第7話 曼珠沙華

 茶色いドアに着けられたベルが鳴る。外の陽の光と一緒に店に入って来た少年を見やると、老人は丸眼鏡の奥で優しい眼差しを送った。

「おはよう」

 老人が店の奥から声をかけたが、彼は軽く頭を下げただけで声は無い。はたきで本棚の埃を落として行く。

 そんな姿に老人は嬉しそうに微笑んだ。老人の脳裏に、彼が幼かった頃の姿が思い浮かぶ。

 まるで赤い壱師の花の様な、すっと背筋の通った子供だと思った。臙脂色の作務衣姿の子供が、ずっと一人で物珍しそうに本棚を眺めている。そんな姿に老人は声をかけた。

「坊や、すまないが、お手伝いをお願い出来ないかな?」

 年端も行かぬ子供が、不思議そうに老人を見上げた。老人はにこりと笑うと、左腕の袖を捲り上げた。白い包帯を巻いた腕が覗く。

「腕を怪我してしまっての、難儀しておったのじゃ。君に手伝って貰えると助かるのじゃが……」

 子供は黙って頷いた。入庫したばかりの本を平台に並べて貰うと、老人はポチ袋を持って来て差し出した。

「ありがとう。お駄賃じゃよ」

 子供はそれを一瞥すると首を横に振った。老人が驚いた様に目を丸くすると、頼みもしないのに掃除をし始めた。店の奥から店先まで掃き掃除が終ると気が済んだのか、再度差し出したポチ袋を受け取ってくれた。

「良い子じゃの。もし良かったらまた手伝いに来てはくれないじゃろうか? 勿論、手の空いている時で構わないのじゃが……」

 子供がこくりと頷いた。それから時々店に来るようになった。手先の器用な子で、座布団に穴があく度に繕ってくれた。レジの使い方を教えたらちゃんと会計もするようになったし、適当だった老人の帳簿も、簿記や算盤の本を読んで勉強したのだろう、綺麗に整理してくれた。彼が来る前は棚卸しの度に不明があったのに、ここ何年かはそんなことも無くなった。とても気の利く良い子じゃった。良い子過ぎて、数日来ない日が続くと心配になる程だった。

「学校はどうかね?」

 いつもの様に老人は聞いてみた。先週は体育祭があったはずなのだが、そんな話も彼から聞くことは一度も無かった。彼が他の同い年の若者と笑い合っている絵がどうしても浮かばなかった。

「別に……」

 彼がそう応えるのを聞いて老人はにこりと笑った。

「いつも、丁寧に手伝ってくれているから助かっておるよ。ありがとう」

 彼が不意にこっちを向いた。可愛らしい女の子の様な整った顔で、切れ長な目に愛らしさがあった。耳の良い子で、特に善い言葉に敏感な子だった。

「おかげさまで」

 軽く会釈してそう呟いた。

「温恭な子じゃの」

 ふふっと老人が笑って言うと、少年は少し首を傾げた。

「貝原益軒の和俗童子訓で読んだけれど、人の口からそれを聞いたのは初めてです。そう見えますか」

「ほう……博識な子じゃの。温恭朝夕、事を執りて慎み有り……じゃよ。詩経にあるのじゃが……」

「詩経は読んでないです」

「ふふっ……中学生の読み物ではないかもしれんのぅ……いつだったか梁上の君子の話をしておったから後漢書辺りは読んでおるのかと思っておったのじゃが……」

 老人はそう話して、以前店の本を盗もうとしていた小学生が居たのを思い出していた。一冊四百円程の漫画雑誌だったのだが、お金を払わずに出ていこうとする子供に、彼は優しくその話をしていた。悪い習慣が重なって泥棒になってしまった話を、怒られると思っていた子供が不思議そうに聞いていた。

