寧に頭を下げると部屋を出てドアを閉めた。



 ドアが閉まると、部屋の前で清が心配そうに立ち尽くしていた。

「大丈夫ですよ。少し気落ちしているだけです」

 左慶が声をかけると、清はにっこりと笑みを浮かべる。清が左慶の手を握ると、左慶は頬を赤くした。

「えと……」

 口が訊けない事は知っているが、何を伝えたいのか解らなかった。掌に文字を書いているようだが、擽ったいのと、女の子に手を握られたことで心中穏やかでいられない。清が伝わっていないと気付いて俯くと、左慶は袖から紙と筆を出した。

「これでお願いします」

 清は驚いていたが、紙と筆を取ると文字を書いた。

 ありがとうございます

 と書くのを見ると、左慶はにこりと笑った。その紙を取って明神の部屋のドアの隙間に入れると、清の手を引いて階段を下りる。角を曲がった先に右慶が居て、左慶と目が合うと、右慶は神妙な顔をしていた。清と手を繋いでいるのが気に食わなかったのだと察した左慶は清の手を離した。

「おや、これは失礼しました」

 清は何故、左慶が謝ったのか解らずに首を傾げている。

「始めまして。左慶と申します」

 左慶がそう言って頭を下げると、名前を聞いた右慶が眉根を寄せた。

「右慶だ」

「宜しくお願いします」

「ちょっと来い」

 右慶に言われ、左慶は清を一瞥した。

「心配しなくても、私と清は右慶が思っている様な仲では無いですよ?」

「勘違いすんな! 彦のことに決まってんだろ!」

 顔を真っ赤にして怒鳴る右慶に驚いて清が左慶の後ろに隠れると、右慶は落ち込んでいた。なんて解りやすいんだと左慶はにやにやしながら右慶に近付いた。

「何です? 主人ならお休み中です。そっとしておいて下さい」

 左慶がそう言うと、右慶は溜息を吐いた。右慶が清に目配せすると、清もそれに気付いて席を外す。それに気付いた左慶は笑った。

「恋仲ですか」

「違うっつってんだろ!」

 顔を真っ赤にして否定する右慶の姿に微笑ましさを覚えた。

「何があった?」

 急に右慶が真剣な表情になって聞くと、左慶は主人のことを言っているのだと察した。

「さあ……私が生まれる前のことは解りかねますが、大分不安定になっています。私を造ったからか、はたまた他に理由があってか存じませんが、お体も弱っていますね」

 右慶はそれを聞くと溜息を吐いた。

「ひふみ祝詞で思い止まりましたよ」

 左慶の言葉に右慶は首を傾げた。そういえばさっき廊下で、清が何かを伝えようとして人差し指を立ててみせた。中指、薬指と立てる姿にクレハがひふみ歌の事だと言った。自分も昔、その歌を聞いた事があったので呟くと、明神がドアを開けたので驚いた。

「祝詞?」

「ああ、ご存知ありませんでしたか。古い歌です。悪神を祓い、自分の魂が離れ散るのを招き返して結び止める意味もあります」

 左慶が説明すると、右慶は目を伏せた。

「人の子であれば、まだまだ親に甘えたい盛りでしょう。ここに留まる事が主人の為になるとは思えませんが……呪詛を抑えられないのであれば屋敷から連れ出すわけにも行かないでしょう。今少しの間だけ、そっとしておいて下さい」

 左慶が軽く頭を下げると、明神の薬を作る為にその場を後にした。



 清は右慶と左慶と別れると、台所に立っていた。何か作って明神に……と思ったのだが、火と刃物が怖い……今は昔と違ってコンロのボタンを回すだけで火がついた。その青い火が狐火の様で顔が真っ青になる。大丈夫だと自分に言い聞かせ、包丁を手に取ると小刻みに手が震えた。見様見真似でネギを切っていると、手元が狂って左手の人差し指を切った。鋭い痛みに驚いて手を引っ込めると、包丁が床に突き刺さる。指先から赤い血が流れ、なかなか止まらない。何も出来ないでその場に蹲ると、不意に後ろから腕を捕まれ、血が出ていた指先を右慶が咥えた。清は驚いて目を丸くし、顔を真っ赤にした。

「本当、鈍臭いよな」

 清の傷が消えたが、清は顔を真っ赤にして仰け反った。背にしたコンロにぶつかりそうになると右慶が優しく抱き寄せてコンロの火を消した。金木犀の花の香りがすると、右慶はそのまま清の肩に鼻を押し付けた。清が戸惑っていると、右慶は溜息を吐いた。

「お前の血は柔らかいな。まるで甘露の様で……」

 清の脳裏に暗い空から雨が降って来る景色が浮かんだ。濡れない様にと木々の枝葉が手を伸ばしている。清は懐かしくて呆然としていると、そっと右慶が離した。清が後退ると、右慶は少し残念そうに目を伏せた。

「ひふみ祝詞って、何処で知ったんだ? 彦から聞いていたのか?」

 右慶の質問に清は首を横に振った。それを見た右慶が首を傾げる。清が何かを伝えようとするが声が出ない。右慶の手を取って掌に文字を書くが、右慶は擽ったくて手を引っ込めた。

「やめろよ。擽ったいだろ」

 清はそれを聞くと俯いた。目から涙が零れると、右慶は自分が泣かせてしまったと動揺する。

「泣くなよ」

 頬を流れ落ちた涙が金木犀の小さな花に変わる。右慶はそっと清の頬を包んだ。

「お前は怪我をしたクレハの代わりに造られた所謂繋ぎだろ? クレハが治った時点でもう用無しなんだから、足手纏になること解ってるならさっさと元の金木犀に戻して貰えよ」

 清は首を横に振ると右慶から離れた。

「何か言い返してみろよ」

 前みたいに生意気な事を言ってほしかった。何も言わない清を見ていると、昔の事を思い出して辛くなる。あんなに口喧しく囀っていた雛が、ぱたりと何一つ話さなくなり、全く動かない姿を思い出してしまう。

 清が唇を動かすが、声が出ない。右慶が痺れを切らせて清に手を伸ばすと、その手を左慶が掴んだ。

「お取り込み中すみません」

 左慶にそう言われて右慶は手を引っ込めた。清が左慶の裾を引っ張ると、左慶は清を見て微笑んだ。

「大丈夫ですよ。右慶は少し意地悪をしただけで、本気でそんなこと思って無いですよ」

 右慶はそれを聞いて眉を潜めた。

「何で清の言っている事が分かるんだよ?」

「どうして分からないんですか?」

 左慶に問い返されて困った。

「喋らないじゃないか」

「言葉を交わさないと相手の気持ちが分からないのですか? だとしたら貴方の目は節穴ですね。年齢だけ重ねてただじっと突っ立っていたのですか? 直木らしいです」

「てめぇ、喧嘩売ってんのか?」

「右慶の方こそ、主人の違う式神に喧嘩を売っているではないですか。話が出来ないから心が通じないと思うのは間違いです」

 左慶が徐ろに筆と紙を取り出すと、清に差し出した。清がさらさらと何か書くと、左慶と右慶がそれを覗き込む。

『山吹の花色衣』……これは清が履いている黄色い袴を指しているのだろうと二人は理解した。

『主や誰問えど答えず』……清の主人が彦であることは二人共知っているので、ここでの主は黄色い袴の主、つまり清本人、清の心の事を指しているのだろう。右慶が聞いた事に対して清が自分の気持ちを声に出来なかったと言いたいのだろう。