「国語辞典に載っていました」

「面白い子じゃのぅ」

 年齢にそぐわないその物言いが老人のお気に入りだった。彼が箒を持って店の奥から砂や埃を掃き出している。

 ドアに着いたベルが甲高い音を鳴らした。三十過ぎの若い女性が入って来ると、少年は本棚の裏に身を潜めた。

「こんにちは。明神くん居ますか?」

「ああ、そこに……」

 老人が指し示すと、少年は溜息を吐いた。

「今日一日、借りても良いですか?」

「ワシは構わんが……」

「人の貸し借りを本人の前でするな」

 明神が話に割って入ると、老人はにこりと笑った。

「君の社会勉強になるだろうと思ったのじゃが……」

「直人の誕生日プレゼントの買い出しに付き合ってほしいのよ」

 女性がそう話すと、明神は嘆息した。

「偶には、こんな田舎の小さな本屋にいないで、外の世界へ見聞を広めて貰いたいと思うのじゃが……」

 老人がそう言うと、女性は明神の腕を掴んだ。

「それじゃぁ借りて行きますね」

「ああ、明日、またおいで。土産話があると嬉しいのぅ」

 老人が手を振ると、少年と女性が出て行く。ドアのベルが鳴り終ると、老人は静かに微笑んだ。

「行ってらっしゃい……」

 老人はそう呟くと静かに目を伏せた。



 橋本 春香の運転する軽自動車に乗せられ、明神はぼうっと景色を眺めていた。金木犀の花の香りが窓の隙間から流れ込んでくる。田んぼの畦道に生えた曼珠沙華が赤い色を点けて綺麗に並んでいた。

「息子の誕生日プレゼントなら、息子を連れて行けば良いだろ」

「あの子は漫画かゲームしか興味が無いのよ」

「親が買い与えたいものと子供の欲しがるものが違うのは当然だろう。そこの摺合せは親子ですればいい。俺を巻き込むな」

「あの子、友達の家に遊びに行っちゃったのよ」

 春香の言葉に明神は視線を宙に投げた。

「俺にはよく分からん」

「子供なんだから遊びにくらい行くわよ」

「産褥の母の姿を忘れぬのが何よりの誕生日だろ」

 明神の言葉に、春香は目を丸くして明神を見つめたが、明神の表情は変わらない。

「徳川光圀の言葉で、自分を産む為に母が腹を痛め苦しんだ日だと……だから、子供の誕生日を祝うということを否定するわけでは無いが、毎年物を与えて手放しで可愛がるのはどうかと思う。それこそ親子で買い物へ行ったり、一緒に何かを作ったり、思い出を育むのも一つの手だと思う。俺はその方が良いと思う」

 春香は少し考えたが、自分の息子がそんな風に思っているとは到底思えない。

「直人はそう思ってないわよ」

 春香の言葉に明神は何も言えなかった。



 山の南側へ出ると、春香は商店街の駐車場に車を停めた。春香に手を引かれるまま、商店街のアーケードへ入って行く。洋品店へ入って行く春香の姿を見送ると、隣の本屋に目が行った。里の本屋よりも大きくて二階建てになっている。本屋に入ると、気付いた春香が明神に着いて来た。

「明神くんも漫画とか読むの? 私は少女漫画派なんだけど……ベ○バラとかお勧めよ」

 春香に聞かれ、明神は瞬きした。

「興味無い」

「じゃあ○ラスの仮面とか!」

「だから、興味無いって……」

「分かった! 手○ファンなんでしょ? 鉄腕ア○ムとか黒ジャ○クとかなら読んだことあるでしょう?!」

「直人に借りて読んだことはあるけど、巻数が多すぎて全部読んでない。活字と違って漫画は飛ばし読みが出来なくて時間かかるから読むのが苦手なんだ」

「じゃあ何ならいいのよ!」

 春香が詰め寄ると、明神は考える様に瞳を投げた。

「簿記三級くらいならまあいいんじゃないか?」

「直人への誕生日プレゼントじゃなくて! っていうかそんなの買って渡したら直人怒るわよ!」

「あのな、福沢諭吉も言ってるけど、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取り扱いの心得は普通日用に必要な実学なんだ。簿記はそれらを勉強するのに丁度良いんだ。家計簿つけさせる所から始めるのが一番良いとは思うが、中学生なら……」

「きー! 息子と同級生とは思えない!」

 春香が癇癪おこすと、明神は嘆息した。自分の息子とは全く性格が違うことは分かっているはずなのに、直人の誕生日プレゼント選びに自分を指名したのは、普段の直人の言動から適当なものを見繕ってくれるだろうとの魂胆があったのだろうとは思う。そう考えて最近の直人との会話で思いつくものといえばエロ本を拾得物横領していたことくらいで、それを踏まえると到底春香には言い辛い。そもそも親が子供に買い与える物では無いだろうとは思う。