『梔子にして』……口なし、口がきけないからだと言っているのだろう。

 山吹色の着物は色の名前とは違い、染色に梔子を代用している。そんなことは問答せずとも誰でも知っている。

 つまり、清が言葉を話せない事は承知の上のはずなのに、喋れと言う右慶を馬鹿にしているのだ。

 清が書き終えると、左慶が真っ先に噴き出した。右慶は眉間に皺を寄せ、清を睨んだ。

「俺への皮肉か」

 清が首を縦に振ると、右慶は口をへの字に曲げた。

「なかなか面白い」

「こんな阿呆な和歌教えやがって、どうせなら

 山吹の花の盛りに斯くの如、君を見まくは千年にもがも

 くらいにしておけば可愛気があるのに」

 右慶は清が詠んだ山吹に合わせてその歌を詠むと、清は頬を真っ赤にした。左慶もそれを聞いて目を丸くする。

 山吹が咲いている。この様な日に貴方にお会いすることがいつまでも続いてほしい。

 そういう歌だった。

「何だよ?」

「ドン引きです」

「あ?」

「それが詠めるなら二人っきりの時にしてくださいよ。最低です」

「だから例えばの話で……」

 右慶が言いかけると、清の拳が右慶の頬を殴った。あまりに久しぶりだったので右慶は避けきれず、殴られた頬を擦った。

「何だよ!」

 右慶が怒鳴ると、清がそのまま走って行ってしまった。

「今のは右慶が悪いですよ」

「何でだよ! 俺が殴られたんだぞ?!」

 右慶が怒っていると、左慶は嘆息した。

「清は、右慶に意地悪をされたからわざと皮肉な歌を書き出したのに、それにその歌で返すなんてあんまりです」

「だから例えばの話で……」

「例えばなら、他にも歌はあったでしょう?」

 左慶が言うと、右慶は口籠った。

「清の歌に合わせて山吹を使うのであれば、他に当たり障りのない歌などいくらでもあったでしょう? 何処まで意地悪なんですか右慶は!」

 そう言われれば、そうかもしれない。あの歌が思い浮かんだのは、常々そう思っていたから口をついて出たのだろう。ずっと傍に居てほしい。折角会えたのに、心が通じ合えないのがもどかしかった。それはそもそも、素直になれない自分が悪いのだが……

「清に謝って下さい」

「何で俺が……」

「どうせ和歌なんて解らないでしょう。あなたみたいな野蛮な人にはこれくらい皮肉な歌で充分です。くらいな気持ちでこの歌を書いたんだと思いますよ? それなのに聞きようによってはまるっきり告白文じゃないですか。悪口で返されると思っていたのに、相手が混乱するのは目に見えているでしょう」

「だから例えばだって何度言えば……」

「右慶だったらどう思うのですか?」

 左慶に問い質され、右慶は首を傾げた。

「君に会える日がずっと続けば良いと清に言われたら嬉しいでしょう?」

「それは……」

 嬉しいに決まっているが、あの頑固なお転婆がそんなことを言うとは思えない。

「嬉しいと思っていたのに直ぐにはぐらかされたらどうでしょう? 弄ばれたと清が感じるのは想像に難くないでしょう」

「弄ぶって……そういうつもりじゃ……」

「そうでなくても、清は悔しかったと思いますよ」

 右慶は再び首を傾げた。

「清が主人に造られてからどれだけ日が経っているのか分かりませんが、右慶ほど歌を多くは知らないでしょう。そんな中で口の訊けない清に、右慶に意地悪をされた時にと主人が教えた歌のはずです。その歌を否定すると言うことは清の主人を否定された気になったでしょう。その上でそんな雅な歌を返されたら清の立つ瀬がありません。せめて悪口で返しておけば清もお互い様だねって思えたんですよ」

 左慶の話を聞いて思わず清の後を追った。とっくに見失っていたが、二階の明神の部屋に居る事は解っていた。そっと部屋を覗き込むと清の啜り泣く声が聞こえた。部屋に入ろうかと思ったが、どう声をかければ良いのか分からなかった。

「右慶」

 呼ばれてそっと部屋に入ると、清が明神の後ろに身を隠すようにした。

「何だよ」

「清にあの和歌を教えたのは俺だ。お前が気を悪くしたなら謝る。けど、清を造ったきっかけは確かにクレハの代わりではあったが、今では大事な家族だと思っている。足手纏だから金木犀に戻れとか言うな」

 告げ口されたことが少し腹立たしかった。

「別に本当の事なんだから良いだろ」

「山吹の花の盛りに斯くの如、君を見まくは千年にもがも……これも本当の事だろう」

 明神が呟くと、右慶は清を睨んだ。清は怯えて明神の後ろに隠れている。

「だから、どうせならそんな皮肉な歌なんか覚えないでもう少し可愛気のある歌を覚えたらどうだっていう意味で……」

「なら、右慶が清に教えてやって」

 明神の言葉に驚いた清が必死に首を横に振る。それを見た右慶も唇を噛み締めた。

「俺だって嫌だ」

「ひふみ歌は清が人間だった頃に神杉に歌っていた祝詞なんだ」

 明神の言葉に右慶は目を丸くした。要するに前は巫女だったのだろう。

「人として生きていた頃は木を大切にしていたから、元々直木の右慶とは相性が良いはずだと思っていた。けれども、お互いにこうも歩み寄れないとなると、毎回俺が仲介するわけにもいかない」

 また、封印されるのではないだろうかと思った。次に封印から目を覚ますのは一体何年後だろう? それまで、あの金木犀は生きていてくれるだろうかと不安になった。

「一首、お互いに歌を贈ること」

 明神の言葉に右慶も清も驚いて目を丸くした。

「は?」

「右慶、お前が清に意地悪をするのは清が嫌いだからか?」

「そんなことは……」

 そう言いかけて口籠った。

「大空の 月の光し 清ければ 影見し水ぞ まづこほりける」

 明神はそれを聞くと瞳を宙に泳がせた。

「……そうか、すまなかった」

 清が首を傾げて明神を見つめている。明神は頭をかくと溜息を吐いた。

「空にある月がひとしお冴え返っていたが、冷たく澄んだ月影を吸い込んだので池の水が凍ってしまった。という歌で、ここで言う月は清、池の水は右慶を指しているんだ。

 清が、こちらには冷たい月光だけを落として主人の事しか見ていない。そんな君に冷たくすることでしかこっちを向いてもらえないと言っているんだ」

 清はそれを聞くと困った顔をした。紙と筆を取るがなかなか文字を書き出せない。迷ってやっと書き出すとそれを明神に手渡した。明神はそれを読むと、何も言わずに右慶に差し出す。右慶はそれを受け取ると歌を詠んだ。

「水の面に 綾吹き乱る 春風や 池の氷を 今日はとくらむ」

 水面に綾模様を成している春風は今日にも池の水を溶かしきるのでしょう。

 氷の様に冷たく心を閉ざしていないで、春風が冬の氷を溶かすように仲直りをしようと言っているのだろう。

「……解った」

 右慶が呟くと、清はにこりと笑った。



 それから数日、明神は学校へは行かなかった。そのまま夏休みに入るが、屋敷から出るのが億劫だった。人にさえ会わなければと思って里を散策していた時に灰色の小さな毛玉に会った。

 排水溝に蹲るそれは酷く汚れ、見捩り一つしなかった。寿命の尽きかけているそれを拾い上げたのは、せめて最期くらいは安らかであってほしいと思っての事だった。抱き寄せてじっとその命が尽きるのを待っていたが、日が暮れて夜になってもなかなか費えなかった。

「変だな」

 逸れた母親に会いたいという願いが、事切れそうな寿命を悪戯に引き伸ばしているのだろうか? そうこう考えて家に連れて帰ると、綺麗に洗って布団に寝かせてやった。安心した様に眠るその毛玉に寄り添って眠ると、毛玉もぴったりと明神にくっついて離れない。それが擽ったくて、不思議と安堵した。

 翌朝目を覚ますと、毛玉が幼い子供の姿に変わっている事に驚き、自分の体から溢れた呪力が子供に吸い上げられている事に気付いた。

「???」

 自分の意志に関係無く適度な呪力に調整されていることに戸惑った。呪詛の抑えも簡単に出来る。白い狩衣を着た子供が目覚めて不思議そうに明神を見上げ、明神も子供を見つめ返した。