「……成人向け雑誌とかに興味はあるらしいけど……」

 明神が呟く様に言うと、春香はそれを聞いて腕を組んだ。考える様に神妙な顔をしたので明神は何かおかしなことを言っただろうかと訝る。別に年頃なのだから、そういったことに興味が湧くこと自体は健全な方なのだろうとは思う。

「最近、ゾンビを倒したりするゲームにハマっているからスプラッターものに興味が出てきたのかしら……」

 なんて言われたものだから明神は齟齬が生じたのだと理解した。成人向け=暴力的なと春香は思ったのだろう。それも間違いではない。

「猥談だと言ったら解るか?」

 明神が問うと、春香は首を傾げた。

「Why?」

 所謂、死語だっただろうかと思ったが、これが理解できないとなると、艶本などと言った所で尚更困惑するのだろう。

「いや、いい。春香が買ってやりたいと思うものを買ってやれば?」

「それを決めかねているから明神くんを誘ったのよ」

「そもそもその発想が間違いだと思うんだが……」

 春香が頬を膨らませると、明神は嘆息した。

「成長期だから服とか靴とかでもいいんじゃないか?」

「服や靴は誕生日じゃなくても買ってるわよ」

「……俺もよくは知らないけど、直人の好きな銘柄とかあるんじゃないの?」

「あの子にブランド物なんて勿体無いわよ」

 そうこう言い合っているうちに正午になると、春香は明神の手を引いて定食屋へ入った。水とメニュー表を持って来た店員に「日替わり二つ」と早々に注文され、一番安いメニューをと思っていた明神が嘆息する。ポケットから財布を出して確認しようとすると、春香が笑った。

「私が勝手に注文したんだから、私が払うのは当然よ。だから気にしなくていいのよ。」

 春香に言われ、再び溜息を吐いた。

「その財布、手作り? 見せてよ」

 春香に言われ、明神は徐ろに差し出した。二つ折りの財布をまじまじと見つめている。

「中身見てもいい?」

 大した金額は入っていないし、財布の構造が気になるのだろうと思って頷いた。藍色に七宝柄の生地は着物を仕立て直したものだ。春香は財布を開けると、大きく口の開いた小銭入れに驚いていた。

「すごい。小銭が見やすい」

「中に仕切りがある方が使いやすい人も居るだろうが、俺はそのギャルソン財布の方が使い慣れている」

「へー……」

 春香は感心しながらお札入れを覗いた。仕切りがあって、千円札と五千円札とに分かれている。春香は財布を閉じて明神に返すと、明神はズボンのポケットに入れた。

「財布まで作っちゃうのね」

「誰でも作れる。作り方さえ覚えてしまえば壊れた時に自分で直せるし、自分の気に入った財布を作れるんだからその方が俺は良いと思う。自分が気に入って買うのも経済を回すためには必要なことだから贅沢だとは言わない」

 春香はそれを聞くと笑った。

「今度のバザー用に作ってくれない?」

 再来週辺りに、里でバザーがあるのは明神も知っていた。

「まあ、多くは作れないけど……」

「二つ三つで良いのよ。今年も子供用のシャツやズボンは作ってくれるんでしょう?」

「まあ……何枚か作ってはいるが」

 毎年、上下合わせて十枚くらい作って出すのが通例だった。着なくなった大人用の服の、シミがついている所を除いて子供用へ仕立て直したり、使い古されたタオルを雑巾にしたりしてバザーに出していた。それで売れ残ったものは里の施設へ行くのだが、里では子供服の種類が少ない為か毎年完売している。

 葬式があると里では弔旗を掲げるが、それが終ると使い所に困るので袱紗や数珠入れ、線香袋や座布団カバーなんかに仕立て直すこともあった。

「将来は洋服屋さんかな?」

「毎日気忙しい子育ての一助になるならと思って空いた時間に趣味程度で作っているんだ。店をやるつもりは今のところない」

 明神が話すと、春香は嬉しそうに笑った。定食が運ばれてくると、二人は其々手を合わせた。

「いただきます」

 たなつもの……といつもの和歌を呟いてから箸を伸ばした。



 店を何件か変え、あーでもないこーでもないと言い合って日が傾き始めていた。面倒だからさっさと決めてくれと思うが、なかなか決まらない。それ程悩むのなら息子を連れてくるなり、ある程度のお金を渡して好きなものを買えと言ってやればいいと言ったのだが、それにも納得しなかった。頭の中で国民の終身に「成らぬ堪忍するが堪忍」と書いてあったのを思い出し、千草屋の家訓に「堪忍は一生の相続」とあっただの、釈迦が忍辱の大切さを説いていただのと思い返しながら、早く諦めてはくれないだろうかとやきもきする。浜田弥兵衛だってオランダの長官ノイツの不法な仕打ちに何度も我慢したじゃないかと、それに比べれば大した事では無いと自分に言い聞かせた。

「時間に疎いから腕時計とか良いんじゃないか?」

 不意にアーケードの時計を見上げて呟いた。直人も春香も、時間に疎いと思う。別に悩んだりする時間が無駄とまでは言わないが、そんなことをしている間に寿命が終わってしまうと考えたりはしないのだろう。

「それいいわね!」

 やっと春香が納得し、時計屋へ入った。春香が適当に腕時計を取ると明神の腕につけてみる。

「直人のだよな?」

「あなた達、大体腕の太さ同じでしょう? ベルトの長さはこれくらいかしら……」

 ぶつぶつ言いながら並んだ時計を見ている。明神は腕時計を外すと、値段を見てそっと返した。今は手回しじゃなくて電波時計だから便利なのだろうと思うが、如何せん自分では手が届かない高級品の部類だった。まあ、無くても差し支えないし、祖父が残した懐中時計で事足りている。

「どれがいいと思う?」

 春香に聞かれ、値段を見てしまったばかりに腕時計などと言ってしまったことを心底後悔していた。

「防水はついている方が良いと思う」

「そうよね! 絶対に壊すわよね! あの子は……」

 そう言われ、尚更これで良かっただろうかと悩んだ。否、今ならまだ間に合うかとも思ったが、他に対案が浮かばない。自分が提案しておいて批判だけするのは以ての外だと思う。そうこう考えているうちに春香は既に腕時計を買っていた。まあ、これで自分が御役御免になるのならばいいかとも思いつつ、高い買い物についたじろいだ。

「今日は本当にごめんね」

 春香はラッピングされた箱を大事そうに持つと、明神の表情を伺う。全くもって心中穏やかでは無いのだが、もう表情筋が死んでいるのだろうと明神は思っていた。

「別に……」

「明日、直人の誕生日だから、晩御飯一緒に食べない?」

「忙しい」

 正直、この親子と一緒に居るのは楽しかった。けれども用が済んで屋敷へ帰ると、その落差がしんどい。この親子との時間が楽しければ楽しい程、一人になった時の寂しさに押し潰されそうになる。いい加減慣れなければならないと思うが、こればかりはどうしようも無かった。

 車に乗り込み、里へ向かって道路を走った。峠を越えると、いつもの田園風景が広がる。曼珠沙華の赤い花にほっとした。

「死人花が咲いてるわね。ちょっと怖いなぁ」

 不意に春香が呟くと、明神は瞬きした。

「俺は好きだけど」

「毒があるのよ?」

「その毒で土竜や野鼠から作物を守る役目もある。彼岸花の別名、曼珠沙華は『天界に咲く花』という意味で、めでたい事が起こる兆しに天から赤い花が降ってくるという仏教の経典から来ているんだ。怖がる必要はない」

 明神の話に春香は感心していた。

「知らなかった」

「別に知らなくてもいい。毒があるのは確かだし、地獄花や幽霊花なんて呼ばれることもある。けれどもだからといって悪い想像に引っ張られて悪戯に恐れるのは違う」

 春香はそれを聞くと笑った。

「天界に咲く花かぁ……そう言われるとまた花のイメージが変わるわね。不思議ね」

 単純な人だというのは以前から知っていたが、こんな話一つで今までの固定観念を覆されるのも彼女らしいといえば彼女らしい。

「一つ聞いてもいい?」

 春香に問われ、明神は首を傾げた。

「わいだんって何?」

「とりあえず帰ってから辞書引け」

 説明が煩わしくてそう言い放った。成人向け雑誌で大体察してくれと思うが、天然な所もある。本人に悪気が無いことは解るが、中学生にその意味を聞くのはどうかと思う。まあそもそもそんな言葉を使った自分も悪いのだが……かと言って他に言葉が浮かばなかったのはその話題に暗いからだろう。