「なんじゃ、人間か」

 そう自分で言って驚いていた。自分の手足を見てじたばたし、困惑してまた明神を見た。

「なんじゃ! この体は! 俺様はの、由緒正しき四国犬なのじゃ! これではまるで人間の子供ではないか!」

 子供の言葉に明神は首を傾げた。狐か狸かなにかだと思っていたのに、まさか犬とは思わなかった。

 子供の腹が鳴り、明神は首を傾げた。家に何かあっただろうかと台所へ行くと、子供も着いてくる。ご飯を差し出すと犬みたいに器に顔を押し付けて食べていた。甘いものがほしいと言うので鼈甲飴を作ると喜んでいた。それが今一よく分からなかった。犬なら人の食べ物を与え続けるのはよくないだろう。けれども子供は食べ終わると満足したのか、さっさと屋敷を出て行った。どうやら逸れた母親を探しに行ったらしい。母親が恋しいと思う気持ちは解るから無理に引き止めなかった。

 夜、その子供が、腹が減ったと言って戻って来た。もう戻って来ないだろうと思っていたから自分が食べる用に作っていた食事を差し出すとぺろりと平らげていた。眠たくなったのかそのまま卓袱台に突っ伏した子供の頭をそっと撫でると、やはり勝手に自分の呪力が吸い出されている。

「あら、懐かしい気配がすると思いましたら……」

 不意にクレハが居間を覗き込んで笑った。意味が解らなくて首を傾げると、クレハは微笑んだ。

「千年前、私の主人に仕えていた式神の生まれ変わりです。もう随分前に暇を出されたので、帰って来るはずは無いと思っていたのですが……」

 クレハはそう呟いて目を細めた。

「彼もまた、主人の事が大好きでしたからね。ひふみ歌に招かれたのかもしれません」

 クレハの言葉に頷いた。どうやら唱えた祝詞が、古い縁を呼び寄せたらしい。あの祝詞には神の御霊を招くという意味もあった。

「何でも食べてしまいますから気をつけて下さいね。まあその性質が彦の余計な呪力と、抑えきれない呪詛を食べているのでしょう」

 明神もそうだろうと思った。詳しいことは分からないが、これで紛いなりにも人並みの生活が出来ると思った。



 ーーあれから色んな事があったなぁと思い返すと、溜息が溢れた。雪が再び降り始めると、布団に包まっていた狛がくしゃみをする。明神はそっと狛の頭を撫でると、自分の余分な呪力が吸い上げられて安堵した。

「最近、変な夢を見るのじゃ」

 ふと、狛が口を開いて明神を見上げた。明神が少し首を傾げると、狛は話を続けた。

「よく覚えておらんのじゃが……髪の白い男に首を刎ねられるのじゃ」

 明神はそれを聞いても眉根一つ動かさなかった。

「悪い夢だな」

「それなんじゃ」

 狛は応えると鼻水を啜った。

「首を刎ねられるなんぞ縁起でもないのじゃ」

「そうか? 俺は少し羨ましい」

 明神が呟くと、狛は目を剥いた。

「ドMなのじゃ?」

「一体何処でそんな言葉を覚えて来るんだ」

「里にはテレビジョーンという箱型の奇妙な機械があっての、それで言っていたのじゃ。バニーガールに鞭で叩かれて喜んでいるおっさんが映っておったのじゃ」

「お前、もうそこには近付くなよ」

 狛は今でも逸れた母親を探し回っているので、その時に目にしたのだろう。こういうことを覚えて帰ってくると、少し心配になる。

「偶に全身銀タイツを履いた宇宙人が怪獣を倒す番組もやっているのじゃ。それは見ても良いじゃろ?」

「説明の仕方が秀逸だが、せめて番組名とタイトルくらいは覚えて帰って来い。でないと安易に返事が出来かねる」

 狛の説明を聞いていると何か教育に悪そうなイメージだが、多分特撮ヒーローのことを言いたいのだろう。橋本家へ行った時に何度か目にしたことはあるが、何分ここにはテレビがない。狛に何度か買えとせがまれたこともあったが、あんな高級品は買えないし、そもそもここまで電波が届かないだろう。

 狛は口をへの字に曲げると、火鉢にあたる為に部屋に入った。明神もそろそろ夕餉の支度をしようと腰を上げると、くれ縁を歩いて行く。雪が深々と積もっていた。

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