 春香の家に着くと、明神は車から下りた。夕飯の買い出しにまで付き合わされ、買い物袋を持って下りる。玄関の上がり端に荷物を置くと、春香が声をかけた。

「明神くんから渡して貰えないかな?」

 春香がラッピングされた小さな箱を差し出すと、明神は嘆息した。

「そういうのは母親から貰った方が嬉しいに決まっているだろう」

「明神くんもそうだった?」

 春香に問われて戸惑った。

「俺には母親がいないから解らない。けれどもそうだろうと想像する。けど俺だったら、そんな高価なものよりも、母親を労る時間が欲しかった。自分を産んだことを喜んで貰える様な人間になることくらいしか孝行の方法がない俺と、直人とは違う。だから誕生日くらい、親子水入らずで楽んでほしいと思う」

 明神がそう言って出て行くと、春香は困った顔をして明神の背中を追った。

「明神くん、ごめんなさい。それからありがとう!」

 春香が叫んだが、明神は振り返らずに走って行った。



 そろそろ閉店の準備を……と老人は重い腰を上げた。今日は楽しめただろうかと色々と想像する。今度自分も、一緒に買い物へ行こうと誘ってみようかとも思ったが、彼がそこまで心を許してくれているとは思えなかった。だから多分、お互いにこの今の距離が丁度良いのだろうと思う。老人はそう考えてずれた平台の本を整理した。

 ドアのベルが鳴ると、老人は振り返りもしないで声を上げた。

「すまないね。もう閉店なのじゃが……」

 そう言って振り返ると、明神が入口のシャッターを下ろしているのが目に入った。老人は微笑むとレジ台のお金を数えた。

「お帰り。楽しかったかい?」

 シャッターを下ろし終わった明神に声をかけるが、明神は嘆息した。

「別に」

 土産話を期待していたのだが、そう返されて少し肩を落とした。元々こういう子ではあったから気にする事では無いのだが、少し残念ではあった。

「あんたは俺に興味が無いんだと思っていた」

 不意に明神にそう言われ、老人は驚いた様に目を丸くした。

「初めてここへ来た時に俺の名前も聞かなかった。ここへちょくちょく来ても親のことも家のことも聞かなかった。ただ不自由な左腕の手伝いが出来る人間がほしいだけだと思っていた」

「それは……」

 老人はそう言いかけて目を細めた。

「そう思わせてしまっていたなら申し訳ない。ただ、言いたくないこともあるだろうと思って聞かなかっただけなんじゃ。年齢の割に落ち着いているから苦労が多かったのだろうと想像した。ワシも十五の時に親を亡くしてから苦労した。それなりに大人になって結婚し、子供も産まれたが……」

 そう言いかけて老人は息を吐いた。

「妻と子供に先立たれてしまった。不幸な事故でな。その時に左腕も上手く動かなくなってしまった。じゃから、聞けなかったのじゃよ。辛いことを思い出させるのも可哀想だと思ったのじゃよ」

 老人の話に明神は目を伏せた。

「……そう」

「本来なら孫が居るような年齢のワシの話し相手になってくれて有り難いと思っておるのじゃよ」

 明神はそれを聞くと軽く頷いた。

「俺には家族がいない」

 明神はそう呟くと曼珠沙華を一輪老人に差し出した。

「彼岸花は日に願う花とも書く。この花が咲いている間くらいは、死者の冥福と、現し世の弥栄を日に願おうと決めている」

「優しい子じゃの」

 老人はそう言って受け取った。

「俺にはそれくらいしか出来ない」

「充分じゃ。これほど喜ばしいことはない。孝行な子じゃの」

 老人の目に涙が浮かんでいた。

 店の裏口から外に出て、明神と老人は別れた。老人は暗い道をとぼとぼと歩きながら貰った曼珠沙華を眺めている。

「弥栄か……最近は聞くことがなかったのう……」

 善い言葉を知っている稀有な子だと思う。まるでこの、壱師の花の様な子だと思った。あの子はどんな場所でも花を咲かせただろう。葉が無くとも赤く可憐な花を咲かせただろう。けれどもその美しさとは裏腹に他を寄せ付けない根の毒で、自らをも枯れさせてしまう哀れな子だと思う。言葉と感情の伴わない子だ。あの子は口先ではどれだけ綺麗な言葉を並べていても、心の底では全く逆のことを思っているのだろう。彼は自分の境遇を恨み、周りの幸せを妬んでいる。だから、表情が固いままなのだ。

「あの子にも、どうか幸せがやって来ますように……」

 少しでいい。彼の心を安らげてくれる幸せが、彼の中の毒を浚ってくれる水の様な幸せがやって来るように花に願った。

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